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迫る悪が蘇るまで  作者: アスノヨミタ
第一章 終わりの始まり

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2/16

〈 一 〉夢と現実

 

 ——『李飛凛リフェイリン


 その名を呼ばれた気がして、彼女はゆるやかに目を開けた。


 鳥の(さえずり)が響き出してまだ間もない頃だろうか。

 窓の方を見るとまだ薄暗く、空がうっすらと色づき始めていた。

 

 見知らぬ天井、絹の帳が波のように揺れている。

 鼻をかすめたのは、白檀よりも深く、どこか甘い香の香り。

 薄紅の燭がゆらめき、部屋の中を柔らかく照らしている。


(……ここは、どこ?)


 長い間目にしてきた真っ白な天井、肌色のカーテン、鼻に刺す消毒の匂い——

 その全てが、もうどこにもなかった。

 慌ただしい人の声も、機械の音も、一人で寝るには狭すぎる硬いベットですら跡形も消えていたのだ。


(ここが死後に来る世界なのか……?)


 きっと寝ぼけているのだと一度顔を叩くも、しっかり痛かった。

 

 私は昨日死んだ、はずだった。

 なのに息をしていて体も動いている。


 ここが〝天国〟なのだとはじめは本気でそう思っていた。


 ——あの声を聞くまでは

 

 ふと、身体を起こそうとすると、絹の袖が音もなく流れた。


 (……手が、白い)


 見慣れた手ではなかった。

 雪のように白く細く、まるで誰かのもののような手。

 身体も嘘みたいに軽い。

 遠くからは琴の音や、笑い声が混じって聞こえていた。


 ——その時だった

 戸のすぐ外から女の人の声がしたのだ。

 

春霞チュンシアねぇさん、お目覚めですか? 支度をいたしましょう」


(……春霞チュンシア、姐さん……?)


 返事をする間もなく、戸が開かれる。

 入ってきたのはまだ年端もいかない少女二人と年配の女。


 妓楼の老鴇ラオバン柳蘇リュウソとその下女二人だった。

 老鴇ラオバンとは妓楼における責任者で、遊女の管理や教育など現場を取り仕切る者である。


 柳蘇リュウソは甘い香をまとい、金糸の帯を締め、慈しむような笑みを浮かべている。


「今目覚めたのね。まぁちょうどよかったわ。

 玉玲ユィリン水鬽スイメイ


 柳蘇はそういうと下女二人に目配せをし、窓扉そうひを開ける。

 当たり前のように投げかけられる言葉に李飛凛リフェイリンの心は追いつかずにいた。

 

「……あ、あの。ここは……天国、ですよね?」


 李飛凛は流し目を送ると、

 柳蘇は呆れたように眉をひそめ、ため息をつく。


「なにを言っているの? ここは仙鳳楼センポウロウですよ。

 あの方が、先ほどあなたをお迎えにいらしてね。

 ……まさか、身請けの日を忘れていたなんて言わないでしょうね?」


 そう言いながら、柳蘇は嘲笑まじりに荷物を手際よくまとめはじめた。


 ——身請け

 その言葉に、胸が一瞬締めつけられる。

 何か大切なことを思い出しそうで、思い出せない。

 

 柳蘇リュウソは首を傾げながらも、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。


「寝起きは誰でもぼんやりするものよね」


 そう言って特に気にする様子もなく、どことなく楽しげだった。


 考える暇もなく目まぐるしく準備が進む。

 髪をすき、薄化粧を施す。彼女の容姿はその少女らによって煌びやかに変化をとげた。


 鏡の中の自分は、知らない誰かの顔をしている。

 

(あなたは一体、誰……?)

 

 唇は紅を帯び、黒髪は水のように艶めいている。

 そこにいるのは李飛凛リフェイリンではなく、「春霞チュンシア」という女性というのだ。


 胸の奥で鼓動が早まるのを感じた。

 

「さぁ、参りましょう」


 何かが始まろうとしているのを感じるのに、私に理解する時間を与えてくれない。

 そしてその流れは、自分では止められない、そう悟ったのだ。


 部屋を出る途中、弱りきった蘭花が視界の隅に入った。


「あの……」

「どうしたの? 何か忘れ物?」

「……こちらの蘭花は持っていってもいいですか?」

「構わないけど、……もう枯れてるのに」

「いえ、まだ持ち直せますから」

「そう……それなら。あなた大事にしていたものね」


(この女性も蘭花を大切に……

 この世界でもまた蘭花と巡り会えるなんて)


 蘭花は李飛凛にとって、人生そのもの。

 見過ごすことはできなかった。


 李飛凛の家系は生まれた時に蘭花が贈られる風習があり、

 その生涯をともにするのが習わしだったからだ。


(まだ助けられる……)


 李飛凛は慎重に蘭花を包むと荷物にまとめてもらった。


 柳蘇リュウソの手に引かれ、李飛凛は階を下りる。

 階下には小さな燭台が並び、小さな灯りが廊下を照らしていた。

 白檀や沈香より甘いその独特な香りに導かれるように歩みを進める。


 門戸にうっすらとかかる紅い帳の向こうで、何かの気配がした。

 

 妓楼の外に出ると冷たい空気が肌を刺す。

 

 まだ陽も昇りきらぬ妓楼の前に、一台の馬車がぽつりと止まっていた。

 馬の吐く息が白く立ちのぼり、車輪が軋む音だけが朝の静けさを破っていた。

 

「向こうに行っても、どうか幸せにね」


 渡された荷物は先ほどの蘭花と小さな包みだった。


「……あ、ありがとうございます」


 咄嗟に出た言葉、これしか思いつかなかった。

 柳蘇の瞳には、どこか懐かしいような、別れの寂しさのような光が揺れていた。


(身請けってこれほどひそやかに行われるものなんだっけ……)


 もっと華やかに執り行われるものと思っていただけに、李飛凛は意外でならなかったのだ。


 馬車に乗り込むと、漆黒の衣をまとった男が静かにこちらを見ていた。

 鋭い瞳、そしてどこか闇を帯びたようなまな差し。

 まるで全てを見透かすようなその視線に思わず息を呑んだ。

 このにはきっと情も慈悲もない、ただただ冷酷な感情だけが滲み出ていた。

 

「……春霞チュンシアお前、これでいいんだな」


 その声が低く車室に響いた瞬間、胸の奥で何かが震え一瞬だけ足が止まった。


 〝この女性が怯えている〟

 李飛凛は瞬間的にそう感じたのだ。


 その男は不可解そうな表情で李飛凛をじっと見つめている。

 李飛凛は何事もなかったように、静かにその男の隣に座ると

 馬車はゆっくりと走り出した。 

 

 ——その日、彼女は初めてこの世界で息をした。

 そして運命は、静かに動き始めたのだ。



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