〈 十六 〉吉凶の前触れ
東の空が白み始める頃、
玄冥殿の中庭には冷たい風が吹き抜けていた。
夜の名残を抱くように、竹林がざわめき微かな霧が足もとを包む。
宋明はひとり、静かにその中を歩いていた。
昨夜の応接間でのやり取りが、何度も脳裏をよぎる。
「……盧丞相、やはり何かを隠しているな」
思わず漏れた呟きは、白い息となって消える。
彼の手には、あの刺客の短剣を握りしめていた。
(この印を持つ者──一体誰なんだ)
思い出しそうで思い出せずにいた。
遠くから、鴉の声が響く。
夜明け前の静寂を裂くようなその鳴き声に、
一瞬、不穏な気配を感じた。
闇はまだ、去ってはいない。
むしろ、新たになにかが始まろうとしていた。
◇
「宋明様、姚燕殿をお連れいたしました」
侍女の声に、宋明は顔を上げた。
朝霧のなか、馬車の戸が静かに開く。
裾を整えながら降り立った姚燕の目には、
緊張と覚悟の光が宿っていた。
「夜が明けてまだ幾分も経たない。ずいぶん早い到着だな」
「陛下より、至急お呼びとのことだったので」
宋明は軽く頷くと何も言わずに歩き出した。
「こちらへ。陛下はすでにお待ちだ」
姚燕が深く息を吸い、一歩踏みだす。
ふたりの足音だけが、静かな廊下に響いた。
「ここだ」
宋明がゆっくりと戸を開けると、その間には朝の光が差し込み始めていた。
部屋の中には霍明蕨の護衛・孫寧と鄭心がおり、長く垂れた帳が風に揺れ、その奥に霍明蕨が座している。
柔らかな金の光が、彼の肩を照らしていた。
姚燕は静かに袖を整え、重ねた両手を目の高さまで掲げた。
視線を床へと落とし、柳がしなるような優美な動きで上半身を傾ける。
衣服の擦れる衣擦れの音だけが、静まり返った広間に小さく響いた。
「顔を上げよ、姚燕」
静かな声だった。
姚燕は顔を上げると、霍明蕨の眼差しとぶつかった。
冷ややかで、どこか哀しみを帯びたその瞳。
「盧家に仕える者が、我が玄冥殿に送られてきた。……奇妙な話だな」
「恐れながら、陛下。申し上げねばならぬことがございます」
「申してみよ」
「私は長年蘭家のご令嬢の身を案じとある場所に隠してきました。そう、蘭鳳月お嬢様です。そして私たちは初対面ではありません。覚えておりませんか陛下」
「いや……」
「あの火災があった一年前でございましょうか……私は蘭家に侍女として勤めておりましたあの姚燕でございます」
「まさかな。彼女も火災で亡くなったと思っていた」
「その蘭鳳月の正体が表に出てしまった今、私はここに参った次第でございます」
その言葉に、宋明が一歩進み出る。
「陛下。この者は昨夜、我が身に差し向けられた黒衣の刺客を退け、助けられました。
そして自らの身柄を移送するための算段を立ててくれたのも、この者です」
「黒衣の刺客とな?」
霍明蕨はゆっくりと立ち上がり、窓の外に目を向けた。
「夜が明けても、影は消えぬものだな」
沈黙があたりを包んだ。
「姚燕。そなたが何者であれ、
その影がこの国を脅かすなら、私は容赦せぬ」
姚燕は腕を下げることもなく、微動だにしなかった。
その瞳には怯えではなく、燃えるような決意があった。
霍明蕨は背を向け、薄く笑う。
「宋明、盧氏の動きを探れ。姚燕、そなたはまず彼女と面会をするのだ。
彼女は記憶を失っている。助けになってやってほしい。……君の話を聞くのは、それからだ」
「承知いたしました」
外では、鴉が再び鳴き、燃えるような朝日がゆっくりと宮を照らしていた。
──李飛凛と姚燕が再び相まみえる時は、もうすぐそこまで迫っていた。




