3.手のひらとパンといのち
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塔に戻ると、やけに慌ただしかった。
給仕係のひとりと視線が合った。駆け足でこちらに駆け寄ってくる。
「フリーデンさま!」
「どうしたんですか? リーベさまに何かあったんですか?」
質問し終わると同時に己の間抜けさを恥じる。
塔内が乱れるのはリーベさま以外に原因がない。
この場所は、リーベさまのためだけに存在するのだから。
「模擬戦中に倒れられたようで先ほど運ばれてきたのです。命に別状はないとのことですが、今も眠っておられます」
「!」
一気に動悸が激しくなる。急いで階段を駆け上った。
リーベさまの部屋に入ったのは初対面のときのみ。
流石に扉に手をかける瞬間は緊張した。
落ち着け、自分。
深呼吸を3回。
扉をノックしてゆっくりと開けると、看護係が付き添っていた。
声を出さずに挨拶を交わしてベッドの脇に膝をつく。
傷はない。
ただ、眠っているだけ。
いつも瞳にばかり気を取られていたから、まじまじと顔を見るのは初めてだった。
子どもと大人の間を揺らぐ女性の顔立ち。
あどけなさと美しさの入り混じった存在。
体の奥で。
何かが、ちりりと焦げる音がした。
おそるおそる手を伸ばす。
そっと手に触れた。
やわらかくて、……あたたかい。
いつまでも触れていたい衝動を感じ、伸ばした手を引っ込める。
気を逸らしたくて唾を飲み込んだ。
自らの奥に、こんな感情があるなんて信じられなかった。
そのまま僕はリーベさまの寝顔を見つめていた。
やがて、長い睫毛が揺れて、リーベさまの瞳がゆっくりと開いた。
「フリーデン君……?」
「倒れたと伺いました。どこか痛むところは?」
ゆっくりとリーベさまが首を横に振る。
「大丈夫……。お腹が、空いただけ。わたしが……がんばらなきゃ……」
笑っているけれど、無理をしてはいないだろうか。
奥歯を噛む。
こんな少女にすべてを背負わせる世界なんて、あっていいのだろうか。
「誰かに、何かを言われましたか?」
「ううん。わたしが、そう思っているだけ……」
嘘だ。
奇跡の子は万物神のいとし子。
期待も嫉みも、この身は一気に引き受けているのだろう。
世話係として留めおかれていても、僕は何ひとつ理解していなかったのだ。
両手で彼女の手を握る。
一瞬震えて、紫水晶の瞳に驚きがたゆたう。
「僕を頼ってください。辛いときは、辛いと言っていいんですよ」
「……うん……」
どの部分に同意してくれたのかは分からないけれど、リーベさまは再び眠りに引き込まれていった。
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小麦粉。
顆粒の酵母。
塩。
水。
リーベさまが目覚めたとき、喜んでもらえることを考えたらひとつしかなかった。
今の僕がやりたいこと。
彼女の笑顔が見たい。ただ、それだけ。
――だから、パンを焼こう、と思い立ったのだ。
手元にはグロース君から教えてもらった簡単なパンのレシピがある。
彼は瞬く間に【王の花】というパン屋を軌道に乗せていた。
僕も実際に何回か購入した。とても美味しいパンばかりだった。
『通いすぎですよ。たまには自分で作ってみたらどうですか?』
すると彼は笑って、レシピをくれたのだった。
簡単にできるとはとうてい思えなかったから実行には移さなかった。
今だってそう思う。
ただ、【王の花】を完璧に再現することは不可能だけど、美味しいパンを作りたい。
リーベさまの空腹を少しでも満たしてあげたかった。
さらさら……。
小麦粉と酵母をボウルの中で合わせて、そこへ水を回しがける。
べちゃっ。ねちゃっ。
手を入れて、水を粉類になじませながら、かたまりにしていく。
水が全体に行き渡ってきたら塩を入れる。
こね、こね。
手に伝わる感触も見た目もどんどんと変化していく。
子どもの頃の粘土遊びをなんとなく思い出した。
これは、なかなか面白い。澱んでいた気持ちが段々と薄れていくようだ。
とぅるんっ。
まとまったパン生地は表面が滑らかになった。
ボウルに入れて、乾燥しないように袋をかぶせる。
そしてぬるま湯に浮かべて発酵させる。
「発酵……。これくらいでいいのかな……?」
大きく、倍近くに膨らんだパン生地の表面を軽く押さえて、ガスを抜く。
ぷし。ぷし。
すぱっ。
そしてカードで切り分け、小さく丸めた。
パン生地が緩んできたところで、もう一度潰して、表面を張らせる。
