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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −白及の巻−
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余話14 志敬と順貴と珠李

「余話9 順貴と珠李」の後日のお話です。

興味がなかったらすみません……。



 建国二百周年を記念して編纂されていた史書の完成を祝う宴が、城下の酒楼で催された。といってもごく内輪の会で、史館の職員五人と、それに範玲が珠李と文莉を誘った。


「珠李殿、遅いですね……」


 範玲がそわそわと落ち着かなげに文莉に話しかけた。宴は始まって既に半刻ほど経っている。


「お仕事が長引いてしまっているのかもしれませんね……」


 そう言って文莉が個室の入口に目を移すと、ちょうどがらりと扉が開いた。現れたのは待ちかねていた珠李だ。


「遅くなって申し訳ありません」


 嬉々として範玲が立ち上がり、恐縮している珠李を出迎える。


「お疲れ様です。よかった。来てくださって」


 範玲が珠李の手を引いて席へと誘うと、志敬が「ここ、ここ」と自分の隣の椅子を叩いて嬉しそうに妹を呼んだ。


「珠李、お勤めご苦労!」


 いつも朗らかではあるが、今日は突き抜けたように明るい。


「やだ。兄上。もう酔っ払ってるでしょ」


 椅子にかけながら非難を込めて嫌な顔をした珠李に、


「だーいじょうぶ。まだまだ。お前も飲め飲め」


 と杯を手渡し、おっとっと、と言いながら覚束ない手でとぷとぷと酒を注いだ。


「あ……もう……溢れてるじゃない。飲み過ぎよ」


 珠李が眉を顰める。


「何だよぉ。いいじゃないか。めでたいんだから」


 杯を重ねる速度がいつもより速いようで、既に酔いが回っているらしい。元から緊張感の少ない志敬の顔が一層締まらなくなり、呂律も怪しくなりかけている。


「いい加減にしておけよ」


 向かいに座っていた順貴が志敬の手から酒器を取り上げ、溢れた酒で手を濡らした珠李に手巾を渡した。


「あ……。ありがとうございます」


 手巾を受け取りつつ、珠李が小さく言った。





 宴も終盤に差しかかる頃には、上機嫌で呑んでいた志敬は卓に突っ伏して眠ってしまっていた。


「兄上、ここで寝ては駄目よ」


 珠李が志敬の背中を叩く。しかし、んんー、と寝ぼけたような声が返ってくるのみ。


「ああ……完全に寝てしまいましたね……」


 範玲が横から覗き込む。


「起きて、兄上。もうすぐお開きよ」


 強く揺すっても、ごごごごと鼾までかき始めた志敬が起きる気配はない。 

 この大きな兄をどうやって連れて帰ればいいのか。

 珠李はなす術もなく途方に暮れた。





「……すみません……」


 珠李が申し訳なさに身を縮めると、順貴が、よいしょ、と志敬を背負い直して笑った。


「いや、構わないよ」


 結局どう揺すってもつねっても、志敬に起きる気配がなかったため、順貴が送ってくれることになった。

 範玲たちに見送られて一足先に店を出ると、酔っ払った志敬を背負った順貴と珠李は並んで歩いた。

 珠李はちらりと隣を歩く順貴を窺い見る。しかし背から覆い被さる志敬の腕で順貴の横顔は半分ほど隠れ、その表情はよくわからない。

 通りを行き交う人や酔っ払いで周りは騒がしいはずのに、会話が続かないことが妙に沈黙を感じさせる。珠李は落ち着かない気持ちをどうすることもできず、指を握ったり引っ張ったりして自分の手を玩んでいた。

