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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −香雪の巻−
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二年季春 戴勝降于桑 4


 手と足を縛られて身動きの取れないまま、夜通し全速力で走る馬車に揺さぶられるのは、かなり辛いものだった。時折、女が範玲に水を勧め、無理やりにでも飲ませようとしたので、死なせるつもりでいるわけではないということなのだろう。


 馬車はまだ暗いうちに羅城に着いた。

 閉ざされていた城門が密やかに開けられ、馬車が通るとすぐに閉められた。こんなことができるのは普通の身分の人間ではない。

 都城に入ると、(しばら)くまだ暗い街を走り、幾つかの門を通った。いずれも馬車が通る程度に門が開かれ、中へ招かれた。馬車は建物の前で止まると、範玲は足の拘束を解かれて降ろされた。

 もしかして逃げられるのではないかと思ったが、一晩中馬車に揺られていた身体が痛み、自分のものでないように言うことを聞かない。足がもつれて倒れそうになり、女に腕を掴まれた。女は無表情のまま、「逃げられはしませんよ」と言いながら手早く範玲に猿轡を追加すると、範玲を従っていた大男に担ぎ上げさせた。


 屈辱を感じながらも為す術なく、範玲は荷物のように一室に運び込まれた。そこで大きめの(ながいす)に降ろされる。

 部屋には先客がおり、窓際の椅子に足を組んで座る人影があった。室内の仄かな明かりに照らされた酷薄そうな美しい顔が範玲を見ている。

 それに気づき、やはり、と範玲は絶望を覚えた。


 雲起だ。


 昨年、蒼国での前王の騒動の際に、遠目でだが見た顔だ。


「うん。やっぱりこの間来た県主(ひめ)と違うよね。駄目だよ。私を騙すなんて」


 見る人を魅入らせる笑顔を範玲に向けた。こんな時でなければ見惚(みと)れるような艶やかさだ。


「君が範玲で間違いないんだよね?」


 雲起は立ち上がって榻の脇に来ると、固まっている範玲の顔を覗き込み、猿轡を外した。

 手の拘束も解かれたが、自分の身体なのに思うようには動かない。ぎしぎし音を立てそうな体を何とか起こすが、範玲は雲起を睨むことしかできない。ようやく出すことができた声も掠れていた。


「どうしてこんなことをするの?」

「こんなこと、って、君を攫ってきたこと?」


 目に愉快そうな色が宿る。


「そりゃ、君が面白そうだからだよ。とっても耳が良いんだってね。それに、君は青家の血筋だからね。君と子をもうければ、蒼国を継ぐ権利が手に入るじゃない? 一石二鳥だ」


