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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −香雪の巻−
57/192

二年仲春 雷乃発声 3


 昊尚が茶を入れ直すと、それをやはり無表情に飲み、一息つくと慧喬が腰をあげた。


「もうお帰りですか」

「ああ。邪魔をした」


「折角お立ち寄りいただいたことですし、絹織物の工房をご覧になりませんか」


 壮哲が持ちかけると、慧喬が興味を示した。先日大雅がその技術の輸出をまとめていった蒼国の絹織物の工房だ。

 その工房を案内することになり、準備のために少し待つ時間ができた。



「もう怪我は大分良いようですね」


 文陽が昊尚に静かに微笑みかける。凪いだ空気を纏っている印象を受ける人物だ。


「はい。その(せつ)は郷の皆に心配をかけました」


 昊尚が親しげに話す文陽の首には、亀甲形の青い石の首飾りがある。

 文陽は(ひつ)の郷の出だ。


 玄海の中にある謐の郷は、紅国の領土内にあるが、ずっとその存在が明らかになっておらず、紅国自体も把握していなかった。よって、謐の郷が紅国の統治下に置かれているとは言い難い状況だった。

 十年程前、紅国の皇太子である大雅が昊尚と共に謐の郷に辿り着いた。知ってしまったからには、流石にそれまでどおりというわけにはいかなくなった。しかし、紅国と謐の郷との協議の末、謐の郷は郷の人々が望むこれまでどおりの形、つまりその存在を隠したまま保護されることとなった。

 そのお陰で、今でもほとんどの人がその存在を知らないままだ。


 何故、そのような形とすることになったのか。


 実は、郷人(さとびと)が望む形で謐の郷を保護するその代わりに、文陽が慧喬に仕えるという取引をしたのだ。

 こう聞くと文陽が人質として差し出されたような印象を受けるが、これは当時まだ二十歳をいくらか過ぎたくらいの文陽が自ら言い出したことであった。

 玄海に郷を移す前は、謐の郷の人々は、その並外れて良い耳故に、過去、幾度も為政者から間諜として利用するために追われたり、はたまた子どもを(さら)われたりした。謐の郷の人々が人里から隠れて玄海で暮らすようになったのは、その危険から逃れるためでもあった。

 当時まだ若者だった文陽が、自分の耳が良いという特殊な能力を提供する代わりに、謐の郷を統治下に加え、今までどおりの状態で保護してほしいと慧喬に直談判したのだ。謐の郷の存在を表沙汰にせずに保護することは、他国へ間諜としての能力を持つ者が流出するのを防ぐことにもなる、と。

