〈 四 〉月影の間
その夜、屋敷は風の音ひとつしなかった。
ただ月だけが、高く、青白く光っている。
燭台の火が消えた廊下を、李飛凛はそっと歩いていた。
胸の奥に、何かがざわめく。
(……仁麗。私を身請けした人。春霞は私であり、私ではない)
考えるたびに答えが遠のき、また最初に戻るを繰り返す。
しばらく廊下を歩いていると戸の隙間から、かすかな灯りが漏れている部屋があった。
李飛凛は息を潜め、そっと覗いた。
燭台の火が月明かりと交わる、淡い光の間。
そこにいたのは、仁麗だった。
机の上に巻物を広げ、筆を走らせている。
漆黒の袖が静かに揺れ、月光がその横顔を照らす。
そのまな差しは彫像のように冷ややかで、どこか遠い。
不意に、その筆が止まったのだ。
「……入ってこい」
こちらに視線を向けることもなく発せられた声。
それだけで、空気が張り詰める。
「……申し訳ありません。通りがかりで」
李飛凛が慌てて口を開くと、仁麗はすっとこちらに顔を向けた。
「いったい、何用だ」
「いえ、特には……。何もすることがなく歩いていただけでして……
そういえば、今朝いただいたお茶、とても美味しかったです」
「……ふっ、春霞。お前がそれを言うと、妙に不気味に聞こえてくる」
李飛凛は思いもよらぬ返答に唖然とした。
どういう意味なのか、まったく見当がつかなかった。
「言いたいことは、それだけか?」
「はい……」
「じゃあ部屋に戻れ」
「……あとひとつだけ、聞いてもよろしいですか?」
「早く言え」
「旦那様はなぜ私を、身請けなさったのか気になりまして」
仁麗は少し眉を寄せ、静かに問い返した。
「まさかあの〝約束〟を忘れたとは言うまいな?」
(約束……?)
李飛凛は苦笑いを浮かべ、気まずそうに頷く。
仁麗は沈黙したまま筆を置き、ゆっくりと立ち上がり背を向けた。
「……あの時からといい、お前ほど厄介な女は見たことがない。
さっさと部屋に戻れ」
それだけを言い放ち、再び机に向かう。
筆先が紙を擦る音が、静まり返った部屋に微かに響いた。
李飛凛が部屋の戸口にさしかかったとき、仁麗の声が背中に刺さった。
「約束は果たしてもらうからな」
李飛凛はただ頷くことしかできなかった。
◇
夜も深まり、屋敷が静まりかえった頃。
李飛凛の部屋に、何者かが忍び込んできたのだ。
鼻口を布のようなもので塞がれ、薬品が鼻を刺したかと思うと一瞬で意識が遠のいた。
——次に目を覚ましたときには、馬車の荷台のような場所で慌ただしい車輪音と振動が全身を揺さぶっていた。
目まぐるしく変わる状況の中、すぐそばで誰かの荒い息が混じっているのを感じた。
(誰……?)
あたりは深い闇に沈んでいて何も見えない。
両手足は縛られており、身じろぎすらできない。
声を上げようとしても喉がかすれるだけだった。
その瞬間、李飛凛は悟ったのだ——
自分は、どこかへ連れ去られているのだと。
恐怖が李飛凛の心を支配し始めていた。




