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迫る悪が蘇るまで  作者: アスノヨミタ
※はじまりの始まり

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1/19

〈 零 〉蘭花



「我に後宮はいらぬ。すぐに解体せよ。」


皇帝・霍明嶡フォ・ミンジュエは静かに言い放ち、背を向けた。

その歩みが廊下の奥へ消えると、宮人たちの間に冷たいざわめきが広がった。


 ——その決断が、遠い時代で一人の少女の運命を揺るがすとは、

この時、誰も知らなかった。



  ◇


光が瞼を透かし、ゆっくりと目を開ける。


白い天井。淡い肌色のカーテン。消毒液の匂い。

春の陽が窓から差し込み、薄いシーツをやわらかく照らしていた。


狭いベッドに横たわる少女の名は 

 ——李飛凛リ・フェイリン


(……昨日、変な夢を見た。時代劇みたいな……恋愛なんて、私には縁がなかった)


 後宮とは皇帝一族が血をつなぐために築かれたいわば“制度”だ。

かつて流行した時代劇の一場面がふと脳裏をかすめる。


 視線を横に向けると、窓辺に置かれた一鉢の蘭花ランファが目に入った。

父から“贈られた”ことになっているが、実際は母の家系に伝わる習わしだ。


 生まれた子どもに蘭花を贈り、その子とともに育てる ——

大切にすれば、一生寄り添ってくれる花。


「……ちょうど、開花時期だね」


小さな鉢に、凛と咲く薄桃色の花。

その健気な強さが、自分の生き様を映しているようで好きだった。


李飛凛は、生まれつき心臓に重い病を抱えていた。

幼いころから入退院を繰り返し、長く走ることもできず、

息が切れて倒れることも多かった。


母に似て容姿は美しかったが、病弱な娘は“厄災の子”と呼ばれ、

母は日を追うごとに距離を置き、やがて背を向けた。


話すようになった頃には、母の姿はほとんどなかった。

 ——育児放棄。

その言葉を知ったのは、ずっと後のことだ。


 母のもとに置くのは危険だと判断した父は、

多忙の末、飛凛を児童養護施設へ預ける決断をした。


 施設での生活は、思っていたより“自由”で、笑う日も多かった。

けれど夜になると、静けさに押しつぶされそうになることもあった。


(みんな、表情は明るいけれど……きっと、泣きたい日もあるんだよね)


彼女は、そこでひとつの願いを抱いた。


「私は……普通の人になりたい」


哀れみの目で見られることが何よりつらかった。

弱い体や母を恨んだ日もあった。

けれど、諦めなかった。

“普通”を夢見て、毎日を必死に生きた。


その努力は、余命半年と言われた命を、五年も伸ばしてくれた。


父は、忙しい合間を縫って何度も会いに来てくれた。

「他の子たちに比べたら、お前はまだ恵まれてる」

そう父に言われたのを思い返し、寂しさの陰を胸にしまった。


しかし近ごろは、体が急速に弱っていった。

腕が鉛のように重く上がらない。

身体を起こすことすら難しい。

昨日できたことが、今日はもうできない。


(……もう、長くない)


目を開けては閉じ、薄れていく意識のあいだをさまようように日々は過ぎた。


そんなある日。

病院からの連絡で駆けつけた父が、ベッドの横に立っていた。

その顔は、いつになく優しく、苦しげだった。


「飛凛……思ったより、長い人生だったな。よく頑張った」


いつだって味方でいてくれた父。

余命を告げられたあの日から、五年。

奇跡のような時間だった。


飛凛は震える手で、父の手をぎゅっと握った。


「父さん……今年の……蘭花、満開は…見れそうにないよ……」


父の目が一気に潤み、強く握り返してくる。


(母とも……笑って、お別れしたかったな……)


まもなく迎える二十一歳の誕生日。

その手前で、意識は静かに薄れていき——


最後に思い出そうとした母の顔は、もう輪郭すら掴めなかった。


深い闇が、ゆっくりとすべてを包み込む。


窓辺では、咲きはじめたばかりの一輪の蘭花が

まるで彼女を送り出すかのように淡く輝いていた。



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