〈 三 〉静寂と
屋敷の中に、庭の竹林がざわざわと会話しているような音だけが響き渡っていた。
廊下を歩くたび、磨かれた木を擦るような音がして心が研ぎ澄まされるかのようだった。
姚燕は軽やかな足取りで先を行き、時折こちらを気にして振り返る。
翡翠色の衣の裾が、光を受けて淡く輝いていた。
「こちらが、春霞お嬢様のお部屋でございます」
姚燕が部屋の戸を開けると、柔らかな香がふわりと漂った。
部屋は広く、窓には簾が掛けられている。
その向こうには庭があり、竹が風にそよいでいるのが見えた。
春霞——
そう呼ばれるたび、胸の奥がざらりと波打つ。
けれど、否定する言葉は出せずにいた。
(私は李飛凛なはずなのに肉体も容姿も彼女——〝春霞〟のもの。
だから私は彼女として振る舞うしかない。そうしなければ怪しまれて殺されるかも……
けど彼女は一体どこへ行ってしまったのだろう)
何度考えても答えは出ない。
見知らぬ身体に別の人生が流れている感覚——
それが、なによりも恐ろしかったのだ。
李飛凛は長椅子にひっそりと腰を下ろした。
「お荷物、ここに置かせていただきます」
姚燕はそう言うと、机の上にそっと置いた。
その動きには無駄がなく、どこか繊細さがあった。
「あの……旦那様はどうして、私をこの屋敷に……?」
姚燕は眉をひそめると、わずかにためらってから口を開いた。
「……詳しくは存じ上げません。官のお勤めもございますので、いつもお忙しく……何をお考えなのかまでは」
李飛凛は、わずかに肩を落とした。
(私は、どう振る舞えばいいのかしら……
このままではいずれ正体が露見してしまう)
姚燕はそっと戸を閉めた。
光が一段と弱まり、部屋の空気がしんと落ち着く。
ぼうっとしている間に、姚燕は盆に茶碗をのせ戻ってきた。
湯気の立つ茶碗からは、茶葉のほのかな香りが立ちのぼっていた。
「いい香り……」
「こちらの茶葉は〝夜玄露〟という茶葉でございます。旦那様が好んでよく飲んでおられます。
夜明けに摘んだ若葉だけを使ったものだとか」
「旦那様が……」
「あの方は、決してお心を見せられないお方ですから。
こうしたお話を聞くと、少し……ほっこりしますよね」
姚燕の瞳が、ふと遠くを見るように揺れた。
李飛凛は、その表情にかすかな違和感を覚える。
まるで彼女が、仁麗という男に心を預けたことがあるかのように。
「あなたは、旦那様に仕えて長いのですか?」
「五年ほどになります」
「……怖く、ないの?」
一瞬の沈黙ののち、姚燕は微かに笑った。
「もちろん、怖いときもございます。でも、それ以上に……不思議なお方なのです」
李飛凛は息を飲んだ。
胸の奥で鼓動が静かに早まる。
自分がいた世界には存在しなかった——そんな種類の人間。
「そういえば旦那様がお言伝を残しておられました」
姚燕は一拍置いてから続ける。
「……私からは誠に大変申し上げにくいのでございますが、
〝この屋敷の外には出るな〟と」
「……そうですか」
李飛凛は視線を落とした。
再び、自由のない生活が始まるのだと悟った。
かつての記憶が胸をかすめ、表情が陰る。
(体は動いても……自由になれたわけじゃないのね)
空気が重く沈んだ。
「詳しい理由は存じません……。ただ、旦那様がそのようにお決めになったので」
姚燕は深々と頭を下げ、逃げるように部屋を後にした。
——そして再び、部屋に静寂が戻る。
庭の竹林がざわざわと揺れていた。
(この世界に来ても私は何かに囚われている……
〝春霞〟あなたは一体、何に囚われているの?)
問いかけても、返るのは沈黙だけだった。