 慧喬は、文陽との取引に応じることとした。

 よって、謐の郷のことも、文陽の耳が並外れて良いということも、慧喬と限られた者以外には伏せられることになった。

 文陽は慧喬に仕えるようになると、その耳を利用した任務だけでなく、官吏としても頭角を現し、慧喬に重用されるようになった。

 結果、謐の郷は紅国との太い繋がりができ、以前と同じ静かで、しかも、より安全な生活を手に入れることができた。

 なお、今回の旅でも文陽は、先ほど慧喬が提供してくれた情報を収集するのに一役買っている。



 壮哲が慧喬と絹織物の新しい技術の保護について話をしている側では、月季が手持ち無沙汰にしていた。

 壮哲の脇に控える佑崔を無遠慮に見ると、月季が声をかけた。


「ねえ、そこの貴方、私と手合わせをしてくださらない?」


 話しかけられた佑崔は、にこりと微笑む。


「申し訳ありません。警護中なので」


 佑崔の全く相手にしない様子に月季の上向きの美しい眉が更に上がる。


「あら。私に負けるのが怖いの?」

「はい」


 佑崔が和かな表情を崩さず短く肯定の返事をすると、月季があからさまに憮然とした表情になる。

 その様子に気づき、壮哲が苦笑する。


「理淑を呼んだらどうだ?」


 おそらく喜んで相手をすると言うだろう。


「誰なの?」


 月季が他国の王に対しても口調を変えず、訝しげに壮哲を見る。


「我が羽林軍の誇る手練れだ」


 壮哲がいたずらっぽく笑った。




 事務官に理淑を呼びに行かせると、間も無く理淑がやって来た。


「お呼びでしょうか」


 走って来たのかつややかな頬が桃のように色づいている。

 現れた華奢な少女に、月季が不機嫌になる。


「馬鹿にしてます?」


 睨みつけて恨めしげに言うので、とんでもない、と壮哲が笑う。


「工房をご案内している間、理淑と手合わせをされるが良い。それで不足ならば私が相手をしよう」

「それでいいわ。その言葉忘れないでよ」


 気の強そうな琥珀色の瞳がいらっと揺れた。

 呼ばれた理淑はきょとんとして壮哲と月季のやりとりを見ている。


「理淑、こちらは月季殿。紅国の公主殿だ。手合わせをしたいそうだ」

「わかりました。いいですよ」


 言われて理淑は屈託無く承諾した。




 慧喬らを工房に案内し終わって、壮哲と佑崔が禁軍の鍛錬場に月季を迎えに行ってみると、まだ二人は剣を交わしていた。


「理淑」


 壮哲が声をかけると、理淑が一瞬目線をよこして、受けていた月季の剣を勢いよく押し戻した。月季は衝撃を吸収しきれずふらつく。


「終わったんですか?」


 理淑が月季に声をかけてから、壮哲と佑崔の元に駆け寄ってくる。

 息は上がっているが、非常に楽しかったようで、外で思う存分遊んで来た子どもように満足げだ。


「ああ。そっちは?」


 壮哲が聞くと、理淑は目を輝かせて笑った。


「楽しかったです! 月季殿、強いんですよ!」


 月季はというと、座り込んで肩で息をしていた。壮哲が月季の元へ歩いていく。


「足りなければ相手をするが?」


 笑いながら聞くと、月季が壮哲を睨む。


「何なの? あの子」

「だから、うちの手練れだと言ったろう。不足はなかったようだな」


 月季が黙る。


「立てますか?」


 理淑が軽やかに駈け戻ってきて月季に手を差し出すと、月季が大人しくその手を取る。


「貴女、禁軍で一番強いの?」


 理淑に手を引っ張られ、ふらつきながら立ち上がった月季が聞くと、理淑は、まさか、と笑った。


「壮哲様や佑崔殿には全然敵わない」


 壮哲様はもう禁軍じゃないけど、と付け足す。それを聞いて、月季はばつの悪そうな顔をする。


「でも、月季殿も強いですね! またお手合わせしてくださいね!」


 嬉しそうに笑う理淑に、月季は、ふい、と顔を背けた。


「……まあ、また相手をしてあげてもいいわ。今度は紅国へ来たらいいんじゃない」


 もごもごと呟く月季は、態度からは分かりにくいが、理淑のことが気に入ったようだった。





 非公式ではあるが紅国王との初会見を終え、改めて壮哲と青公らが集った。


「いよいよ何か動きそうだな」


 朱国のことを考えると頭が痛い。


 壮哲が溜息をつく。


「武恵殿が皇太子を降ろされるとなると、まさか雲起殿が継ぐことになるんじゃないだろうね」


 英賢が美しい眉を顰める。


「嫌なことを……。ですが、例えそうでないとしても、……こう言っては何ですが、第二皇子の雪昇殿では、とても務まらないと思われますので、どの道……」


 昊尚は、以前喜招堂として会ったことのある雪昇を思い浮かべる。慧喬の話を聞いた後では尚更、背後に雲起の影がちらつく。


「やはりそうなるのか」


 その場の全員が漏れなく嫌な顔をした。


「おまけに徳資殿が古利に暗示をかけられているとすると厄介だな」

「はい。ただ、暗示以前に徳資様が変わってしまわれたことが気になります。古利が朱国に入ったのはまだ数月前のこと。農作物の不作による問題が起こり始めたのはもっと前です」


 古利に暗示をかけられてしまったのも、心に隙があったからだろう。


「徳資殿は不作に対する処置はしていないのか」


 縹公が、意外な、という面持ちで聞く。


「武恵殿が頑張ってはいたようですが、捗々(はかばか)しくなかったようです」

「それで賃金の良い蒼国への出稼ぎが増えているのだな」


 昊尚が頷く。


「それにしても我が国が朱国の労働力を安く買い叩いている、というのは随分広まっているようだな」


 壮哲が腕を組み唸る。


「朱国民の不満の矛先を蒼国に向けるためのものです。そして蒼国の商人の財産を没収するためのただの口実です」

「まあな。ただ、そうやって来た者たちが、蒼国の鉱山採掘場で働いたために肺の病になってしまった、というのは由々しき問題であることは間違いがない。蒼国の民でも朱国の民でも区別することではない。病になってしまった者を少しでも救ってやりたいな」


 先日の古利の脱獄未遂の際に、牢に押し入った朱国からの若者のことを思い出しながら壮哲が深い溜息をつく。


「はい。それと、これ以上被害が拡大しないように、採掘現場の環境改善はしっかりと進めていかないといけません。先日ご指示のありました採掘場の近くへの医師や薬師の配置は順次行なっています。……その件で、少しお耳に入れたいことが……」


 昊尚が報告書を差し出した。


 

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