二年仲夏 鹿角解 3
英賢たちが西内苑から戻ると、蒼翠殿は随分賑やかだった。
壮哲と昊尚、恭仁、それに紅国の皇太子の大雅と公主の月季まで揃っていた。
「月季殿、今度是非、翠国においでください」
恭仁が地味な胡服姿の月季の前で、跪かんばかりの勢いで言っているところだった。
「お断りしますと何度も言っていますよね」
月季は隣にいる大雅の後ろに逃げ込みたいところを、敵に背中を見せるものか、という生来の負けず嫌いな質で踏みとどまっている。恭仁に向けた琥珀色の瞳はすこぶる冷たい。
「ここでお会いできたのは天運です」
「何度も言いますが違います」
月季のうんざりした顔にも、恭仁は悪びれることもなく嬉しそうに笑う。
「お会いできたのは事実です」
ますます月季の目は冷たくなったにもかかわらず、恭仁はうっとりとその美しさに見惚れる。
奏薫がこの状況を今ひとつ把握できず二の足を踏んでいると、昊尚が説明してくれた。
恭仁を連れて移動しようとしていたところに、別件で来訪した大雅と月季を偶然見かけた。目立たないよう地味な出で立ちであったにも関わらず、恭仁が月季に気付き、駆け寄って行ったという。ところが、月季は恭仁の顔を覚えていなかったため、襲撃だと思って抜剣し、ちょっとした騒ぎになった。誤解も解けたところで、恭仁から月季へのこのような猛攻撃が始まったらしい。
奏薫は英賢と昊尚に断ると、恭仁の元へと進んだ。理淑が奏薫を呼びに来たのは、この状況を何とかしてくれということなのだろう。
「失礼致します」
奏薫が恭仁と月季の横に立つ。月季が幾分ほっとした顔で奏薫を見た。
「……恭仁様、何をしていらっしゃるのですか」
非難を込めて奏薫が言う。
「ああ、奏薫」
しかし、悪びれることなく明るい笑顔を奏薫に向けた。
「見て。月季殿がいらしたんだ。まさかここでお会いできるとは。これはもう唯の偶然ではない」
浮かれている。
「唯の偶然です」
間髪を容れず月季の鮸膠も無い言葉が出される。
朱国で会って以来、恭仁が月季に熱を上げているのを奏薫は知っている。先日、紅国に輿入れの打診をしたことも聞いていた。
「申し訳ありません」
奏薫は月季に恭仁の無作法を詫びると、恭仁に向きなおり静かに言った。
「恭仁様、しつこいのは嫌われます」
いつもの温度で無表情に、手厳しい言葉でもって窘める。
「え。でも、せっかくお会いできたのに」
しかし恭仁も引き下がらなかった。
翠国中で待ち望まれた手のひらに梧桐の印を持つ皇子は、誰からも大切にされて育った。恭仁は自分を拒絶する者がいようとは思ったことがない。だから月季の態度も今一つ理解できていない。
おまけに、先日の材木の事件は恭仁を少なからず変えた。自らが衛兵を動かし、奏薫を助けて事件解決に一役買ったことで、自分に自信をつけた。お陰で以前よりも振る舞いが能動的になった。
恭仁が成長したことに、奏薫は感慨深いものを感じはしたが、今はそれを披露する時ではないだろう。
「状況を見てください。芳公主もお困りです」
「え? そんなことありませんよね」
恭仁が月季に向かって人懐こい笑顔を向ける。
「迷惑です」
しかし月季にその笑顔の効果はない。
「まあまあ。月季」
大雅が宥めに入ってきたが、その顔を見て月季は顔を顰めた。明らかに面白がっている。目が笑っている。
大雅ばかりか、月季の冷たい態度にも怯まない恭仁に、周りはいっそ清々しさすら感じ始めたようで、黙って成り行きを見守っている。
「月季殿、妃の件、お考え直しいただけませんか」
恭仁から出た言葉に、月季が苛々を全面に出して言う。
「その話はもう済んでいます。軽々しく蒸し返さないでください。聞かなかったことにします」
翠国からの月季の輿入れの打診は、結局紅国は意向に沿うことができない旨を返した。
「どうしたらお気持ちを変えてくださいますか?」
「どうしたって変わりません」
「私の何がお気に召さないのでしょう。どういう男性がお好きなのですか」
月季の脳裏に一瞬、昊尚が浮かび怯んだが、それを慌てて追い払う。月季は恭仁のひょろりとした細身の姿をじろりと見て言った。
「貴方とは反対の人よ。ひ弱な人は嫌」
諦めさせようと出た月季の言葉に、恭仁は自身の身体を見下ろし、意外だという顔をした。
「弱そうに見えますか? でも、剣には結構自信がありますよ」
手合わせしてみます? とまで付け加える恭仁に疑わしげな眼差しを向ける。
そこで奏薫が若干申し訳なさそうにこそりと言った。
「……意外に思われると存じますが剣術だけはお強いのです……。代わりのいない皇太子ですので、ご自身でも御身を守ることができるようにと、小さな頃から鍛えられてきましたので……」
しかし、恭仁がいくら強かろうが、断るためにつけた難癖なので、月季の気持ちには影響しない。
