〈3〉忍び寄る微かな闇
それからいくらかも経たないうちに仁麗という男が″春霞″を迎えにきた。
ついにその時が来てしまったのである。
妓楼の前には一台の馬車が停車し、その時を待っていた。
玉玲の助けもあり、なんとか切り抜けた李飛凛はそれはそれは華やかに見送られた。
「春霞、幸せに暮らせよ」
先ほどの楼主が話しかけてきたのである。
たった一言だったけれど、きっと大切にしてもらっていたのだと感じた李飛凛は満遍の笑みを浮かべ、会釈した。
「お世話になりました」
建物の奥の方で玉玲がこちらに向かって手を振っていた。李飛凛は玉玲から貰った髪飾りを振りかざし、馬車へと乗り込んだ。
馬車に乗り込むと1人の男が座っていた。なんともプライドが高そうな、とても人相が悪い人間だった。
初見だった李飛凛はこんなにも人相の悪い男に嫁ぐなんてと心の中で衝撃を受けていた。
眉毛は太く毛深くつりあがり、吊り目気味に細い目、目の下にはくまのようなものがあった。
どこからどうみても悪人にしか見えなかった。
(なぜ春霞はこんな人と・・・)
静かに座り込むとその男は「挨拶もなしか」と一言冷たく言い放った。
「出してくれ」
すると馬車はゆっくりと走り出した。
先ほどの見送られた時とは打って変わってとても静寂な時間が流れていった。
玉玲には武官ということだけ聞いていたが、今にもへし折れそうな痩せ細ったような細い体は武官にはとても思えない体格だった。
(この人はいったい・・・)
春霞の日記には特にこの男に対する思いや出来事はなにも記されていなかった。ただ身請けが決まった、とだけ書かれていたのだ。
あまりにもジロジロ見られるものだから仁麗は不愉快そうに声を上げた。
「何か私に不満があるかね」
こちらに視線をむけた仁麗の冷たく低い声が右から左に突き抜けた。
「いいえ、何も・・・ありません」
なんとも冷ややかな空気が流れた。
身請けといえばもっと幸せなものをイメージしていたものだから、李飛凛にとってこの状況は奇々怪々(ききかいかい)なのであった。そのせいもあってこの先どうなるのかと、さらに不安が募っていった。
その男とは何も話すことはなく、何刻もの間しばらく沈黙が続いた。ただ、ガタガタガタガタと砂利道の続く音だけが車内に響いていた。
(どこまで行くんだろう・・・?)
風景は街から森、森から草原へと景色がどんどん移り変わっていく。
あれから何時間経っただろうか。馬車に乗り込んだ時は陽もまだ昇ったくらいだったというのに、もうすでに太陽もしずみかけ夕日が地平線の間でキラキラと輝いていた。
何時間経ってもその男の視線はゆらぐことはなく、ずっとまっすぐ外を見ている。
それからどのくらい経った頃だろうか、あたりは真っ暗だというのに遠くの方に一点の温かい灯りが宙に浮かんでいるのが見えてきた。すると野原にひっそりそびえ経つ小屋が、暗闇の中からうっすら現れたのである。
その小屋の前に馬車が停車すると1人の女性が門戸もんこの前に現れ、こちらにお辞儀をしていた。その人は40代くらいの女性で古びたその小屋とはそぐわない正装に、髪もしっかり整えられており李飛凛は不自然に感じたのだ。
「降りるぞ」と仁麗は久方ぶりににこちらに視線を向けた。
(この人春霞のこと本当に愛しているのかな・・・)
あまりにも辺鄙なところに連れて来られたものだから、ただただ不安に思う李飛凛であった。
すると小声でその女性と仁麗が話しているのが聞こえてきた。
「旦那様、わざわざこんな新月の日になされなくても」
「お前の嫌味はいらん。・・・ではこの女を頼んだぞ」
「承知いたしました」
すると仁麗は李飛凛に向かい話しかけてきたのである。
「春霞ここが今日からお前の家だ。何かあればこの女中に頼むといい」
男はそういうと、元来た道を馬車に乗り去って行った。するとその女性は再び深くお辞儀をしてこちらに視線を向けた。
「お嬢様、こちらへ」
李飛凛は『お嬢様?』と一瞬心の中で驚きはしたものの"春霞"のことすらをもよく知らないため何も言わずに従った。
