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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −綠條の巻−
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二年仲夏 鵙始鳴 6



 英賢はその夜、喜招堂にいた昊尚を訪れた。その帰り際、ふと奏薫の顔が浮かんだ。

 明日翠国に発つはずだったな、と気にかかる。

 しかし、既に夜は更けている。もう眠ってしまっただろう、と私邸部分から出口に向かおうとした時、中庭の池の脇の松の根元に座りこむ人影を見つけた。


 白っぽい肩掛けを羽織った背中が、月の明かりを受けてぼんやりと見えた。目を凝らすと、奏薫のようだ。

 しかし、背を丸めて座る後ろ姿は、人を寄せ付け難くしているようないつもの雰囲気とは違い、随分無防備に感じた。


「柳副使?」


 英賢が声を掛けると、肩がびくりと跳ねて振り向いた。


「碧公」


 英賢の姿を認めて奏薫が立ち上がる。背筋が伸び、無防備に思えた雰囲気がいつもの硬いものになった。

 少し残念に思いながら、奏薫に近寄ろうとすると、ここは足元が悪いので、と奏薫が松の下から移動してきた。


「眠れないのですか」


 英賢が聞くと、はい、と奏薫が俯く。俯いた拍子に、背に垂らしていた奏薫の細い髪が、さらりと肩を滑り落ちた。すると、まるでそれに撫でられたかのように、英賢の胸の奥がざわめいた。


「……少し話しませんか」


 思わず言っていた。


 英賢の提案に奏薫が少し躊躇うのがわかった。しかし英賢は、庭石に手巾を敷いて、どうぞ、と勧めた。奏薫が大人しくそこに腰を下ろすと、それを見届けて英賢も近くの庭石に腰掛ける。


「木の側がお好きなんですか?」


 わざわざ足元の不安定な木の元まで行っていたのは、そういうことなのだろうか、と英賢が聞く。


「……そう……ですね……」


 奏薫が先程まで座り込んでいた松に目をやった。


「眠れない時、外に出て木に触れていると落ち着くので」

「……眠れないことがよくあるのですか?」

「時々……。寝つきは良くないです。眠りも浅いようで……」


 顔色が良くないのは、普段からなのかもしれないな、と思いながら、英賢が言う。


「私の上の妹も、よく夜の庭で池を見ながらぼんやりしているんですよ」


 奏薫が英賢を見て、(まばた)きを数回した。


「碧公にはお二人、妹君がいらっしゃるのですね」


 昼間に話した、"動物に好かれる"妹のことを覚えているのか、と英賢が微笑む。


「ええ。両親とももういないので私が親代わりといったところです」

「そうでしたか……」


 話が途切れたところで、英賢はずっと気になっていたことを聞いた。


「……計相……父君とは……うまくいっていないのですか?」


 奏薫は切れ長の目を伏せて池の水面を見つめる。


「……うまくいっていたことは、今までにありません……」


 予想を超えた返答に奏薫の横顔を見つめる。奏薫は膝の上に組んだ細い指をぎゅっと握って、細く息を吐いた。


「……私は……計相の庶子なのです」


 奏薫ばぽつりと言った。

 英賢が、もしかしたら、と思っていたことだった。


「……私が聞いても良い話ですか?」


 穏やかな声で英賢が尋ねると、奏薫は英賢を見ないまま頷く。


「……誰かに聞いていただいたら……少し落ち着くような気がします。お耳汚しですが、聞いてくださいますか」

「私で良かったら」


 英賢の労わるような声に、奏薫は唇を一度きゅっと結ぶと、膝の上で組んだ指を見つめながら、白い紙に墨を落とすように話し始めた。


「母は、柳氏の屋敷に出入りしていた商家の使用人でした。姓を、(しょう)、といいました」


 翠国では、貴族は全て樹木の名称の姓を持つという。

 英賢はそのことを思い出し、奏薫の母親の境遇を不思議に感じた。それを察したかのように奏薫が話を続ける。


「……母は、家族と生き別れて孤児となったところを、商家に拾われたとのだ聞いてます。計相は……まだその頃は、ただの官吏でしたが……母の姓を知って、もしかしたら母が貴族の出かもしれない、と思ったのでしょう。既に計相には正妻がいたにもかかわらず、母に興味を持ったようでした」


