〈 三 〉鳥籠
廊下を歩くたび、磨かれた木を擦るような音がした。
姚燕は軽やかな足取りで先を行き、時折こちらを気にして振り返る。
翡翠色の衣の裾が、光を受けて淡く輝いていた。
「こちらが、春霞お嬢様のお部屋でございます」
姚燕が部屋の戸を開けると、柔らかな香がふわりと漂った。
部屋は広く、窓には簾れんが掛けられている。
その向こうには庭があり、竹が風にそよいでいるのが見えた。
〝春霞〟
そう呼ばれるたび、李飛凛の胸の奥がざらりと波立っていた。
自分以外の誰かの存在を認めざるおえなくなるからだ。
(…私は李飛凛。けれど肉体も容姿も〝春霞〟という女性のもの。
私は私じゃない。
ずっと考えないようにしていたけれど。
……彼女は一体どこへ?)
李飛凛の中で違和感だけが残る。
(彼女も死亡したと考えるのが普通だけど、周りの対応に違和感がない。
気になるのはこの状況くらいだけど……でもどうやって)
考えても答えは出なかった。
(新しい人生を始めるなら絶好の…機会)
ただ見知らぬ身体に別の人生が流れている感覚——
それが、なによりも恐ろしかった。
李飛凛は長椅子にひっそりと腰を下ろした。
「お荷物、ここに置かせていただきます」
姚燕はそう言うと、机の上にそっと置いた。
その動きには無駄がなく、どこか繊細さがあった。
「あの……あのお方は今どこに?」
「あの方? ……仁麗様のことでしょうか?」
「仁麗?」
「はい、旦那様です」
「あのお方は、仁麗というのですね」
姚燕は不思議そうに首を傾げる。
「……旦那様はお忙しい方なので」
「そうですか……
どうしても聞きたいことがあるんです。
身請けはもっと幸せなものだと思っていました
どうして私なんだろう……
このまま旦那様と生活していくなんて、想像できなくて」
姚燕は眉をひそめると、わずかにためらってから口を開いた。
「旦那様は自分のことを話されることもないので、何をお考えなのかまでは」
「そうですか」
李飛凛は、肩を落とした。
(このままではいずれ……)
姚燕は気まずさを隠すようにおじぎをして部屋を出ると戸をそっと閉めた。
光が一段と弱まり、部屋の空気がしんと落ち着く。
(勢いで聞いてしまったけれど怪しまれたかしら……)
少しして姚燕は盆に茶碗をのせ戻ってきた。
湯気の立つ茶碗からは、茶葉のほのかな香りが立ちのぼっていた。
「いい香り……」
「こちらの茶葉は〝夜玄露〟という茶葉でございます。旦那様が好んでよく飲んでおられます。
夜明けに摘んだ若葉だけを使ったものだとか」
李飛凛は一口茶を飲んだ。
「美味しい……」
初めてこの世界に来てから口にしたものであったが生前口にしたものに中でも間違いなく一番高級ということは違いなかった。
「あの方は、決してお心を見せられないお方ですから。
こうした人間らしいお話を聞くと、少しほっこりしますよね」
姚燕の瞳が、ふと遠くを見るように揺れた。
李飛凛は、その表情にかすかな違和感を覚えた。
まるで彼女が、仁麗という男に対して何かあるかのようだった。
「あなたは、旦那様に仕えて長いのですか?」
「五年ほどになります」
「……怖く、ないのですか?」
一瞬の沈黙ののち、姚燕は微かに笑った。
「もちろん、怖いときもございます。でも、それ以上に……不思議なお方なのです」
李飛凛は息を飲んだ。
胸の奥で鼓動が静かに早まる。
自分がいた世界には存在しなかった——そんな種類の人間。
「そういえば旦那様がお言伝を残しておられました」
姚燕は一拍置いてから続ける。
「……私からは誠に大変申し上げにくいのでございますが、
〝この屋敷の外には出るな〟とのことです」
「……そ、そうですか」
李飛凛は視線を揺らすも、再び自由のない生活が始まるのだと悟った。
かつての記憶が胸をかすめ、表情が陰る。
(体は動くようになっても……自由になれたわけじゃないんだわ)
部屋は明るいはずなのに、空気は重く沈んでいた。
その様子を見て姚燕は慌てふためく。
「詳しい理由は存じません……。ただ、旦那様がそのようにお決めになったので」
彼女は深々と頭を下げ、逃げるように部屋を後にした。
——そして再び、部屋に静寂が戻る。
庭の竹林がざわざわと揺れていた。
(この世界に来ても私は何かに囚われている……どこに行っても何かに囚われてしまうのかしら。
〝春霞〟あなたは一体、何に囚われているの?)
問いかけても、返るのは沈黙だけだった。




