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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −綠條の巻−
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二年仲夏 鵙始鳴 5



 北青県からの帰りの道中、奏薫は考え込んでか、細い指を口元に当てたまま、置物のように身じろぎしなかった。

 英賢はそんな奏薫をちらりと見ると、馬車を止めさせた。


「少し休憩しましょう」


 馬車は欅の大木の脇に止まった。

 馭者が馬に水を飲ませている間、英賢も馬車から降りて伸びをする。


「柳副使も降りませんか?」


 そう言われて、奏薫は馬車が止まったのにようやく気付いたように周りを見回した。


「あ……はい」


 馬車から降りると、奏薫はそよそよと葉を揺らす欅を見上げた。眩しそうに眉を寄せるその横顔が、一瞬だが英賢には泣き出しそうに見えた。


「柳副使」


 英賢は思わず声をかけた。

 しかし振り向いたのは、いつもの感情を抑えた顔だった。顔色が優れないものの、青灰色の瞳に涙はない。


「……木陰が気持ちいいですよ」


 英賢は、勘違いした自分に少し気まずさを覚えつつ言うと、欅の根元に腰を下ろした。そして、手巾を地に這う欅の根の座りやすそうな部分に敷いて、どうぞ、と奏薫を(いざな)う。

 奏薫は手巾を自分のために敷いてくれたことが意外だったのか、まばたきをして英賢を見ると、すみません、と小さく言って手巾の上にそっと腰掛けた。座った膝の上で細い指を重ねる。

 馬車で外を見ていた時と同じ硬い横顔は一向に和らがない。


「昨夜はあまり寝られなかったから、疲れているのではないですか?」


 昨夜どころか、ここ数日、ちゃんと眠っていないのではないだろうか。細い身体でよく倒れないものだ。


 そう思い、英賢の穏やかな声が奏薫を気遣うように聞く。


「いえ。私は大丈夫です。ありがとうございます」


 奏薫は膝の上の手に視線を置いたまま頭を下げ、それ以上の言葉は続けなかった。


 従兄弟に憎まれ、弟や部下に裏切られ、親にまで捨てられた。こんな状況でも泣いたり愚痴を言うでもない。この人は一体今まで、どんな風に日々を過ごしてきたのだろうか。


 英賢は奏薫の俯く横顔に、やりきれない気持ちを抱いた。


「これからどうするつもりですか?」


 英賢が聞くと、奏薫の膝の上に置いた細い指にぎゅっと力が入った。


「翠国へできるだけ早く帰ろうと思います」

「そうですか」


 奏薫は自分一人で何とかするつもりなのだろうか。

 もやもやとした感情が英賢の胸の中を侵食する。

 英賢が口を開きかけた時、腰掛けたすぐ横で生き物の息遣いが聞こえた。

 目をやると、小さな犬がくりくりとした丸い目で英賢を見上げていた。


「おや。どうした」


 仔犬は湿った鼻を英賢の手に押し付けてくんくんと嗅ぐと、短い前足を英賢の膝に乗せてきた。英賢はその愛らしさに相好を崩す。その小さな頭を撫でると千切れそうなほど尾を振った。

 その様子を首を傾げて覗く奏薫に気づく。


「何処から来たのでしょうね。随分と人懐こい仔犬ですよ」


 英賢がひょいと仔犬を抱き上げて、奏薫の方へ移動させた。


 仔犬はきょとんとして奏薫を見上げる。

 奏薫は少し躊躇った後、恐る恐る仔犬に手を伸ばそうとした。すると、仔犬は短い前足を踏ん張り、ううう、と威嚇の唸り声をあげた。そして、英賢の足元の方へ後退しながら、奏薫に向かって高い声で激しく吠えた。

