〈 一 〉夢と現実
——『李飛凛』
その名を呼ばれた気がして、彼女はゆるやかに目を開けた。
鳥の囀が響き出してまだ間もない頃だろうか。
窓の方を見るとまだ薄暗く、空がうっすらと色づき始めていた。
見知らぬ天井、絹の帳が波のように揺れている。
鼻をかすめたのは、白檀よりも深く、どこか甘い香の香り。
薄紅の燭がゆらめき、部屋の中を柔らかく照らしている。
(……ここは、どこだろう?)
長い間目にしてきた真っ白な天井、肌色のカーテン、鼻に刺す消毒の匂い——
その全てが、もうどこにもなかった。
慌ただしい人の声も、機械の音も、一人で寝るには狭すぎる硬いベットですら跡形もない。
(ここが死後に来る世界なのね……)
静まり返った部屋に李飛凛の息遣いだけが響く。
寝ぼけているのだと一度顔を叩くも、しっかり痛かった。
私は昨日死んだ、はずだ。
なのに息をしていて体も動いている。
ここが〝天国〟なのだとそう理解する以外なかったのだ。
——あの声を聞くまでは
ふと、身体を起こそうとすると、絹の袖が音もなく流れた。
(……手が、白い)
見慣れた手ではなかった。
雪のように白く細く、まるで誰かのもののような手。
身体も嘘みたいに軽い。
よく耳を覚ますと遠くから琴の音や、笑い声が混じって聞こえてきた。
その時だった。
戸のすぐ外から女の人の声がしたのだ。
「春霞姐さん、お目覚めですか? 支度をいたしましょう」
李飛凛は息を呑んだ。
(……春霞、姐さん……?)
返事をする間もなく、戸が開かれる。
入ってきたのはまだ年端もいかない少女二人と年配の女だった。
妓楼の老鴇、柳蘇とその下女二人だった。
柳蘇は甘い香をまとい、金糸の帯を締め、慈しむような笑みを浮かべている。
「今目覚めたのね。まぁちょうどよかったわ。
玉玲、水鬽」
柳蘇はそう言って下女たちに目配せをし、窓扉を開けた。
当たり前のように投げかけられる言葉に李飛凛の心は追いつかない。
「……あ、あの。ここは……いったい。……天国、ですよね?」
きまずそうに流し目を送るも、柳蘇は呆れたように眉をひそめ、ため息をついた。
「なにを言っているの? ここは仙鳳楼ですよ。
あの方が、先ほどあなたをお迎えにいらしてね。
……まさか、身請けの日を忘れていたなんて言わないでしょうね?」
そう言いながら、柳蘇は嘲笑まじりに手際よく荷物をまとめはじめた。
——身請け
その言葉に、胸が一瞬締めつけられる。
何か大切なことを思い出しそうで、思い出せない。
柳蘇は首を傾げながらも、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「寝起きは誰でも、ぼんやりするものよね」
そう言って特に気にする様子もなく、どことなく楽しげだった。
考える暇もなく、目まぐるしく準備は進んでいく。
髪をすき、薄化粧を施す。
彼女の容姿はその少女らによって煌びやかに変わっていった。
鏡の中の自分は、知らない誰かの顔をしている。
(あなたは一体、誰……?)
紅を帯びた唇、水のように艶めく黒髪。
そこにいるのは李飛凛ではなく〝春霞〟という名の女性だったのだ。
胸の奥で鼓動が早まる。
「さぁ、参りましょう」
何かが始まろうとしているのを感じるのに、理解する時間を与えてくれない。
そしてその流れは、自分では止められないのだとそう悟ったのだ。
部屋を出る途中、弱りきった蘭花が視界の隅に入った。
「あの……」
「どうしたの? 何か忘れ物?」
「……こちらの蘭花は持っていってもいいですか?」
「構わないけど、……もう枯れてるのに」
「いえ、まだ持ち直せますから」
「そう……それなら。あなたずっと大事にしていたものね」
李飛凛はそれを受け取ると少しだけ微笑んだ。
(この世界でもまた蘭花と巡り会えるなんてね)
蘭花は李飛凛にとって、人生そのものだった。
家柄、生まれた時に贈られ生涯をともにするのが習わしだったからだ。
(まだ助けられる……)
李飛凛は慎重に蘭花を包むと荷物にまとめてもらった。
柳蘇の手に引かれ、李飛凛は階を下りる。
燭台の小さな灯りが廊下を照らし、行く先を導いているかのようだった。
白檀や沈香より甘いその独特な香りが鼻をつく。
門戸にうっすらとかかる紅い帳の向こうで、何かの気配がした。
まだ陽も昇りきらぬ妓楼の前に、一台の馬車がぽつりと止まっていたのだ。
冷たい空気が肌を刺す。
馬の吐く息が白く立ちのぼり、車輪が軋む音だけが朝の静けさを破っている。
「向こうに行っても、どうか幸せにね」
渡されたのは蘭花と小さな包みだった。
「……ありがとうございます」
柳蘇の瞳には、どこか懐かしいような、別れの寂しさのような光が揺れていた。
しかし、身請けとはこれほどまでにひそやかなものだっただろうか。
李飛凛は生前抱いてた印象との違いに、少し違和感のようなものを覚えていたのだ。
◇ ◇
馬車に乗り込むと、漆黒の衣をまとった男が静かにこちらを見ていた。
鋭い瞳、そしてどこか闇を帯びたようなまな差し。
まるで全てを見透かすようなその視線に思わず息を呑んだ。
この瞳にはきっと情も慈悲もない、ただただ冷酷な感情だけが滲み出ていた。
「……春霞、結局お前の出した答えはこれか?」
その声が低く車室に響いた瞬間、胸の奥で何かが震え、足が止まった。
〝この女性が怯えている〟
李飛凛は瞬間的にそう感じたのだ。
その男は不可解そうに彼女を見つめている。
しかし、李飛凛は何事もなかったように静かにその男の隣に腰を下ろした。
「出してくれ」
馬車はゆっくりと走り出した。
——その日、彼女は初めてこの世界で息をした。
そして運命は、静かに動き始めたのだ。