何より、月季はようやく昊尚への想いに区切りをつけたところだ。そんなところに、こうも自分の感情を押し付けてくる恭仁に、本当に勘弁して欲しいとうんざりした。
自分を助ける様子のない大雅にも腹が立つ。睨みつけると、少し離れたところで、面白そうに成り行きを見物している壮哲が視界に入る。その顔もより一層月季の癇に障った。
月季は壮哲の元へつかつかと歩み寄った。壮哲が、何事かという顔で見ると、月季がその腕を掴んだ。
「私、この方が好きなの」
月季の放った一矢に壮哲がぎょっとする。
「やめろ、巻き込むな」
壮哲が月季に抗議する。
「協力してよ」
月季が眉間にしわを寄せて小声で言う。
「断る」
「言うこと聞いてくれるって言ったじゃない」
「言ってない。話くらいは聞いてやると言っただけだ」
「同じようなものでしょ」
「断じて違う」
二人の小声でのやりとりを恭仁が見て呟いた。
「……そういうことですか」
初めて恭仁の勢いが無くなった。月季と壮哲の攻防を痴話喧嘩と勘違いしている。
恭仁が壮哲を恨めしそうに見る。
「だから月季殿はお断りになったのですね……」
「違う違う」
壮哲ががっちりと腕を掴んでいる月季の手を外して、誤解を解こうとする。しかし、恭仁は消沈して言った。
「陛下はがっしりとした美丈夫。ご即位前は禁軍の将軍として名を馳せた方。確かに私が叶うはずもありません」
月季は、よしよし、と思惑がうまくいきそうなのを見守る。
「お二人はご結婚されるのですか?」
「しないしない」
壮哲が恭仁の問いに即座に否定する。すると、恭仁に再び屈託のない笑顔が戻った。
「良かった。……わかりました。よし。鍛えて出直してきます」
「え?」
思わず月季が声を上げた。
「ご結婚の約束をされていないのでしたら、私にもまだ望みはありますよね。待っててください。月季殿。鍛えて再び求婚に参ります!」
恭仁がしょんぼりしたのは一瞬だった。もう立ち直り、拳を胸に目を輝かせて月季に誓った。
*
「酷いじゃない。話を合わせてくれたっていいでしょ」
応接室に入った途端、月季が機嫌悪く言う。いくら怒っていてもその顔はやはり美しいままに目を引く。
しかし壮哲はそれに引きずられることなく、あっさりと言う。
「無茶を言うな。酷いのはどっちだ。協力なんてできるわけがないだろう。あんなに熱心に言われてるんだから、考えてみたらどうだ。月季殿好みになるように鍛えると言っているし、健気じゃないか」
「別に体格がいいのが私の好みなわけじゃないわよ。念のため言っておくけど、貴方のことを好きなわけじゃないですからね。変な誤解しないようにしてよ」
嫌そうな目で壮哲を見て 冷ややかに言う。
「……とにかく嫌なものは嫌なの」
恭仁は奏薫に、「頭を冷やしましょう」と連れていかれた。大雅と月季は壮哲とともに別の応接室に移って来た。
「いやあ、面白かった」
大雅が椅子にもたれてにやにやしている。
「ある意味、最強だよね。月季にあれだけ言われて引き下がらないのは凄いよ。実は結構お似合いなんじゃないの?」
月季が大雅を軽蔑したように睨む。
「兄上の縁談の話が出た時、覚えてなさいよ」
おお怖、と大雅が肩をすくめる。
「まあね。翠国の王妃はよくできた方でないと務まらないだろうね。月季の性格では難しいな、実際は」
大雅が翠国の世継ぎの制度を思い浮かべて言う。
翠国の正妃には、大抵、生粋の翠国の貴族の女性がつく。他国から迎えることは滅多にない。というのも、王妃は、自分の生んだ子が世継ぎになれない可能性が、高い確率であることを理解している必要があるからだ。その点、翠国の貴族の子女は王妃とはそういうものだと教育されている。
「その言い方にはムカつくけど、そうね。私にはどのみち無理だわ」
月季が不機嫌に肯定する。
そして、美しい眉間に深い溝を刻むと言った。
「……とにかく、私はしばらく誰とも結婚する気は無いし、あの皇太子が諦めるまでさっきの理由で通すわ」
「私は協力しないぞ?」
抗議する壮哲を苛々しながら見る。
「貴方、結婚する気は無いのよね」
「……今の所は」
「じゃあ、いいわ」
「どういうことだ」
「私は貴方を好きだけど、貴方にはその気がない、ってことにしておくわ。それなら問題ないでしょ? ……私が貴方を一方的に好きっていう設定は気に入らないけど……まあ、それには目を瞑るわ」
最後の方を腹立たしげに言うと、月季が、びし、と壮哲を指差す。
「あの皇太子が諦めるまでですからね。絶対にその気にならないでよ」
「それが人にものを頼む態度なのか」
壮哲が呆れる。それを無視して大雅に振り向く。
「兄上も余計なこと言わないでよ」
月季は助けてくれなかった二人に言い渡した。




