2.旧友と涙と感情
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やがて奇跡の子――リーベさまは鍛錬をはじめることになった。
座学、つまり歴史や一般常識は予定通り僕が担当することになった。
「季節というものがあり、夏は暑く、冬は寒いです。そして季節に応じてさまざまな食文化が発達しています」
「この国は周囲を海に囲まれています。ゆえに他国から侵入された歴史はほとんどなく、脅威といえば魔王ドゥンケルハイトを意味します」
常識を知らないだけで、リーベさまはとても優秀な生徒だった。
吸収も早く、ひとつでも多くのことを学ぼうとする。
「人間が使える魔法は、四大元素魔法と呼ばれます。火、水、土、風。ただ、その根底にはふたつの魔法があります。基幹魔法と、付帯魔法。基幹魔法は世界の構造に干渉できます。付帯魔法は、すべての魔法に対して効力を追加する魔法のことを指します」
「わたしの魔法は、どれでもないのかな」
「……おそらく、そうでしょうね」
質問も多かった。時が経つにつれて回答に困ることも出てきた。
幽閉だの軟禁だのさんざん脅されていたけれど、僕にも外出の自由が与えられた。
リーベさまが鍛錬している時間帯に塔を出て、王立図書館に通うようになった。
本を読むのは、好きだ。
知識を食べているような気がする。知識は、僕の頭のなかを満腹にしてくれる。心を、穏やかにしてくれる。
そして、リーベさまに尋ねられたことを答えることも、好きになっていた。
もっと喜んでほしい。だから、もっと勉強したい。そう思うようになっていた。
そんな、ある日のこと。
「久しぶりですね、アインヘルト君」
アインヘルトというのは僕の姓だ。
呼ばれたのは自分だと認識して、振り返る。
本を持って立っていたのはパパラチア色の瞳を持つ、黒い髪の男。
義務教育修了後、総合科で研鑽した青年だ。
ただ当時と違って、短かった髪の毛は肩まで伸びていた。
「グロース君。こんなところで会えるなんて。総合科を卒業して以来?」
名はエェルデ・ツェーン・グロース。
当時、総合科の1位と2位は常に僕たちだった。
僕が1位になれば彼は奮起し、2位だったら、もっと競争心を持てと言ってきたのが彼だった。
会話のために僕たちは王立図書館を出て目の前の公園へと移動した。
噴水の中央にある小屋が空いていたので、そこに座る。
「今は何を? 医者とか学者とか?」
「医者。と言いたいところですが、この春からパン屋をやることになりました」
耳が単語を拾わなかった。
パン屋、だって?
優秀な成績を修めて卒業した、グロース君が?
「君も驚くことがあるんですね」
ふっ、とグロース君が笑みを浮かべた。
「それを言うなら、グロース君も笑うことができるんだな」
「色々とあったんですよ」
「なるほど。それなら、僕にも色々とあった」
「アインヘルト君こそ、今は何を? 風の噂がたくさんありすぎて、本人の口から聞きたいと思っていました」
本当のことを正確に伝える訳にはいかず、首を傾げてみせた。
「家庭教師、かな」
「そうですか。きっと向いているんでしょうね。瞳が、活き活きとしていますよ。かつての君は……霧のなかに住んでいるようでしたから」
霧?
