〈 二 〉漆黒の男
馬車の揺れは、思いのほかゆったりとしていた。
外は明るくなっていて、山並みが遠くにぼんやりと霞んでいる。
都を離れてどれほど経っただろうか、もうわからないほどに走っていたのだ。
車輪の軋む音と馬の息づかい、そして籠の揺れだけが静かに時を刻んでいる。
しかしながら、隣に座る男の存在が李飛凛に聞こえるはずのあらゆる音をかき消していた。
息をすることさえも忘れるほど、圧倒的な緊張感が体を包んでいたのだ。
漆黒の男はあれから一言も発していない。
顔をこちらに向けることもなく、ただ前を見据えている。
灯が時折その頬を照らし、冷ややかな光が瞳の奥で揺れていた。
(この人が私を……
——とても怖そうな人だわ)
そう思うたびに胸の奥がひどく締め付けられる。
柳蘇が言っていた〝身請け〟という言葉が、今でも棘のように胸に引っかかっている。
けれど、どれだけ思い出そうとしても記憶は霧のように掴めなかった。
◇◇
やがて、馬車が止まった。
戸が開くと、森にひっそりと佇む屋敷が見えた。
〝翡翠庵〟
立派ではあったが、どこか寂寞とした気配を漂わせている。
塀の外には竹林が揺れ、遠くに小川のせせらぎが聞こえる。
「降りるぞ」
低く、冷たい声が静寂な空間に響き渡った。
李飛凛は反射的に身をすくめるも、恐る恐る歩みを進めた。
しかし、彼女にとってその一歩が今までで一番遠い気がしていたのだ。
馬車を降りると風はひんやりとしていて、どことなく湿ったような土の匂いが鼻をかすめた。
靴底が石畳をかすかに鳴らす。
「あの……」
「ここが、お前の新しい住まいだ。侍女の姚燕が世話をする。余計なことは聞くな」
その瞳がまっすぐにこちらを射抜き、身動きが取れないほどの圧を放った。
何ひとつ揺らがないその黒い瞳——
まるで、感情というものを全て封じ込めたかのようだった。
男はそれ以上何も告げずに、こちらに背を向けた。
漆黒の裾が風に揺れ、砂利を踏む音が遠ざかっていく。
気がづけば男の姿は門の向こう、屋敷の中へと消えていた。
その背を見送っていた李飛凛は、門の脇にひとりの女性が立っていることに気がつく。
翡翠色の衣をまとい、落ち着いた気品のある女性だった。
「お嬢様、私は姚燕と申します。これからお嬢様のお世話をさせていただきます」
どこか懐かしいような、柔らかく澄んだ声だった。
李飛凛が戸惑いを隠せずにいると、姚燕は穏やかに微笑む。
「ご安心下さい。ここは都とは違いますが、静かで良い所です。
——あのお方も、滅多にこの屋敷にはおられませんので」
「……なぜいらっしゃらないのですか?」
李飛凛は思わず問い返してしまったのだ。
姚燕は不思議そうにこちらに視線を送るも、少しして微笑んだのだ。
「官史のお仕事もございますゆえ。……もしかしてお嫌ですか?」
「いえ……」
「旦那様はあのようなお方ではありますが、意外と人間味溢れるお方なのですよ。
どうぞ、そんなにご緊張なさらずに」
姚燕は荷を受け取ると軽やかな足取りで、屋敷の中へと歩き出した。
その後ろ姿に導かれるように、李飛凛もまた一歩を踏み出す。
静かな屋敷の中に二人の足音だけが響き渡る。
中庭の池に反射した光が屋敷内に届き、暗がりの中で翡翠色に煌めいていた。
その光景はまさしく〝翡翠庵〟と呼ぶに相応しい眺めだった。
「綺麗ですね……」
「ですよね、私も気に入っております。旦那様もこの景色をよくこの景色を眺めておられますよ」
「あの……。
私はなぜ身請けされたのでしょうか。旦那様はとても冷たく……」
姚燕は李飛凛の言葉に足をとめた。
「すみません、失礼でしたよね! 旦那様のことを、よく知らないもので……」
「……詳しいことは私にもわかりません。ですが、何か事情があるとか」
そう言うとまた足をゆっくりと進め始めた。
(事情……?金銭的な何かだろうか)
姚燕の背中ですらも、遠く感じたのだ。
遠くで、水面に泡が弾けるような音がかすかに聞こえた。
それが運命の始まりを告げる音だったのか、それともただの風のいたずらだったのか——
李飛凛には、まだわからなかった。