 奏薫はこんな時も、あくまでも計相——柳統来——のことを父とは呼ばない。まるで他人のことのように話した。


「でも、結局、母が元々翠国の人間ではなく、貴族でもないことがわかると、計相は急に興味を無くしたようで、母は捨てられたそうです。……その時、既に母のお腹には私がいました。母は一人で私を産んで育てることになりました。……でも、私が七つの時、突然計相から迎えが来ました。ちょうど恭仁様が……皇太子がお生まれになった頃です」


 淡々と話す奏薫の横顔を英賢はそっと窺った。


 こんな話なのに表情に乏しい。いや、こんな話だからむしろ感情を表に出さないように話しているのだろうか。


 英賢は湧き上がってくるもやもやとした感情を抑え、静かに耳を傾けた。




 後宮に側妃として入っていた統来の妹の柳氏が男児を生んだ。その男児の手のひらには翠国の紋章である、梧桐の葉の印が現れた。いずれ王になる者の証だ。

 突如皇太子の生母となった柳氏の実家は、その功績により取り立てられることになった。しかし、政治的勢力の調和と正妃の立場に配慮する翠国の制度により、皇太子の生母と言えど、極端にその氏族の立場が強くなることはない。柳氏の当主であった統来の兄の謙丁のみが昇進した。


 統来はそれを不服に思った。しかし、養妃となった妹とは元々仲が良いわけではない。妹に口利きをしてもらうのは難しいだろう。

 それでも、折角生まれた、血の繋がりのある皇太子を足がかりに、何とかして自分も出世したいと思った。妹による便宜を望むことができないのであれば、自分の言いなりになる者を後宮に送り込み、皇太子や王との繋ぎ役とさせればよい、と考えた。


 そこで統来は、以前手をつけた商家の使用人が、女児を生んだと聞いていたことを思い出した。後宮に送り込むにはうってつけだ、と自分の考えに満足した。

 統来は捨てたはずの奏薫の母親を探し出した。そして、それまで知らぬふりをしていた我が子に、養妃となった柳氏の小間使いをする女童として後宮に行くよう求めた。


 奏薫の母親は、統来から受けた酷い仕打ちにもかかわらず、統来に未練があった。母親は、統来の歓心を買うために、奏薫に言うとおりにするよう言い聞かせた。統来にはその時、若い二度目の妻がおり、母親は自分が正妻の座につくことは難しいとわかっていたのにもかかわらず、だ。

 しかも、その頃の奏薫と母親の暮らしは、母親が病気がちなこともあり、日によっては食べるものにも事欠くような貧しさだった。だからまだ七つだった奏薫に選択肢はなかった。


 奏薫は言われるとおりにすることにした。病気がちの母親の面倒をみてもらうことを条件として。

 母親は統来の屋敷に引き取られた。母親を人質に取られたような形で、奏薫は後宮で女童として養妃に仕えた。統来はまだ幼い奏薫に、お前は父親のために働くのだと命じた。


 奏薫が後宮に送られてしばらくすると、統来の後妻が子を産んだ。それまで正妻との間に子がいなかった統来にとって、待望の男児であった。

 奏薫の母親は、統来に後継が生まれたことで尚更肩身が狭くなった、と奏薫に訴えた。何とか統来の役に立ってほしい、と奏薫に懇願した。


 しかし、どう言われても、女童の奏薫にできるのは、皇太子のもとに訪れる王や王妃に、統来が素晴らしい人物であるという、心にもない評判を控えめに耳に入れることくらいだった。統来本人に大した功績がないため、何の権力もない奏薫が褒めたところで、出世させるなどというのは到底難しい話だった。


 奏薫は、この不毛な状況を終わりにしたかった。


 だから、母親を引き取って自分の力だけで暮らすために、官吏登用試験を受けることを決意する。

 後宮で養妃に仕えながら、空いた時間に独学で学び、何年もかけて試験に備えた。ようやく試験を受けられる年になると、満を持して受験し、合格することができた。ほとんど女性官吏がいない翠国では異例のことだった。