天板の上に均等に並べたら、乾燥させないようにまた湿った布をかける。
「えぇと、予熱の入れ方は、と」
魔法制御のオーブンを使うのは初めてだ。
というか厨房に入るのも初めてだった。
これからはパン以外にも、料理を覚えてもいいかもしれない。
やがて、ふわっとパン生地の表面が緩んできた。
よく膨らむように、はさみでトップに十字の切り込みを入れる。
ちょきん、ちょきん。
その中央にバターをひとかけ載せたら、いざオーブンへ。
ゆっくりと庫内でバターが融けていく。
パンが膨らんで、焼き色がついてくる。
表面が茶色く変化するにつれて、芳ばしい香りが漏れてきた。
「いい香りだ……」
焼きたてのパンの香りは、心を穏やかにしてくれる効果でもあるのだろうか。
「できた……! あつっ」
初めて焼いたパン。
ほんのりと茶色く色づいて、表面からは湯気が昇っている。
融けたバターはきらきらと煌めく。
【王の花】で販売されているようなきれいな形にはならなかった。
十字だってちょっと不格好だけど、味ということにしておこう。
ほかほかと湯気を立てるパンを籠に詰めて、リーベさまの部屋へと向かう。
再び、扉をノックした。
「失礼します」
看護係が席を譲ってくれたので、椅子に座る。
リーベさまの顔の横にかごを置くと、小さく声が漏れた。
「……美味しい、香りがする……」
「まだ食べていないから、美味しそうな、では?」
視線が合うと、ふわっとリーベさまがはにかんだ。
ゆっくりと上体を起こす彼女の背を支える。
華奢なようでいて、男性にも負けないしっかりとした体つき。鍛錬の賜物だろう。
「焼きたてです。どうぞお召し上がりください」
「もしかして、フリーデン君がつくったの?」
「はい」
リーベさまがおそるおそる両手でパンを手に取った。
割ると、ほわ、と湯気が昇る。
口に運んだ瞬間、リーベさまの表情がさらに緩んだ。
「……美味しい」
なんとなく涙目に見える彼女に、涙目になっているのを気づかれないように、笑う。
「ありがとうございます。これからはリーベさまのために、いくらでも美味しいものを作りますよ」
それから、朝食の支度は僕の仕事になった。
ただ、ひとつだけ笑い話がある。
このときのパンのことだ。焼きたてこそ美味しかったものの、冷めると、かたくてパサパサした物体に変わってしまった。
まるで石みたいだ、とリーベさまは笑いながら完食してくれたのだけど、パンに関してはおとなしく【王の花】で買うことになるのだった。
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時は流れ、僕は文筆業で生計を立てられるようにもなった。
実家はその収入の一部を使ってどうにか立て直した。かつての従業員を説得して戻ってきてもらったり、会長になってほしいという懇願を断ったり、それはそれで骨の折れることばかりだった。
勇者リーベには頼もしそうな仲間ができた。
共に世界を周り、魔王ドゥンケルハイトの討伐に成功した。
しかし、それはまた別の物語。
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声が、聞こえる。
新たないのちが。
産まれた、声がする。
「フリーデン君。女の子だよ」
神殿の一室にて。
リーベさんの腕のなかで全身を動かしているのは、小さな赤子。
やわらかそうで、触ったら壊れてしまいそうだ。
「小さい……」
「大きい方だったらしいよ」
最愛の人間がくすくすと笑みを零す。
出産は大変な仕事だと耳にしてきたし周りにも脅されてきたが、目の前のリーベさんはいつも通り飄々としている。
寧ろ、年々快活さを増していっているような気がしなくもない。
「時々瞳を開けるんだけどね。色が、フリーデン君そっくり。わたしの青空」
青空、だなんて。
僕にとって、彼女こそが青空だったというのに。
微笑んだままでいると、リーベさんが僕のことをじっと見つめてきた。
「抱いてみる?」
「……はい」
おそるおそる手を伸ばした。
見た目通り、やわらかくてもろくて緊張する。
だけど、感情は。
言葉は自然と、零れていた。
「愛していますよ、僕たちの子」
※この後リーベから「わたしのことは!? わたしのことも愛してるよね?!」と叫ばれます。
余談ですが……
本編では【~のは】というサブタイトルのときに、リーベもしくはその娘・レーベンが登場しています。
ということで本スピンオフも、そんなタイトルにしてみました。
お読みいただき、ありがとうございました。