〈1〉新たな世界
「春霞、春霞!ほら、起きな。今日はお前にとって大事な日だろう」
かなり年老いたおばさんの大きい声が頭に響いて李飛凛はハッと目を覚ます。
鳥の囀が響き出してまだ間もない頃だろうか。
窓の外を見るとまだ薄暗く、空がうっすら橙色に色づいていた。
「んっ・・・・」
李飛凛はうすら目をこすりながらゆっくりと辺りを見渡した。
(・・・ここはどこだろう・・・私は死んだのか)
赤を基調にした部屋には高級感のある家具が並べられていた。
左の壁には何色にも塗られた金色の鳳凰の絵があり、部屋の中央には立派な花瓶が置いてあった。花瓶の花は枯れていた。
(天井が・・・部屋が白くない・・・)
李飛凛はそう気がつくとなにやら静かに考え始めたのである。まだ寝起きの李飛凛は病院でないことは理解できたけれど、ここがどこかは見当もつかなかった。
だが、長い間白を基調にした天井の一室に横たわるだけの生活を送っていた李飛凛にとってその光景は新鮮そのもであった。
きっと寝ぼけているのだと一度顔を叩くも、しっかり痛かった。
以前いたはずの部屋には大きな肌色のカーテン、自分の体に繋がる管の数々、鼻にふわっと香る薬品の香り、慌ただしい看護師さんの声、そしてとても1人で寝るには狭すぎる硬いベット。それが跡形もなく消えていたのだ。
ふと体を起こそうとおもむろに手を床につきフッと力をいれた。すると李飛凛は体が異様に軽くなっていることに気がついた。
李飛凛は驚きのあまり目を見開くも、腕はスっと肩の上まで上がり、体を起こすことも腕をつかずに起き上がれる。以前は体を起こす事すらもかなり苦労していたのに俊敏に起き上がれるものだから、李飛凛の脳内は徐々に喜びが溢れていった。思わず笑みがこぼれ、『フフッ』と声が出たかと思うと、ある言葉がふと脳裏を横切ったのである。
それは『天国』と言う言葉だった。
(死んだことには変わりないけれど、痛みもなくなってこうして生きている。まさにここは天国だわ)
今まで患っていた病気もすっかりなくなったようで、体も軽くなった李飛凛は部屋を駆けずり回り喜んだ。
やっと色々なものから解放されたのである。
生涯そのほとんどの時間において体が思うように動かないのが自分の体だったものだから、彼女にとってそれが最高の"はじまり"だったのである。
ふと立ち止まり足の裏に感覚を集中させた。地面に足を下ろし立ち上がることなんて李飛凛にとってはもう久方ぶりである。床には素敵な絨毯が敷かれていて、その感触はものすごく柔らかかった。
足の裏で自分の体重を感じ、何に触れるのなんてもうはるか遠い昔のことでその時の感触はもう覚えていなかった。
もう一度床に飛び込み、仰向けになり天井を見上げた。
(夢じゃないんだ・・・)
白くない天井を見る日が来るとは思っていなかったものだから喜びが隠せないのであろう。
息を切らすのも汗をかくのも初めてのようなものだった。
しかし汗を腕で拭ったその時、李飛凛は違和感を覚えた。自分の腕が思ったより肉付きがよく以前より肌もどことなく白かったのである。最後に自分の顔を見た時は肌もカサカサになっていて肌の色もくすんでいた。
ふと右に視線を向けるとそこには鏡台らしきものがあった。鏡を覆っているものが少しズレて自分の姿が少し映っていた。
気になった李飛凛はその鏡台に近づいた。病状が重くなってからというものの痩せ細っていく自分の姿を見ていられずしばらく顔すらも拝むこともなかった。
そればかりに、自分の姿を見るとなると少し怖かったのだ。
李飛凛は恐る恐るその布を剥がしてみると、そこに映る姿に腰を抜かした。
鏡に映るのは自分ではなく違う別の"誰か"、だったのである。両手で顔を覆うと、指も細く肌も白く絹のようにスベスベで、胸も豊かで体もくびれていていたのだ。その姿は死ぬ前の李飛凛とは大違いであった。驚きのあまり背筋が凍り、一瞬体が固まった。
(・・・天国に来ると顔が)
その鏡に映るのは誰が見ても美人と思えるような美貌を持ち合わせた人物で李飛凛は息を呑んだ。
だが、全く別人ということではなく見たことがあるような顔でどこかホッとする部分もあったのだ。
(前世の記憶はあるのに別人・・・天国に行くと天女のような存在になるっていうのは本当みたいね)
李飛凛は容姿などどうでもよかったのである。今確かに病に侵されていないその状況だけで幸せだったのだ。
すると静かな空間に″トントントン″と部屋の戸が鳴る音が響く。李飛凛は驚き全身が硬直した。
「春霞姉さん、入るよ」
すると7、8歳くらいの幼い女の子が部屋の中へそそくさと入ってきた。
李飛凛の姿を見るや否や驚いた顔を見せ、「嘘でしょ姉さん。今日こそはちゃんと準備しなきゃいけないっていうのに、なんで今日に限ってまだ寝起きのまんまなの?早くここに座って」と呆れた様子で話しかけてきた。
すると何も反応のない李飛凛に対し不審に思うも、そっちのけでそそくさと何かの準備を始めていた。
李飛凛はというと青天の霹靂とばかりにその子を見つめ微動だにしなくなっていた。
何が起きているのかわからない李飛凛はおそるおそる少女から離れ何もわかりませんという顔で床に座りこけていた。
すると廊下から起きがけの女性がまたもや訪問してきたのである。
「ちょっと春霞さっきからなにしてるの?騒々しいんだけど」
眠たそうに話す花雪という女性は少し衣がはだけ少々目のやり場に困る服装であった。
「花雪姉さんは準備の邪魔しないでよ」
「まったく玉玲は朝からいちいちうるさいんだから。私もあとでよろしくね」
「はいはい」
その時ふとある事に気がついたのである。
(ここはどこ?さっきから何度も聞く名前″春霞″。春霞って・・・私?)
