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迫る悪が蘇るまで  作者: アスノヨミタ
第一章 終わりの始まり

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3/19

〈 二 〉漆黒の男


 馬車の揺れは、思いのほかゆったりとしていた。

 外は明るくなっていて、山並みが遠くにぼんやりと霞んでいる。


 都を離れてどれほど経ったのか、もうわからなかった。

 車輪の軋む音と馬の息づかい、そして籠の揺れだけが静かに時を刻んでいる。

 

 しかし、隣に座る男の存在が、李飛凛に聞こえるはずのあらゆる音をかき消していた。

 息をすることさえも忘れるほど、圧倒的な緊張感が体を包んだ。


 漆黒の男はあれから一言も発していない。

 顔をこちらに向けることもなく、ただ前を見据えている。

 灯が時折その頬を照らし、冷ややかな光が瞳の奥で揺れていた。


(この人が私を……

 ——とても怖そうな人だわ)


 そう思うたびに胸の奥がひどく締め付けられる。

 柳蘇リュウソが言っていた〝身請け〟という言葉が、今でも棘のように胸に引っかかっている。

 けれど、どれだけ思い出そうとしても記憶は霧のように掴めない。


 やがて、馬車が止まった。

 戸が開くと、森にひっそりと佇む屋敷が見えた。


 〝翡翠庵〟


 立派ではあったが、どこか寂寞せきばくとした気配を漂わせている。

 塀の外には竹林が揺れ、遠くに小川のせせらぎが聞こえる。


「降りろ」


 低く、冷たい声が静寂な空間に響き渡る。

 風はひんやりとしていて、どことなく湿ったような土の匂いが鼻をかすめた。

 李飛凛は反射的に身をすくめ、恐る恐る外へ足を下ろした。

 靴底が石畳をかすかに鳴らす。


「あの……」

「ここが、お前の新しい住まいだ。侍女の姚燕ヤオイェンが世話をする。余計なことは聞くな」


 その瞳がまっすぐにこちらを射抜き、身動きが取れないほどの圧を放っていた。

 

 何ひとつ揺らがないその黒い瞳——

 まるで、感情というものを全て封じ込めたかのようだった。

 男はそれ以上何も告げずに背を向けた。


 漆黒の裾が風に揺れ、砂利を踏む音が遠ざかる。

 気がづけば男の姿は門の向こう、屋敷の中へと消えていた。


 その背を見送っていた李飛凛は、門の脇にひとりの女性が立っていることに気がついた。

 翡翠色の衣をまとい、落ち着いた気品のある女性だった。


「お嬢様、わたくし姚燕ヤオイェンと申します。これからお嬢様のお世話をさせていただきます」


 どこか懐かしいような、柔らかく澄んだ声だった。

 李飛凛が戸惑いを隠せずにいると、姚燕は穏やかに微笑む。


「ご安心下さい。ここは都とは違いますが、静かで良い所です。

 ——あのお方も、滅多にこの屋敷にはおられませんので」


「……あのお方とは一緒にいなくて良い、と言うことですか?」


 李飛凛は思わず問い返した。


「お嫌ですか? 旦那様はあのようなお方ではありますが、意外と人間味溢れるお方なのですよ。どうぞ、そんなにご緊張なさらずに」


 姚燕は荷を受け取ると軽やかな足取りで、屋敷の中へと歩き出した。

 その後ろ姿に導かれるように、李飛凛もまた一歩を踏み出す。


 静かな屋敷の中に二人の足音だけが響き渡る。

 中庭の池に反射した光が屋敷内に届き、暗がりの中で翡翠色に煌めいていた。

 その光景はまさしく〝翡翠庵〟と呼ぶに相応しい眺めだったのだ。


「綺麗ですね……」

「私も気に入っております。旦那様もこの景色をよく眺めておられます」


「あの……。私はなぜ身請けされたのでしょうか。旦那様はとても冷たく……」


 姚燕は李飛凛の言葉に足をとめる。


「すみません、失礼でしたよね! 旦那様のことをよく知らないもので……」

「……詳しいことは私にもわかりません。ですが何か事情があるとか」


 そう言うとまた足をゆっくりと進めた。

 

(事情……?)


 遠くで、水面に泡が弾けるような音がかすかに聞こえた。

 それが運命の始まりを告げる音だったのか、それともただの風のいたずらだったのか——

 李飛凛には、まだわからなかった。

 

 

 

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