グロース君が比喩を用いるとは、らしからぬことだ。
しかし、彼にも色々とあったというのは事実なのだろう。
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塔で暮らすようになって、1年ほどが経った頃。
リーベさまには魔物を想定した実戦が増えた。
座学の時間は、ぐっと減った。
僕たちが顔を合わせるのは、朝食の時間だけ。
パンとスープと目玉焼き、ウインナーソーセージとヨーグルト。
無言で口に運ぶリーベさまに尋ねる。
「今日も訓練ですか?」
子どもの成長が速いというのは実感であるけれど、1年でリーベさまの背や手足はすらりと伸びた。
顔立ちの幼さは少しずつ薄れてきたものの、瞳の鮮やかさは増してきた。
「……うん」
言葉に覇気がない。流石に、疲労が溜まっているのだろう。
「黒い森に魔物が増えているんだって。一刻の猶予もない、って、言われたから……」
「あなたがすべてを背負う必要はないでしょう。リーベさまだって、人間なのですから」
高い位置でひとつにまとめた金髪がさらさらと揺れる。
ぱっ、とリーベさまが僕を見た。
というか僕を瞳に映したのはいつ以来だろう。
「何を驚いているんですか。リーベさまが不老不死の精霊ならともかく、人間だから傷つくこともあるでしょう?」
「……わたし……人間、なのかな……」
「突然どうしました? リーベさまは人間ですよ。僕と同じです」
ぽた。
テーブルに雫が落ちた。
リーベさまの瞳が潤んでいた。
何かおかしなことを言っただろうか。
涙を零しながらリーベさまはくしゃっと笑った。
「えへへ……。そうだよね、ありがとう、フリーデン君……」
「何故感謝されているのかさっぱり分からないんですが、とりあえず泣かないでもらえませんか……。まるで僕が泣かせたみたいで居心地が悪いです」
「フリーデン君が泣かせたんだよ。責任取って結婚して」
「待ってください、リーベさま。奇跡の子とふつうの人間が結婚なんてできる訳がないでしょう」
「ちょっと!? 言ってることが矛盾してない?!」
ばんっ、とリーベさまがテーブルを叩いて立ち上がる。
ただそれは怒りから出た行動ではない。
リーベさまを見上げると、涙は止まって、すっかりに笑顔になっていた。
「へへっ。元気、出た」
歯を見せて笑うリーベさま。
嘘ではないだろう。僕は、心から安堵する。
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商い人というのは平気で他人を利用する。
というか、利用しているという自覚はないのだと、思う。
「兄さん、元気にしていたかい」
にやにやと目の前の弟が笑う。
当主となった彼は父には似ず、少しやつれ、目の下の隈が濃くなっていた。
「おかげさまで。用意してくれた職場は、僕に合っていたみたいだ」
近頃は行動制限もないに等しい状態だった。
塔近くのカフェに呼び出された僕は弟と向かい合っていた。
「それで、用件は?」
「1年ぶりに会ったというのにそっけなくて悲しいな。いや、実はね。従業員の半数以上が辞めてしまった上に、いくつか取引先との契約が打ち切られてしまって、経営が苦しいんだ」
容易に想像はつく。
父のやり方に反発を持っていた者。
父に従っていたからこそ、弟には従いたくない者。
そんなひとたちが離れていったに違いない。
父に誤算があったとしたなら、弟は父ほどカリスマ性を有していないということだった。
「兄さんの支度金も底をついてしまって……」
「つまり、金を用立ててほしいということか」
「塔住まいということは神殿や王族と話せる機会もあるだろう? なるべく低い利子で、たっぷりと欲しいんだ」
たっぷり、という言葉に力がこもっている。
僕は今も残っているだろう従業員の顔を思い浮かべた。弟よりも、彼らの生活の方が心配だ。
経営者というのは己の人生以外にも責任を持たなければならないものがたくさんある。果たして弟は理解しているのだろうか。
足元が泥に沈んだような気分になってくる。
お待たせしました、と運ばれてきたアイスティーに手を伸ばす気力が湧かない。
畳みかけるように弟が続けた。
「もしくは奇跡の子の傍にいるんだ! 兄さんが地面を掘れば金脈を掘り当てるかもしれない!」
ばしゃっ!
気がつくとグラスを手に持って立ち上がり、弟の頭上でひっくり返していた。
「……へ……?」
弟が僕を見上げる。何が起きたのか理解できていないようで、ぽかんと口を開けている。
「金はどうにかして用立てる。だけどそれはお前のためじゃない。お前みたいな奴を支えてくれようとしているひとたちのためだ。いいな?」
「は、はい……」
ポケットから紙幣を取り出してテーブルの上に置くと、僕はカフェを出た。
青空が眩しい。僕には眩しすぎる。
胸が、苦しい。
こんなとき、リーベさまなら何て言うだろうか……。
きっと背中を叩いて笑い飛ばしてくれるだろう。
よくやった! くらいは言ってくれるだろうか。
想像すると、ちょっとだけ呼吸が楽になった。
あぁ。
答えというのは突然もたらされる。
霧が晴れたというのは、こういうことか。
「ははは……あはは! なんてことだろう!」
おかしさが腹の底からこみあげてきて、僕は、初めて声を上げて笑った。




