〈2〉空白の記憶
その少女の名は玉玲といった。
玉玲は"春霞"とは別人だという李飛凛にとまどい疑いながらも、状況を自分なりに理解し淡々と答えてくれた。
「お姉さんの名は″春霞″で、私は春霞姉さんと呼んでるよ。でね、ここは冥国の城下町。花街の妓楼だよ。春霞姉さんの昔の話は詳しく知らないんだけど私と同じく小さい頃からこの妓楼で働いていたって言ってた。それでね、今日は姉さんのハレの日、身請けの日なんだ。本来なら喜ばしい日だけど・・その身請け人は"仁麗"という怪しい武官でね。人相が悪いんだけど春霞姉さんは二つ返事で了承したって・・・だけどやっぱりちょっと心配なんだ」
「・・・じゃあ今日私はその仁麗という人の元に嫁ぐのね・・・・」
そして李飛凛は天国でも地獄でもない自分が暮らしていた現代とは遠くかけ離れた古代中国、王宮時代に来ていたことを知り、拍子抜け状態、まさに青天の霹靂であった。理解が追いつかないのも当たり前である。前世の記憶があり、生まれ変わるわけでもなく全く知らない別人に成り代わっているのだから。
「だけど本当に春霞はどこへいってしまったんだろうか、そして私はなぜ春霞に成り代わったのだろう」
「もぅ・・・!本当に春霞姉さんどこ行っちゃったの」
「前世で私は死んでるから向こうの世界で李飛凛に成り変わったというのは考えづらい。こうなったのにはきっと何が意味があるはず」
情報が全くない知らない人の家に嫁ぐという事は地獄である。そしてもうひとつの思惑があった。それは中身が違う人間だからこそ"赤の他人"ということがバレてしまうのではないかということだった。
何があった訳ではなく昨日の今日で記憶が無くなったなどと、都合のいい言い訳が通じる訳がない。そう考えるだけで、先ほどまでとはうってかわって不安と恐怖の感情が交差していた。
李飛凛にとって地獄の時間に成り代わってしまったのである。
ふと、鏡台の左側に視線を向けると書物のような物が開かれて置いてあった。
(何かで文字が滲んでしまっていて見えない・・・)
李飛凛はその書物が気になりスっと手にとってみると表紙にも、裏表紙にもなにも書かれておらず、書物全体がボロボロな状態であった。
「玉玲これなんだろう」
2人して書物を開いてみると、文字が書かれていたので李飛凛は少しばかり読んでみた。
「今日は」
「お姉さん文字が読めるの?」
「まぁね入院してる時はやることがなかったし」
「へぇー」
少し嬉しそうに玉玲は聞いていた。
きっとこの時代には字が読める人のほうが珍しいのかもしれない。
「これはきっと日記だ。ここに今日は玉玲に私の宝物をあげたって書いてある」
「きっと、あの赤いかんざしのことだよ。今持ってくるね」
そう言うと玉玲は部屋を出ていった。
読み進めていくと最初は日常の出来事が書かれている"普通の日記"だったのに対し、終盤に差し掛かるにつれて筆跡も荒れ、見ていられないような内容へと変貌していった。
先ほど開かれていた最後のページは水のようなもので濡れたのか所々滲んでしまっていて見えなくなっていたのだ。
そう、その本は"春霞の日記"だったのである。
(これを読み解けばもしかしたら真実に辿りつけるかもしれない)
しばらくすると廊下の向こうから、いそいそとこちらに向かってくる足音が近づいてくる音がした。
(玉玲じゃないな)
李飛凛は急いでその日記を、懐隠した。
すると「はぁ、はぁ。」と足早にやってきたのは、楼主であった。
「春霞これ・・・渡し忘れるところだったよ」
楼主が渡してくれたのは、小さな青翡翠の丸い耳飾りだった。
石の中には砂金のようなものが何個か埋め込まれていた。
「なんて綺麗な首飾り」
「お前の母親から預かっていたものだよ。きっといつか役にたつから。大切に持っておくんだよ。誰かに見せることのないようにな」
李飛凛は初めて見る宝物を前に喜びのあまり思わず笑みがこぼれた。そしてそれを首から下げ、見えないようにしまった。
「早く降りてきな。みんな待ってるから、」
そういうや否や楼主は静かに部屋を立ち去った。
すると玉玲が戻ってきたのである。
「お姉さん、これがさっきの日記に書いてあったかんざしだよ」
その赤く塗られたかんざしはとても綺麗だった。
「姉さん私も渡したいものがある」
すると玉玲は自分の髪から飾りをとりそれを李飛凛に手渡した。
「こっちのかんざしはあげれないけど、このかんざしはお姉さんに渡したい。これはね、私がここに来た時知らない人ばかりで悲しくて泣いて部屋にこもってたの。そんな時に春霞姉さんがくれた髪飾り(お守り)なんだ。だけど今春霞姉さんはここにはいない・・・だから今度はお姉さんが持っててほしいの、そして絶対春霞姉さんを見つけて。私が探してたって伝えて欲しい・・・お願い」
少し悲しげに話す玉玲の瞳には、懐かしさと寂しさでいっぱいのようだった。
「わかった、絶対見つけるから。任せて」
玉玲は"春霞"の手に置き、その髪飾りを握らせた。
李飛凛は全く知らない子だったけれども少々自分に重なった部分があって他人とは到底思えなかった。この年齢でこれほどまでちゃんとした子がどれほどいるだろうか、どれだけ自分で考え行動してきたのだろう。
李飛凛は新しい環境に身を据える厳しさを理解できていたからこそ玉玲が他人事のようには見えなかったのである。
「お姉さん、いい報告待ってるからね」
李飛凛は玉玲の頭を撫で頷いた。
そう伝えると玉玲は少し涙を浮かべながら、満遍の笑みで首を軽く横に振った。
(私がここにいることには必ず意味があるはず・・・まずは“春霞"を探さなきゃ)
李飛凛はそう決意した。
「そういえば、姉さん。とりあえずこのこと誰にも話さないほうがいいよね」
「そうだね。2人だけの秘密」
「うん、だって中身が成り代わるなんてありえないしみんな絶対怪しむよ。・・そうだ記憶喪失になったとでも言えばきっとなんとかなるよ」
「そうだね、そういうことにする」
「あの約束忘れないでね」
李飛凛は笑顔を返しながら「もちろん」と答え部屋を出た。階段を降り、楼主の元へと向かったのだ。