 すると、


「……元気にしてた?」


 順貴がぽつりと聞いた。


「え? あ、うん、はい。……陛下のご婚礼の準備なんかで色々とやることが多かったんですけど、それはそれで楽しかったし」


 珠李は慌てて答えると、ほとんど見えない順貴の横顔を見ながら聞いた。


「順貴殿も……元気でした?」

「ああ。変わりないよ」


 少し笑みを含んだ穏やかな声は、珠李の心をくすぐるように響いた。

 珠李は慌てて順貴から目を逸らした。


 順貴から想いを告げられてから、もう九月ほど経つ。

 あの時珠李は、「順貴殿のことは兄としか思えない」と答えた。

 順貴とは遠慮なくいろいろな話ができる間柄だった。順貴はいつも珠李を気遣い、危ない目に遭った時も我が事のように心配してくれた。でもそれは、親しい友人の妹だからだと思っていた。順貴にとっても妹のようなものだと。だから、順貴が自分のことを妹としてではなく好きでいてくれたということに、驚いてしまった。

 そう。驚きが先に立った。あの返事は、驚いて狼狽えた挙句に口から出たものだった。

 そうかわかった、とあっさりと答えた順貴は、それ以降も変わらぬ態度で接してくれていた。でも、珠李の方が妙に意識するようになってしまった。

 志敬に家呑みに誘われて順貴が来ることがあっても、珠李は何となく顔を合わせ辛くて避けた。

 そうしているうちに、順貴が珠李の態度に気付いてしまったのだろう。順貴が家に来ることは無くなってしまった。

 順貴が家に来なくなると、顔を会わせる機会はほぼなくなってしまった。あっても、たまに志敬を訪ねて史館に行ったときくらいだ。しかし会ったとしても、交わすのは挨拶程度になった。

 でも。あろうことか。

 そうなってから——順貴と話をしなくなってから——珠李は堪らなく寂しいと思っている自分に気付いた。そうなのだ。好きだと気付いてしまったのだ。自分から距離を置いたのに。