その女性はなんともおしとやかでしたたかな雰囲気をまとっていた。表情はあまり変わらず、何を考えているのかわからないのが先程の男と似ていて少し怖かった。
小屋の中に入るとこじんまりとしていながらも几帳面に整理整頓されており、なにがどこにあるかが一目瞭然であった。
奥にある部屋には小さいベットもあり、台所には机と椅子が並べられていた。狭い小屋ではあったが快適に過ごせる環境であった。
李飛凛は以前の世界での生活とはなにもかもが様変わりしていて慣れない環境であったが、この小屋はどちらかと言うと昔懐かしく自分の実家に似通った部分もあってなんだかほっとする環境であった。
けれども李飛凛はなぜ身請けされたのに別居なのだろうという疑問だけが心に残った。とりあえずあの男と生活を共にするという最悪の状況は免れた、そう思う以外なかった。
「お嬢様とりあえずこれにお着替えください」
その女性は戸棚から何かを取り出してきて、それを李飛凛に渡したのだ。それは一着の上等な衣であった。
「私は姚燕と申します。ここがこれからお嬢様の暮らす家です。何かあれば私にお申し付けください」
渡されたものはあまりにもこの家とはそぐわない高価そうな着物だった。
着方もわからずもっと簡易的なものがいいと考えた李飛凛は姚燕に提案した。
「姚燕、私もっと気軽なものでいいわ。こんな上等なもの私には」
少し気が引けた李飛凛は、交換を求めたのだ。
するとあんなにも無表情であった姚燕が一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに表情を戻し質素な衣に変えてくれたのである。
「疲れましたでしょう、それでは朝食までこちらの部屋でお休みください」
案内された部屋はこじんまりとしながらも綺麗な部屋であった。李飛凛は早速床に寝転び、ふと窓の外を見た。
もう朝日が顔を覗かせていたのだ。
(街からどれほど遠くまできたのだろう・・・)
するとどこかで見た事のある鳥がゆうゆうと空を飛んでいるのが見えた。
「あの鳥・・・以前どこかで」
李飛凛はその日の出来事を思い返していた。
かけ布団を顔の半分くらいまで顔を覆い、まるで思春期の高校生のように目を輝かせていたのだ。一筋縄ではいかなくても、またとない人生のチャンスに心が躍らないわけがないのである。
(春霞になり変わったのにはきっと何か意味がある、きっとそれを解決しなければきっと災いが起こるに違いない。本当の春霞を探さなきゃ)
するとふと思い出したように胸元にしまっていた"春霞の日記"をおもむろに取り出した。そして今度はじっくり読み返したのだ。
(滲んで見えない部分に何か答えが?)
解読を試みたのだ。
『誰か・・・・・。助・・・怖い。妓楼のみんなを・・・・・・・・』
見えない部分は多かったものの、多少なり物々しい言葉に李飛凛は背筋が凍る思いだった。所々見えなくなっている部分はやはり解読するのは困難を極めたが日記を読んで2つ分かったことがあった。
なんと春霞という人物は李飛凛が目覚める前日まで生きていたのである。薄々勘付いてはいたがやはり春霞の″器″に私の魂が転移したに違いない。
そして"春霞"は何かに怯えていたことに違いなかった。結局のところ"春霞"の消息はどうなったかは日記からも読み取れなかった。
(しかし姚燕が言うお嬢様ということは仁麗に正式に嫁いだということで間違いないはずなのに・・・どうして別居なのだろう。それでは身請けした意味がない)
李飛凛にとってそこがどうしても腑に落ちなかったのだ。
床に寝転びながら読んでいた李飛凛だったが、急に体を起こし日記に指を差しその目を見開いた。
「待って、これ私の死んだ日・・・確か3/19よね。今日は3/21、ということは」
この世界は前世の世界と同じ日付で動いているということがわかったのである。
日記の最後のページには『3/19』の表記があった。
春霞が生きていたとされる時から李飛凛の意識が戻るまで1日も経っていないことがわかったのである。
(どういうこと・・・?)
