〈 九 〉あの日
「あの日、私はいつものように蓬莱殿へと向かっていた」
霍明蕨はゆっくりと語り出す。
その言葉が落ちるたび、庭を渡る風がほのかに揺れ、草の匂いが夜気に混じった。
夜が深くなるにつれて、どこか不気味に変化していく空気。
「……十才の頃、父に蘭家と交流を深めるように命ぜられた。
将来婚姻を結ぶために。
何も知らない阿月は無邪気に私と遊んでいたよ。
もちろん弟の霍雨軒とともに。
父は、高貴とされる蘭家の人間を霍家に迎えることが出来れば、誰であってもよかったのだろう。
だけど私は違った」
霍明蕨は一度、静かに息を吐く。
「思い返すと、その頃の蓬莱殿は花の匂いに満ちていた気がする。
笑い声と庭を渡る風の音が、今も耳の奥に微かに残っていて今でもあの頃が鮮明に蘇るんだ。
何もない宮廷で、彼女が唯一のよりどころだった。
……遥かに年上の人々に囲まれる日々。
妬まれや、疎ましい視線。
私には怖かった。
思い出すだけで背筋が凍る。
彼女と過ごす日々だけが穏やかで、居心地が良かったのだろう。
かくれんぼやままごと……
蝶を追いかける阿月にカマキリを見せつけて泣かせたこともあった……
ハハっ、情けないところを見せてしまったな」
次々と蘇るあの頃の思い出に、霍明蕨の瞳に涙が光る。
池の面はそっと揺れ、その震えが過去の温もりを呼び起こすようだった。
李飛凛はかける言葉が見つからなかった。
「十四に上がった頃、馬術や武術を習うため忙しくなりなかなか会えずにいた。
——そんな時だった。あの火柱を見たのは」
その言葉の直前、庭の空気がふっと重くなる。
まるで当時の不吉さを呼び覚ますかのように。
霍明蕨の握り拳がさらに強く締め付けられ、かすかに震えていた。
『ぼっちゃま、これ以上先へはいけません』
「護衛に止められる腕を払って走るも捕まり、それを繰り返した。
けれど彼女まで届くことはなかった。
……隣にある屋敷が、これほど遠いと感じたことはなかった。
蓬莱殿の門前に着いた時にはもう……
屋敷は跡形もなかった。
黒焦げの瓦礫にうずくまる残骸を見つめながら、私は叫んだ——『阿月!』
と。本当に本当に、長い夜だった……」
言葉が静かに途切れると、風が一度だけ渡って消え、夜の庭園が再び深い静寂に沈んだ。
李飛凛は胸の奥がじんじんと痛むのを感じていた。
(——どうして、この人の言葉は私の心をこんなにも揺らすのだろう)
まったく知らない人の話なはずなのに心が疼く。
(私の中に誰かいるの……?)
池の面はひとつ波紋を広げ、そのさざなみが胸の奥へ落ちていった。
彼が語った〝十三年前の少女〟の記憶も、
彼の後悔も、涙をにじませるほどの喪失も
自分のものではない、はずなのに——
胸の奥のどこか、深いところでその想いが震えていた。
李飛凛は唇を噛む。
自分の身体は“蘭鳳月”だとしても
私は“李飛凛”であり、もちろん彼女の記憶もない。
しかし、霍明蕨の瞳に宿る痛みを見ていると——
その事実を言い出す勇気が、どうしても出てこなかった。
彼の言った——『死んだはずの者』という言葉が、胸の中で何度も共鳴する。
(私は……一体誰なの?)
心に浮かんだ疑問は、逃げられない重さを帯びていた。
たしかに李飛凛として生きて、その人生を全うした。
自分にとっては偉大な人生だったはずなのに、いかに自分の世界が小さかったかを思い知らされる。
(彼女は一体どんな人生を……?
——すべてが偽りだったとしたら?
いや、それよりも——
このまま黙っているべき?
それとも……真実を、告げるべき?)
かすかに震えた手を胸に当てる。
その瞬間、風が止まった。
寺院で倒れたときに感じた、あの冷たい恐怖が突如としてよみがえる。
『攫われた』『狙われている』
『私を知っている誰かが、私を消そうとした』
喉の奥が、ぎゅっと塞がれる。
もし私が“本物の蘭鳳月”なのだとしたら。
その理由は、命を狙われている原因に繋がっているのかもしれない。
(私はどうしてこの世界にいるのだろう。
優しい嘘ってなんて残酷なのだろう)
真実を言えずに過ごす日々、
別人と化して生きる辛さは計り知れないのであった。
(——きっと何か意味があるに違いない)
「……!」
声を出そうとして、言葉を飲み込んだ。
今、言ってはいけない。
言えば、彼の心を支えている“彼女”が、完全に消えてしまう気がした。
どうしてこんなにも胸を裂くのか——
自分でも分からなかった。
ただ一つ確かなことは優しい嘘を貫くことが今は懸命なのだと。
月はあいかわらず白く照っている。
池を渡る風は弱まっていた。
その光のもとで、李飛凛はただ静かに一人震えていた。
霍明蕨の想いは、痛いほど伝わるのに——
それに応えることができない自分が、苦しかった。