 母親は喜んでくれた。奏薫もこれで統来から逃れて暮らすことができる、と嬉しかった。

 しかし、母親が奏薫に望んだのは、あくまでも統来の出世の手助けだった。


「これで旦那様のお手伝いがしやすくなるわね」


 それが母親が奏薫に言った祝いの言葉だった。


 奏薫は母親のために、統来の言うなりに、その出世のために働いた。

 幼い頃から緊張を強いられ、宮中で神経を研ぎ澄ませて過ごしてきた奏薫は、様々なことを見聞してきた。その知識は官吏としての業務に活かすことができた。お陰で色々な場面で重用されるようになった。

 統来を出世させるため、奏薫は自分の上げた手柄の大半は統来のものであることにした。統来が素晴らしい人物だと、周りに信じさせた。

 柳氏の当主である兄の謙丁が亡くなり、その役職を引き継ぐと、統来の権力への欲望は加速した。




「計相のため、時に政敵の不正を嗅ぎまわって暴いたりもしました」


 奏薫は沈んだ声で打ち明けた。


「だから、私が同僚たちに嫌われるのも、当然といえば当然なのです」


 しかし、その甲斐もあって、元々がうだつの上がらない中級貴族だった統来は、翠国の中枢の一人でもある計相にまで登りつめることができた。


「あの人は、計相という地位を手に入れました。だから私はもう用済みの存在なのです」


 ただ事実を述べているだけというような、一切の感情を廃した口調だった。

 英賢は奏薫の話を黙って聞いてはいたが、胸の中は激しく波立っていた。統来に対する怒りが収まらない。奏薫の母親に対しても理解することができなかった。

 奏薫の感情を表さない術は、自分を守るために身につけたものなのだろう。確かに、通常の感覚ではおかしくなりそうだ。


「貴女の母上は今どうされているのですか?」


 胸の内の感情を抑え、母親のことを悪く言わない奏薫を傷つけぬよう、英賢が穏やかに聞く。

 奏薫の伏した睫毛が僅かに揺れた。


「……昨年、病気で亡くなりました」

「……そうですか……」


 だから柳の家を出て距離を置いていたのかと納得する。


「……時々、何のためにこんなことをしているのだろう、と思うことがありました。でも、その度に、母のためだ、と思ってやってきました。母は、可哀想な人だったんです。……でも、母が亡くなると、計相のために働かなくてはならない理由もなくなりました」


 奏薫が水面に浮かぶ葉が揺れるのを見つめる。葉が揺れているせいなのか、奏薫の瞳が明らかに揺らいだ。

 酷い母親だ、と英賢は思うが、奏薫にとっては大切な唯一人の身内だったのだ。


母親が亡くなった時、ちゃんと悲しむことはできただろうか。


 英賢は胸が痛んだ。 


 奏薫は何もかもの感情を、自分の内に溜め込んだままなのではないだろうか。


 英賢は、奏薫に思う存分感情を吐き出させたい、という衝動に駆られた。しかし、それをする権利は自分にはないのだ、と自らに言い聞かせる。

 そんな英賢の葛藤の横で、奏薫がぽつりぽつりと続ける。


「だから、その時、本当は塩樹部も辞めようと思っていました。でも、蒼国の記念事業用の材木を手がけていたので、それを終えてから、と思って続けていました。なのに、こんなことになってしまって……。延士ももう少し待てば、私はいなくなったのに……」


 溜息をつく。


「ただ、敬元叔父が言うように、恭仁様を裏切る形にはできないと思いました。それに、養妃様は、計相の邪まな目的で送り込まれた私にも良くしてくださいましたから、失望をさせたくはありません」


 それは自分に言い聞かせているようでもあった。


「敬元殿とは親しいのですか」


 英賢が平静を装い聞く。


「はい。計相の下の弟にあたる叔父なのですが……私と同じ立場のせいか、昔から気にかけてくれます」


 敬元も庶子だという。奏薫の理解者がいることに、ほんの僅か、英賢の心のざわつきが治まる。


「柳副使に頼ることができる人がいてよかった」


 英賢がそう言うと、奏薫が改まって言った。


「……蒼国の方々(かたがた)にも、とてもお世話になりました。本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません。きちんと解決をしてご報告したいと思います」


 真っ直ぐに見つめてくる奏薫に、英賢は精一杯笑みを返した。


「ええ。待ってます。今度はゆっくりと来てください」


 しかし、そう言いながら、奏薫に何もしてやれない自分に、英賢はどうしようもなく苛立ちを覚えていた。

 英賢は、せめてこの孤独な女性がこれ以上苦難に遭わないように、と祈った。




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