背筋が凍る思いで脳内に思考を巡らせていると、急に耳に刺激が走った。
ーーー トントントン
驚いて戸の方を見ると姚燕が顔を覗かせていた。
「お嬢様、そろそろ朝食になります」
確かに先ほどから微かにいい匂いがしていたし昨日から何も口にしていないものだから流石にお腹がなって仕方なかった。
部屋を出ると美味しそうな料理がテーブルいっぱいに並んでいた。入院生活では病院食しか長年食べてこれなかった為、李飛凛にとって目の前に並ぶご馳走に心が躍る反面、ちゃんと食べれるか少し不安もあった。
ひとくち口に運ぶとほっぺたが落っこちる感覚に目をしょぼしょぼさせた。
「美味しい・・・」
普通の食べ物がこんなにも美味しいなんて思わなかったのだ。
「お嬢様のお口に合ってよかったです」
すると李飛凛の目に知らず知らずのうちに涙が浮かんでいた。
「お嬢様どうなされましたか」
李飛凛は首を横に振り「ごめんなさい、なんでもないの」と涙をぬぐいながらご飯を食べすすめた。
あの頃思い描いていた初めて"普通の人"になりたいと言う夢がその瞬間叶った気がしたのである。
(春霞こんな思いをさせてくれてありがとう)
心の中で祈った。
そんな中一つ気になったことがあったのだ。こんなに狭い空間なのにテーブル横に立ち尽くしている姚燕が気になってしょうがなかったのだ。
「姚燕は食べないの?」
「お嬢様が食べ終わった後に頂きます」
身分とかを気にしない時代に生きてきた李飛凛にとってすごく煩わしかったのである。
「・・・どうせなら姚燕も一緒に」
「ですが・・・」
李飛凛は半ば強引に席に座らせた。
姚燕は少し苦笑いを浮かべたようだったが、李飛凛にとって召使いのいる環境やしきたりなどまったくどうでもよかったのである。
「あの・・・姚燕一つ聞きたいことがあるの・・・」
「私が答えられることでしたら何なりと」
「今日って何日なのかしら」
「本日は3月21日でございます」
「あ、ありがとう。あとこんなこと聞いていいのか分からないのだけれど・・・私はなぜ身請けされたのかしら。旦那様と別に暮らすのにはなにか理由が?」
すると姚燕はしばらく沈黙した後「私の口からはお答えすることができません」と答えたのだ。
(姚燕は春霞についても仁麗についても何か知ってるに違いない)
李飛凛はそう考えたのだ。
しかし一呼吸置いたあと姚燕は言葉を続けた。
「ですが・・・旦那様との約束を守られなかった。とのことでこちらに連れてこられているはずです」
「約束・・・?」
「はい」
李飛凛は考えた。
(春霞の日記には何も書いてなかったし、もしかしたら記されていたのかもしれないけれど、滲んで見ることができない。その約束を春霞が守らなかったから仁麗と同居しなくて済んだのは良いけれどこれでいいのであろうか。約束とは・・・?)
自分とは違う誰かとの約束はどう行動しても知る由がない。
「姚燕はずっとここで暮らしているの?」
「いえ、お嬢様のお身請けの日の少し前にこちらへ」
「そうなの・・」
(ということは姚燕はもともと仁麗の女中ということになるわね)
すると李飛凛は重い口を開いた。
「・・・あのね、こんなこと信じてもらえないかもしれないけれど。私、昨日からの記憶がなくなってしまっていて、今の状況が全く理解できないでいるのよ」
「・・・それはどういうことでしょうか」
姚燕は開いた口が塞がらないようだった。
「嘘をつくならもっとマシな嘘をついたほうがよろしいかと」
「わかってる。信じてもらえないわよね、こんなこと。いいの、信じてもらえないからこそ話したのよ」
「ではあの事もご存知ではないので?」
「あの事・・・?」
李飛凛は顔をしかめ頭を横に傾げた。
「いえ・・・・」
表情ひとつ変わらない姚燕が少し驚いたように目を泳がせた。
すると少し小屋から遠く離れた所から馬のいななきが聞こえてきてら次第に馬の足跡のような音が大きくなってくるのが聞こえてきた。
ーーーー ヒヒーン!
何頭かわからないが複数の馬のいななきと鼻息が静かな小屋に鳴り響き、静かだった空間が一気に戦場になったかのように物々しい空気になった。
少したってからすごい音量で門戸がなった。
ーーードンドンドン、ドン!
「おい!この戸を開けろ!」
急に鳴り響く大きな音にに李飛凛は背筋が凍り動けずにいた。姚燕も少し驚いたようだったが少し間を置いてから急足で門戸に近づいた。
「・・・こんな朝に誰ですか」
恐る恐る問いかけた姚燕の表情は先程までとは違い、緊迫した様子がひしひしと伝わってきた。
「いいから早くここを開けろ。皇帝陛下の命令だぞ」
その男の声が小屋に鳴り響いた。