〈 十七 〉再会
あの屋敷にいた侍女、姚燕と再会できたのは、それから一週間ほどが過ぎた頃だった。
李飛凛はすっかり屋敷での生活に慣れ、与えられた静けさの中で、のんびりとした日々を送っていた。
意識を失ったあの日の出来事も、この世界へ来たという事実も、今もなお夢の続きのようで、現実味はほとんどなかった。
屋敷での暮らしは穏やかだったが、あまりにも静かで、時折退屈さを覚えることもある。
起きては庭を散策し、亭に腰を下ろして池を眺め、空を仰いではうたた寝をする。そんな変わり映えのしない日々が続いていた。
池を泳ぐ鯉たちは、まるで絵巻から抜け出してきたかのように本当に美しい。
前世では気にも留めなかった風の気配や花の香を覚え、ほんのわずかだが、未来のことを思う余裕も生まれていた。
──そのときだった。
砂利を踏む音が、張り詰めた静寂を割いた。
音のする方へ視線を向けると、霍雨軒が数名の護衛を伴い、こちらへ歩いてくるのが見えた。
「元気にしていたかい、春霞。屋敷での暮らしには慣れたかな」
「おかげさまで。ありがとうございます」
「そうか。それならよかった」
一週間ぶりに見る霍雨軒は、あの夜と変わらず穏やかで、人の心を静める不思議な佇まいをしていた。
彼の屋敷で暮らしてはいるものの、顔を合わせる機会はほとんどなかった。
身の回りの世話は侍女たちが担い、彼自身は不在がちなのだと聞いていたからだ。
「春霞。以前会ったことがあると思うが、紹介したい人がいる」
そう言って、霍雨軒は一歩脇へ身を引いた。
その背後から、ひとりの女性が音もなく姿を現す。
「あなたは……」
彼女を見た瞬間、李飛凛は思わず息をのんだ。
かつてあの屋敷で目にした侍女の面影はあるものの、まるで別人のようだったからだ。
色鮮やかな衣に身を包み、髪には金の簪が揺れている。
凛とした立ち姿の奥に、言葉では表しきれない妖しさが滲んでいた。
そう、それは仁麗の侍女・姚燕だったのだ。
真相を知りたいという思いと、あの刺客を差し向けたかもしれない男に仕える存在への恐れ。
相反する感情が胸の内で絡み合う。
「お嬢様、お久しぶりでございます」
「あなた……本当に姚燕、なの?」
姚燕は深く一礼すると、亭の下に据えられた石の腰掛けへ、静かに腰を下ろした。
風も音も吸い込むような動きに、一切の無駄はない。
「私は約束通り、池のほとりにでもいるとしよう。話が済んだら声をかけてくれ」
霍雨軒はそう言い残し、護衛とともに庭の奥へと去っていった。
人の気配が完全に消えた、その瞬間だった。
姚燕の表情が、がらりと変わった。
周囲を一度だけ確かめるように見回した後、彼女は震える手で李飛凛の腕を掴んだ。
「蘭鳳月……。どうして、あなたが生きているの?」
「え……?」
その顔には、先ほどまでの冷ややかさはなく、人間らしい感情が露わになっていた。
李飛凛の思考は、完全に追いついていなかった。
「私の前で嘘をつかなくていい。記憶喪失なんて、咄嗟についた言い訳でしょう? 二人で決めたじゃない……〝未来〟を守るって。それに、妓楼のみんなを見捨てるなんて、いまだに信じられない。一体、何があったというの?」
姚燕は両手で李飛凛の顔を覆い、そのまま嗚咽を漏らした。
上品な装いの奥に、長く押し殺してきた痛みが、堰を切ったように溢れ出す。
「どうして何も言わないの?」
「あの……本当に、私、知らなくて」
「とぼけるというのね……。あの日の前日まで、あなたの記憶は確かにあった。それなのに突然、すべてを失うなんて……そんな都合のいい話、あるわけがない」
「……」
「それに、あれは致死量の毒よ。記憶に作用する類のものじゃない。記憶だけを失って生き延びたなんて……考えにくいわ」
李飛凛は思わず胸を押さえた。
姚燕の言葉から、蘭鳳月の死が計画的だったことが伝わってきたからだ。
(彼女は……一度、死んでいる可能性がある。まさか、その器に……)
不安に思う李飛凛をよそに姚燕は話を続けた。
「あの男は周りくどいけれど、きっともう動いている。盧徳翠は、そういう男よ」
──盧徳翠。
その名が口にされた瞬間、李飛凛の背を冷たいものが走った。
初めて聞くはずの名なのに、身体が拒絶反応を示しているかのようだった。
姚燕の告白は止まらない。
盧徳翠こそが仁麗であるということ。
そして、蘭鳳月が契約の日を過ぎて生きていた場合、〝身請け〟という名目で事実上自由を奪われる運命だったこと。
絡み合う人物関係に、李飛凛はめまいを覚えた。
「……私を殺そうとした人が、盧徳翠?」
震える声で問いかけると、姚燕は目を細めた。
探るような、疑うような視線。
「まぁ、違うとも言えるけれどそうとも言えるわ。……もう一度聞くけれど、あなた本当に記憶がないの?」
李飛凛は唇を噛み締め、こぼれそうな涙を必死に堪えた。
「ねぇ、蘭鳳月。お願い……本当のことを話して」
「姚燕、私……私には本当に記憶がないのです。でも、でも私は紛れもなく春霞で……蘭鳳月で……」
言葉を続けかけて、彼女は声を呑んだ。
それが目の前の人をどれほど傷つけるか、絶望させるかをわかっていたからだ。
一度だけ強く瞬きをし、覚悟を決める。
「私、あの日……別の世界で、死んでいるんです」
姚燕の指先が、ぴくりと跳ねた。
数多の嘘と真実を見抜いてきた彼女にとって、本来なら一笑に付すべき言葉だったからだ。
だが、少女の瞳に宿る澄み切った決意が、その疑念を押し留める。
追い続けてきた謎。
空白だった数日間。
それらが、一本の線として結ばれ始めていた。
「……それが事実だとするなら。本当の蘭鳳月は、どこへ行ったというの?」
「……わかりません。でも、彼女を探すことでしか、私の正当性は証明できないと思うんです」
「あなたの状況は理解できない。でも、計画が狂って私も困っている。あなたも同じでしょう?」
姚燕は、静かに息を吐いた。
「だから提案するわ。私はあなたの〝正当性〟を探すのを手伝う。その代わり、あなたも私に手を貸して。……前みたいに」
その声には、冷たい決意と、消えきらない情が滲んでいたのだ。