 範玲は激しい嫌悪感で吐きそうになる。


「……あなた、おかしいわ」


 範玲の青い顔を見て、益々妖しさが加わった美しい顔で雲起が笑む。


「そうかな」


 言いながら範玲の顎に冷んやりとした手をかける。範玲は咄嗟にその手を払った。

 雲起は大して気にした様子もなく、笑顔のまま範玲を見ている。


「次触れたら舌を噛みます」


 範玲が雲起を睨むが、更に愉快そうに美しく口の端をあげる。


「それは困るな。折角来てもらったんだからさ。君には私に自発的に従ってもらった方が都合がいい。色々と言いつけを聞いてもらいたいしね」

「そんなことするはずがない」


 範玲の言葉に雲起が、どうかな、と言いながら悠然と元いた椅子に腰掛ける。


「更真」


 雲起の呼ぶ声に応えて部屋の端に立っていた影が進み出た。それは影ではなく、袍を纏った官吏風の男だった。


 見覚えがある気がする。


 思い至り、範玲は息を呑んだ。


「ああ、会ったことがあるのかな。これは楊更真。君の教育係になってもらうつもり」


 "更真"と呼ばれた男が表情のない顔で範玲を見ている。


「……長古利……」


 範玲が呟くと、雲起がにこりと笑った。


「楊更真だよ」


 身なりは蒼国で見たのとは全く違っているが、明らかに古利だ。身に纏う衣服を替えても雰囲気は元のままだ。

 "楊"は古利の父親の姓だった。ということは、更真というのは本当の名前なのだろうか。

 榻の上で範玲が座ったまま後ずさると、古利__更真が無表情のまま、範玲の前に立つ。


「お前が、"ハンレイ"だったんだな」


 範玲を硝子のような無機質な目で見下ろす。


「駄目だよ、更真。それは私のだからね。更真には彼女の教育をお願いしたいんだ」


 雲起が目を細めて更真に言う。古利が雲起をチラリとみて、再び範玲に視線を合わせた。

 範玲は恐怖のあまり、ぎりぎりつなぎとめていた気持ちの糸がぶつりと千切れ、真っ暗な闇へと意識を落としてしまった。




**




「珠李がまた攫われたというのは本当ですか!?」


 血相を変えた央凛が英賢の執務室に飛び込んで来た時、そこには昊尚もいた。

 挨拶もなく、いきなり投げられた央凛の言葉に、書類から顔を上げた英賢の碧色の瞳が見開かれる。


「どういうこと?」

「今、志敬殿がいらして、珠李を預かったという文が来たと……」


 英賢たちはもう知っているものだと思って来た央凛の勢いが急速に弱まる。


何刻(いつ)のこと?」


 英賢のいつもの柔らかい声が硬いものに変わり、央凛の声が心細げになる。


「……文が来たのは半刻(はんとき)ほど前と、聞きましたが……」

「順を追って話してください」


 昊尚が央凛を落ち着かせるため、座るように促して先を聞く。


「……私が知ったのは、今しがたです。珠李が居ないか尚食に探しにいらっしゃった志敬殿から聞きました。その志敬殿の話によりますと、……半刻程前に、史館に門番が志敬殿宛ての文を預かったと言って持って来たそうです。その文には、"珠李を預かった"とだけ書かれていて、……一緒に髪が一房、入っていたそうです」


 英賢が顔色を変え、息を呑む。


「その髪は珠李のなの?」

「色は似てはいたそうですが、実際に珠李のものかはわかりません」


 央凛の答えに、英賢が眉間に深い溝を刻み、長い睫毛が震える。

 続けてください、と昊尚に促されて央凛が言葉を継ぐ。


「今日は珠李はお休みの日だったので、志敬殿と順貴殿が家へ確かめに行ったようなのですが、誰もいなかったそうです。それとは別に、正宗殿が金吾衛に知らせに。そして、……あの……範玲様が、尚食の執務室に珠李がいないか確認をした後、……英賢様にお知らせに行かれるとおっしゃっていたようなので、てっきりご存知だと……」


 央凛の声が完全に不安の色に染まり、昊尚と英賢の顔が強張る。


「……範玲殿はここには来ていませんが、そちらへは行ったのですか?」


 昊尚が感情を抑えた低い声で聞く。


「……尚食の部屋へはいらっしゃったようです。うちの女官がお会いしています。……でも、その後はこちらへ来ておられないとなると……」


 央凛の答えに、昊尚が眉間に拳を当てて黙り込む。


「珠李は見つかったのですか」


 英賢も青い顔をして聞く。


「いえ、まだ金吾衛で探しているようですが……」


 そこへ、血相を変えた子常が、羽交い締めにしてしがみつく護衛の兵士を引きずりながら、勢いよく戸を開けて入ってきた。


「英賢様! 範玲様がいません!」


 追い討ちをかけるような知らせに、英賢が思わず立ち上がる。その拍子に椅子が倒れ、大きな音が響いた。


「……初めから範玲殿を狙った可能性がありますね」


 転がった椅子を見つめ、低い声で昊尚が呟いた。




 この件を壮哲に報告すると、左羽林軍も捜索に出してくれることになった。

 まず、志敬への文を預かった門番が、どの門の者なのかを探さなくてはならなかった。判明した時には、その門番は勤務を終えて家に帰ってしまっており、呼び戻して話を聞いた。


 門番の証言で、志敬宛の文を預けたのは若い女であったこと。そして、その後に範玲らしき人物がそのことを聞きに来たことがわかった。それを聞いた後に範玲がどうしたのかという問いには、花街の方へ行ったようだったと言う。

 花街を捜索すると、ある酒楼の一室で猿轡(さるぐつわ)をされて足と手を縛られた珠李一人が発見された。珠李は髪を一房切り取られたことと、抵抗した時にできた打ち身以外は、大きな怪我もなく無事であった。

 しかし、珠李の拉致を指図していた人物については、対面で顔を合わせた珠李をもってしても、若い女だったこと以外思い出せなかった。



 昊尚は央凛の話を聞いて以降、身のうちに鉛を飲み込んだような気分が続いていた。頭の中では焦りばかりが募る。

 武恵の件にかまけて、警戒が緩くなっていたであろうことを改めて悔やんだ。こんな時こそもっと気を引き締めるべきであったと自らを責めた。

 昊尚は帯につけた結び飾りを外し、指でそっと編み目をなぞる。

 少し不恰好な編み目の隙間から、不撓の梅の花弁がぼんやりと細い光を放っている。昊尚は光の方向を確認し、くそっ、と思わず声に出していた。

 不撓の梅の花弁は、範玲が朱国の方向にいることを教えてくれていた。




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