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迫る悪が蘇るまで  作者: アスノヨミタ
第一章 終わりの始まり

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〈 十八 〉その夜

「ひとつ聞きたいんです。あの時なぜ、知らないふりを?」

「……私は盧氏の密偵として雇われた身だからよ。鳳月と繋がりがあることが知られたら両者共々終わり。

 そう、私は鳳月と深い関わりがある」

「深い関わり?」

「ええ。彼女がなぜ妓楼に隠されていたのか、その真相を知っているのは私だけ」

「隠されていたって、何故?」

「まぁいろいろあってね、話すと長くなる。一つ言える事はね」

 

 姚燕は一度言葉を切った。

 

「今も昔もあなたは誰かに命を狙われている、ということよ。

 ……だからかもね、自分に関わった全ての人の未来を救うことが彼女にとって最期の願いだった。だから自死を決断したのかもしれないけれど。

 だけど今はもうその段階の話じゃない。蘭家の血が残っていると知られてしまった……

 知られてしまった以上、奴らは必ず動く。血眼になって探しにくるわ」


 姚燕はゆっくりと立ち上がる。

 その瞳には、凍てつくような光が宿っていた。


「盧氏の根城は宮廷内よ。──動くときが来たんだわ」


 ◇

 

 姚燕との面会を終えたあとも、李飛凛の胸は静まらなかった。

 言葉の端々に滲む〝盧家〟の影──それが何を意味するのか、まだ掴めずにいた。

 

 ただひとつ確かなことは、もうそっとしておいてくれる人はいないということだった。

 

 あれから姚燕と、互いに背中を預けるような約束を交わした。

 ただ一つ、〝霍明蕨には内密に〟という条件を交わして。


 いつの間にか日は沈み夜の闇へと落ちていた。

 灯の光が頬を掠めていた。

 

(なんにせよ、姚燕に別世界からきたということを打ち明けてしまった)

 

 心の奥に、形にならない不安がじわりと広がっていく。


(……今日は眠れそうにないな)


 薄衣を羽織り庭へ出た。

 風が竹を鳴らし、遠くで水の音がした。


 その音に導かれるかのように李飛凛は一歩一歩進んでいく。

 先ほどまでとは打って変わってあたりは鎮まりかえっていた。

 

 やがて、いつも鍵がかかっている門の前に辿り着いた。

 

(開いてる……)

 

 少しだけ開いている門戸を恐る恐る押し開けると、そこには視界いっぱいに広がる大きな庭があったのだ。

 

(庭と呼ぶには広すぎるし、庭に対して何もない空間がこんなにあるのはなんだか違和感だ……)

 

 夜更けの宮は、息を潜めるように静まり返っていた。

 月明かりだけが庭の石畳を淡く照らし、風が梢を撫でて通り過ぎてゆく。


 ──その時だった。


 竹林の向こうにある池のほとりに人影が揺れたように感じた。

 震える手を押さえてその方へと歩みを進めた。

 そよいでいる風が冷たかった。

 しばらく歩くと、淡く光る灯のふもとに水面を見つめている人影を見つけたのだ。

 

 李飛凛は安堵したように息を吐いた。

 灯の明かりに照らされた頬はどこか儚げで、どこか懐かしいようにも感じたのだ。


「……誰だ」

 

 月明かりの下、彼の目が確かに李飛凛の姿を捉えた。


「す、すみません。すぐに出て行きますね」

「待て! 出て行かなくていい。……好きにしていろ」


 その声は冷たく響いたが、どこか掠れていた。


「あなたは……」

「……あぁ霍明蕨フォミンジュエだ」

 

 その名を聞いた瞬間、李飛凛の肩がわずかに震えた。


「この間の……」

「……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、霍明蕨の口角がわずかに下がった。

 瞳には怯えも驚きもなく、ただ静かな湖面の澄んだ光だけが宿っていた。


「眠れぬ夜はいつも、いつもここに来るんだ。……忘れることができないものがあってな」

 

 憔悴しきった彼の様子に気がついたとき、心のどこかが静かに沈んでいった。

 

「……実は、私も眠れなくて」

 

 消え去ったはずの記憶が、月光のように霍明蕨の胸を刺す。

 遠い日の痛みを呼び覚ますかのように、心の奥で複雑な感情が絡み合っていたのだ。


「あの、官史様はなぜここに来るのですか……?」


 風がふたりの間を吹き抜けると、彼の眉がわずかに揺れた。


「私のことをそう呼ぶな。……明蕨と呼んでくれ」


 そう冷たく言い放つと霍明蕨は視線を背けた。


「ですがそれは無礼では……」

「無礼なんかじゃない……私は君の……いや、なんでもない」

 

 静かに、ただ静かに彼は顔を上げた。心を整え精一杯の微笑を浮かべる。

 その表情には誰も触れてはいけない深い傷のようなものが李飛凛には透けて見えたのだ。


 李飛凛は何か言いかけて、唇を結んだ。

 夜風が再びふたりの間を抜け、灯が揺れる。


「……み、明蕨様」


 李飛凛は戸惑いながらも微笑んだ。


「なんだ」

 

 少し恥ずかしそうに目を泳がせる。

 

「私、あなたに会ったことが無いはずなのに、どこかで見た気がするんです」

「それは……思い出した、ということなのか?」

「い、いえ……そういうわけではなくて」

  

 その言葉に、霍明蕨の胸が一瞬だけ疼いた。

 忘れようとしていた記憶の奥で、遠い春の日の声がよみがえる。


「鳳月……私は」


 名を呼ばれ、伏せていた視線がゆっくり上がる。

 一拍おいて振り向き、口元に淡い微笑みが浮かんだ。

 その姿を見て彼は微笑み返した。


「……君はまた、そうして私に笑いかけてくれるのか」


 その言葉を向けられた瞬間、李飛凛は思わず瞬きをした。

 胸の奥が、きゅっと掴まれたように詰まり、次の息を吸うタイミングを失う。


 前世では、決して知ることのなかった感覚だった。

 期待した覚えも、欲した覚えもないはずなのに、彼の声がなぜか耳の奥に残り、消えない。


『嬉しい』

 そう認めてしまえば楽なのに、その感情を鵜呑みにできなかった。


 視線を逸らし、無意識に口元を引き結ぶ。

 表情が崩れるのを恐れるように、感情を胸の奥へ押し込める。


 それでも、心のどこかで小さく温かいものがほんわかと灯っているのを感じた。

 戸惑いの中に紛れたその灯は、消そうとするほど、かえって存在を主張してくる。


 ──知らなかった。

 言葉ひとつで、こんなにも世界の輪郭が変わることを。


 月が雲間から顔を出す。

 淡い光の下、ふたりはただ静かに見つめ合った。

 その邂逅が、後に多くの運命を変えていくことを、まだ誰も知らなかった。


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