考えれば考えるほど訳がわからず驚き、動かなくなっていた体を無理やり動かし、鏡台の前に座り玉鈴に聞いた。
「ねぇねぇ玉玲、さっきから何度も聞く名前のことなんだけど・・・」
と、横目に玉鈴を見つめる。
玉鈴は首を傾げながら不思議そうに見つめ返した。
「・・・春霞って私のこと?」
すると玉玲は顔をしかめながら渋々反応した。
「あー春霞姉さん、私のこと馬鹿にしてる?」
「あはは・・・だよね」
そういうと2人は作り笑いを浮かべ笑い合うも李飛凛は今起きてる状況がなおさらわからず1人混乱していったのである。
「今日が身請けの日だからってなんかおかしくなっちゃったの?まぁあの仁麗だもんね」
そういうや否や何事もなかったかのように李飛凛の髪の毛をとかし始めた。
李飛凛は身請けだのなんだの情報が多すぎてしばらく考えるも、やっぱり自分の置かれている状況が理解できなかったのだ。少し間をおいてから「ねぇねぇ」ともう一度少女に話しかけた。すると「もぅ、姉さん。さっきから何?仕事終わらないじゃん」
少し怒り口調で返事が返ってきたことに李飛凛は流石に気まずかったものの少し改まって聞き返した。
「いや・・・あのね、ちょっと聞きたいんだけど・・・。ここって『天国』だよね?」
「ハハ、姉さん、もういいよそういう冗談。早く支度しないと楼主にまた怒られるよ」
すると李飛凛は自分が死んでいないことに気がつき取り乱したのである。
「・・・えっ、違うの?・・ここって」
「今日おかしいよどうしちゃったの?」
少し困惑気味に玉玲は聞き返す。
「私は昨日死んで・・・」
「死んで?ってちょっともう、どういう事」
李飛凛のその様子を見てただ事じゃないと感じ始めた玉玲は少し真剣に話を聞いた。
「春霞姉さん落ち着いて」
まだ幼いのに大人びでいるその少女は優しかった。
「姉さんどうしたの?」
「玉玲私は誰なの・・・?」
「姉さんは・・・春霞姉さんでしょ」
「私は・・・」
すると階段下の方からさっきのお婆さんの声が鳴り響いた。
「春霞、いい加減にしな!もう幾分かしないうちにお迎えが来るだろう。早く降りておいで」
「姉さんとり会えず準備を」
少女はそそくさそそくさと、なにやら色々と引き出しから物を取り出していく。
煌びやかな着物や飾り、化粧道具らしきものが目の前に並んでいった。
李飛凛は死んだはずなのに、全く知らぬ場所でどうして生きているのかまるでわからなくなり、体の力が抜けてぼーっとしていた。するとあっと言う間に誰が見ても豪華絢爛で美しい姿へと変貌を遂げていたのであった。
李飛凛はその姿をみて「すごい・・・」と言葉をこぼした。
「そりゃ姉さん達に育ててもらった私だもん」
すると少し間をおいてから李飛凛が口を開いた。
「あのね玉玲・・・信じてもらえないと思うんだけど私きっとみんなが思ってる人と、違うと思うの」
「それって姉さんが春霞姉さんじゃないってこと?」
李飛凛は静かに頷いた。
「えっ、どういうこと・・・?」
「私ね、昨日まで病院にいたの・・・それで昨日、死んだはずなのよ。とても重い病気で最後は体すら動かなくて。あまりにも天界のような場所だったから天国かと」
「病院?はよくわからないけどここは天 天界じゃないよ。姉さんの姿はいつも通りだけど・・・確かに変。いつもと違うよね。っていうことは中身が違う人っていうことなの?」
「たぶん・・・」
「じゃあ本物の春霞姉さんはどこへ・・・?」
「それはわからない。だけど私の名は春霞じゃなく、李飛凛と言うの。それに彼女のようにこんなに美しい容姿ではなかった」
李飛凛は鏡に映る自分が以前とはあまりに掛け離れていて恥ずかしさすら覚えていた。
玉鈴は信じられないとばかりに口が開いて閉まらない様子だった。
「・・・またいつも冗談って思いたいんだけどちがうんだよね。じゃあ春霞姉さんはどこなの?」
玉玲は急に泣き出した。
突拍子もないことに驚いたのだろう。ただでさえ身請けという別れが待っていたというのに。李飛凛はそう思ったのだ。
(私は死んだはずなのに春霞という人物に成り代わっている。本当の春霞はどこへ?)
すると李飛凛はしゃがみこみ泣いている玉鈴に目線を合わせて話しかける。
「玉玲、大丈夫。きっと私が本物の春霞を見つけるから。だから泣かないで」
「・・・本当に?」
玉玲は涙を拭い笑みをこぼした。
確かに玉玲は子供ながらに苦労をしてきたことからきっと大人びてしまったのだろうと。だけどまた内面は子供でとても素直でいい子だと李飛凛は思ったのだった。
「とりあえず身請けされる前に色々知っておきたい事があるんだけど、教えてくれる?」
玉玲は頷いた。
李飛凛にとって玉玲はまだ幼いけれどこの世界で初めて自分の事情を知る人物ができたことに少し心強さを感じていたのであった。