 奏薫はびくりと驚いて、出しかけていた手を引っ込めた。


「どうしたどうした」


 英賢が仔犬を抱き上げると、仔犬は唸り声を抑えて英賢の腕の中で大人しくなった。

 その様子を見て奏薫が溜息をつく。


「私、犬や猫に嫌われるんです」


 行きどころのなくなった手を再び膝の上に戻して、諦めたように英賢に抱かれた仔犬を見る。


「そうなんですか」

「はい。触らせてもらったことがないのです。いつも吠えられたり逃げられたりで。……悪人に見えるのでしょうか」


 乏しい表情の中で、僅かに沈んだようなその様子が、今までの奏薫の印象とは随分違う。

 英賢は思わず笑いを漏らした。

 笑われた奏薫が真顔で英賢を見る。何が可笑しいのだという顔だ。


「ああ、失礼」


 笑いを残しながら謝る。


「犬に嫌がられるのを気にするとは思わなかったので」


 腕の中の仔犬は、下におろされると、英賢の袍の裾に(じゃ)れ始めた。


「動物に好かれる方にはわかりませんわ」


 英賢の横でころころと転がりながら遊ぶ仔犬を、恨めしそうに見て奏薫が呟く。


「私もそんなに動物に好かれるわけではありませんよ。下の妹は何の動物にも懐かれ……ま……」


 話しながら堪えていたがとうとう我慢できず、ははははっ、と英賢が声をあげて笑い出した。

 ”石柳”と渾名されるほど感情を出さない奏薫が、触らせてくれない、と仔犬に恨めしそうな顔をするのが妙に微笑ましかった。

 笑いを堪えようとして肩を震わせている英賢を奏薫が見る。


「……そんなに可笑しいですか」


 仔犬に向けていた恨めしそうな目を、英賢に向ける。


「申し訳ないけど可笑しかったです」


 英賢は笑いを消すことができない口元を隠しながら、仔犬の頭を撫でて言った。


「もっと肩の力を抜いてみてはどうですか? 緊張していると動物にも伝わるようですからね」

「そうなんですか」

「ええ。確かに柳副使は顔がいつも怖いですよ」


 英賢が少し意地悪に言う。


「生まれつきです」


 奏薫は英賢から顔を背けると、頬に手を添えて表情を修正でもするかのように押さえている。

 その横顔は、笑う、というには程遠い表情のままだが、少し和んでいるのに気づき、英賢も顔をほころばせた。







 采陽へ着くと、英賢は奏薫を連れて、報告のため壮哲の執務室を訪れた。昊尚にも同席してもらい、一連の経緯を説明すると、壮哲は、ふむ、と眉を顰めた。


「宗廟の建築をそのような不埒な目的に使うとは許し難いな」

「申し訳ありません」


 奏薫が深く頭を下げた。


「いや、柳副使を責めているのではない」


 壮哲が苦笑する。


「許し難いとは思うが、だからと言って、一部の不届き者のために翠国と摩擦を起こしたいわけではないからな。あくまでも、表面上は、出来るだけ穏便に収めてくれ」

「承知しました」


 英賢と昊尚が頷く。奏薫はそのやり取りを聞いて、壮哲に改めて深く頭を下げた。


「ありがとうございます。感謝申し上げます」


 奏薫は硬い表情のまま顔を上げ、壮哲を遠慮がちに見た後、再び深く(こうべ)を垂れて言った。


「……この上更に厚かましいとは承知しておりますが、どうか卑官の願いをお聞き届けいただけないでしょうか。……呉氏が保管されていた文書を……お貸しいただくことはできないでしょうか」


 息を詰めて頭を下げる奏薫を、壮哲が見つめる。その壮哲を英賢は窺い見ると、奏薫に視線を戻す。


 文書だけではなく、人も貸してくれと言えばいいのに。あの細い肩に、まだ一人で荷物を負うつもりか。


 微かに苛立ちを覚えた英賢は、思わず申し出ていた。


「……陛下、私が翠国へ行きましょう」


 言った後に英賢は、さすがに証拠の文書だけを奏薫に渡すことはできないから、と心の内で自分の発言を正当化する。

 奏薫は思っていなかった言葉に、顔を上げて英賢を見た。すると、壮哲が眉間に指を当てて英賢に言った。


「碧公が行くのは良くないな」


 それに対して英賢が口を開きかけると、壮哲は手を挙げて英賢を制した。


「青公が行くと事が大きくなる可能性がある。……行かせるのなら……工部尚書か」


 壮哲の斜め前にいた昊尚が頷く。


「そうですね。塩樹部の長官との釣り合いを考慮するとそれがよろしいでしょう。担当部署の責任者同士が協議したという形ですね。斉丞相にも調整してくれるように話を通しておきます」


 英賢はうっすらと不服に感じながらも、それが最適なのだろう、と思い直す。


「……まあ、呉氏を選んで派遣したのは工部尚書ですからね。任命責任をとってもらいましょう。きっと挽回するために頑張って来てくれるでしょう」


 壮哲が、ああ、と思い出したように笑う。


「ついでに工部尚書なら腕っぷしも強いし安心だな。襲われたとしても柳副使に手を出させないだろう」


 確かに、と昊尚と英賢も頷く。


「そこまでしていただくのは……」


 その成り行きに奏薫が戸惑いながら言うと、壮哲がそれを遮った。


「今回のことでは我が国も被害を受けている。翠国には、その原因を明らかにして正し、我が国にも説明する義務がある。柳副使に手を貸すのは、それがこの件を解決するのに最善であると判断したからだ」


 ぴしりと言う。しかし、急に壮哲の口調が砕けた。


「だから柳副使は、ここで遠慮するよりも、利用できるところは利用して、早急に決着をつけることに力を尽くすべきだと思うぞ」


 壮哲から下された気遣いに、奏薫は唇を固く結ぶと、深く、そして長く頭を下げた。





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