〈 十二 〉灯の向こう
霍雨軒の命を受け、記録にも存在しない〝仁麗〟の行方を追って、すでに三日。
宋明は灯の落ちた廊下を静かに歩いていた。
手がかりは一つもなく、焦燥だけが胸の内を焼いている。
殿下から聞いたあの言葉——
〝姚燕という侍女が仁麗の屋敷にいた〟という証言を脳裏に思い返す。
宮中では知らぬ者のいない侍女。
——容姿は華やかで蛇のように変幻自在な女。
侍女とは思えぬほどの影響力を持つとされている。
仕えているのは、丞相・盧双善の屋敷だ。
(おかしい、盧家の侍女があのようなところに何故。……まさか何か関わりがあるのか?)
その夜、疑念を胸に盧双善の屋敷を訪ねた。
門をくぐると、あらかじめ知らされていたかのように、一人の女が灯を手に現れた。
赤い衣を纏った派手な女だった。
(姚燕? やはりこの女只者ではではない)
薄暗い闇の中で、手元の灯だけが静かに揺れていた。
「あなたは殿下の護衛、宋明様でいらっしゃいますね」
「お前が姚燕殿か……」
「ええ。このような時間に殿下よりお遣いとは……何事でしょうか。どのようなご用件で?」
「近頃、この屋敷で何か変わったことはなかったか」
「……特にはありません。そういえば——裏山の寺院で殺人未遂があったという噂ならお聞きしました。今、屋敷中はその噂でもちきりで」
「……そうか」
短く返す宋明の視線の先で、姚燕が目を伏せた。
その時だった。
背後で何かの気配が動いたのを感じたのだ。
宋明はすぐさま姚燕を背にかばい、腰の刀に手をかける。
「誰だ!」
返事はないが、闇の奥に〝何か〟いる。
銀の刃をゆっくりと抜くと、金属音が夜気を震わせた。
次の瞬間、闇の中で空気が揺れ、気がついた時には刃と刃が交錯し火花が散っていた。
「姚殿、下がっていろ」
月明かりが影の刃を照らす。
「宋明様……お伝えしなければならないことがあります」
「後で聞かせてくれないか」
「……どうか、どうかお許しください。こうする他、なかったのです。奴を引きずり出すために」
「もしや……何か知っているとでも」
一瞬宋明の手が止まり、その隙を影の刃が頬をかすめる。
「よくも……。私を誰の駒だと思っている!」
その一言に空気が変わる。
宋明の剣筋は冷静で正確だった。
次の一閃で影の左肩を深く切り裂き、肉を断つ鈍い音を響かせた。
その影は息が漏れ、数歩後退する。
だが殺気は消えることなく宋明の目を見据えていた。
その時、背後から姚燕の気配が消え、その一瞬ののちに影は地に崩れ落ちていた。
「お前…!」
影の重苦しい声が響いたと思うと、その男は息絶えたのだ。
傍に立つその人影は、あの〝姚燕〟だった。
(なんて身軽な動き……!)
剣を身構え耳を済ましていると、いつの間にか細い腕が首にかかり、刃が視界に入った。
「あなたを殺すつもりはありません……」
(気配が全くない……)
「……っ、お前は何者だ」
首にかけていた腕を解くと、月の影から姿を現す。
姚燕はその問いには答えず、薄く微笑みを浮かべただけ。
「宋明様はこの紋章をご存知ですか?」
影が持っていたと思われる短剣を差し出してきたのだ。
その剣を見ると、柄には二つの円が重なる刻印があった。
一つは白月、もう一つはその影──双月紋。
「この紋章……」
どこかで見た覚えがあるが、よく思い出せない。
夜風が血の匂いを運び、沈黙がふたりの間を満たす。
「光と闇の狭間に生きる者……と言う意味か? どちらにせよ厄介な連中だ」
「さすがです」
剣を収め、宋明は正面の女を見据える。
「かなり腕が立つようだが、お前は只者ではないな……」
姚燕は乱れた衣を治し、深く息を吸った。
「私は、城下町に佇む密偵の名家、姚家・十六代目宗主、夜神妃こと姚燕と申します」
「……姚と名がつくのでまさかとは思っていたが」
二人の間に風が吹いた。
「昨日、陛下に匿名の通達を送ったのは私です」
「君が……? でもなぜ」
「私はあの日——仁麗の屋敷におりました。もちろん犯人も知っております。……ですが私は真の黒幕を暴きたいのです。真の犯人を捉えない限りこの一件は続くでしょう。……私に考えがあります。……宋明様、どうか協力していただけませんでしょうか」
宋明は息をのんだ。
灯が揺れ、彼女の頬を淡く照らした。
その笑みは、美しくも——どこか冷酷な雰囲気を纏っていた。