 自分がこんなにも都合の良い欲深い人間だとは、と自己嫌悪に陥りながらも、その気持ちは消えなかった。

 今、久しぶりに順貴と並んで歩いているだけで、ときめいてしまっている自分が酷く滑稽にも思える。

 もっと話をしたい、と思うが、らしくなく緊張して言葉が出ない。話したいことは沢山あるはずなのに、いざとなると何を話したらいいのかわからない。

 今日の宴だって、向かい側に順貴がいたのに、意識しすぎて範玲や文莉とばかり話していた。今までどうやって順貴と話をしていたのか思い出せないのだ。

 珠李が途方に暮れていると順貴が再び口を開いた。


「……仕事は、相変わらず忙しそうだな。今日も無理して来たんじゃないか?」

「ううん。全然。史館の皆さんには兄がお世話になっているし、一緒にお祝いしたかったから呼んでもらえて嬉しかった」


 珠李はふるふると首を振って前のめり気味に答えた。

 この返事は本当は少しだけ嘘だ。

 範玲に誘われた時、二つ返事で承諾した大きな理由は、順貴に会えると思ったからだ。


「そうか。よかった」


 嬉しそうな順貴の声で緊張していた気持ちが少し解れると、珠李はほっと息を吐いて聞いた。


「史書は完成したけど、史館のお仕事はまだ続くんですよね」

「もちろん。でも私は史館からは引き上げることになるかな」

「え? どうして?」

「元々、門下省付けの兼務で、私は史館でも予算関係のことをしてただけだから。二百周年記念の本が完成したらもう私の仕事はしばらくないから、本職に戻ることになる」

「……そうなんだ……」


 もう史館に行っても順貴と顔を合わせることがないということだ。


「……じゃあ、もうお会いすることもなくなるんですね……」


 珠李がぽつりと言うと、順貴が笑った。


「大袈裟だな。門下省の執務室に戻るだけだよ」

「……でも……」


 すぐ隣を歩く順貴を改めて見た。こうして話をする機会は、もうないかもしれない。

 兄の志敬が放蕩の旅に出た時だって、このまま会えない、などとは思わなかった。少なくとも、家族、という糸で繋がっていたから。

 でも、順貴は赤の他人だ。他人は会う努力をしなければ、繋がっていた糸はあっさりと切れてしまう。そのことは今回思い知った。

 珠李は湧き上がってきた焦る気持ちのまま聞いた。


「兄とはまだよく一緒にお酒を呑んだりしてるんですか?」

「え? ……まあ、そうだな」


 何となく気まずげに順貴が答えた。


「なら、またうちに来て飲めばいいですよ。兄もきっと、順貴殿に会えないと寂しいと思うんです」

「……行ってもいいのか?」


 順貴が意外そうな顔で振り向いた。久しぶりに見た藍色の瞳に珠李の胸がどきりと高鳴る。


「……もちろんです。兄も、喜びます」


 すると順貴が少し笑った。


「じゃあ、できるだけ邪魔にならないように行くよ」

「え? どういう意味です?」

「……いや、珠李殿も気を使うだろう……」


 申し訳なさそうに言った順貴を見て、珠李は自分の意気地の無さに気付いた。

 順貴に会いたいのは自分なのに、自らが避けていたことを棚に上げ、この後に及んで志敬を言い訳にしたのだ。

 珠李は自身を励ますように、ぎゅっと手を握りしめた。


「あの……!」


 思いの外、大きな声が出てしまい、すぐ近くを歩いていた年配の酔っ払いがびくりとしてこちらを見た。

 珠李はそれを愛想笑いでやりすごすと、順貴に改めて向き合った。


「……そうじゃなくて……私も……ううん、私が、順貴殿に……会いたい、んです」


 順貴が驚いた顔で真っ赤な顔をした珠李を見る。


「……その……自分でも調子いいと思うんだけど……順貴殿と話せなくなったのが寂しくて……」


 順貴の視線を避けるように俯いた珠李の声が段々と小さくなる。

 今更そんなことを言われて困っているかもしれない順貴を想像し、珠李が身を縮めていると、


「……そうか。ありがとう。……勘違いしてしまいそうだな……」


 優しい声が耳に届いた。

 弾けたように珠李が顔を上げる。


「あ、いや、ごめん。諦めが悪いな……。わかってる。兄として、だよな」


 苦笑いをしている順貴に珠李がぶんぶんと首を振る。


「……ううん! 違う! 順貴殿は兄上じゃない。……自分が言った言葉だけど……違うこと、わかったから……」

「……え?」

「今更、図々しいって、自分でも思うけど……私……順貴殿のこと……す……」


 言いかけて、順貴を見上げた視界に、背負われて寝ていたはずの志敬の拳がぐっと握られたのが見えた。


「……ん?」


 珠李の眉根が寄る。

 それに気付いた順貴が珠李の視線の先を追うと、力無く垂らされていたはずの志敬の腕が曲げられ、拳が力強く握られていた。そしてそれを注視していると、その拳はそろそろと下ろされていった。


「……お前……起きてるな?」


 順貴が背に向かって冷たく言うと、志敬はぐうぐうとわざとらしい鼾を真似た音を立て始めた。


「……落とすぞ」


 順貴が志敬の足を持っている手を緩めると、


「わかったわかった!」


 そう言って志敬が足を地面につけた。

 順貴は手を離すと、呆れ顔で志敬に向き直った。


「いつから起きてたんだ」

「え? ……ええと」


 とぼけた顔で斜め上へ視線を泳がせる。


「……もしかして最初から起きてたの?」


 顔をしかめた珠李に、志敬は、へへ、と笑って首をすくめる。


「どういうつもりだ」


 藍色の目に冷たい光を宿して問い詰める順貴を、志敬が大きな体を丸めて上目遣いで窺う。


「……いや……。だってさ、仲が良かった二人がいつの間にかよそよそしくなってて、順貴は誘っても家に来ないしどうしたのかなーと思ってたんだよ。でも、珠李はいっつも順貴殿のこと気にするし、順貴殿も珠李は元気かっていっつも聞くし。そのわりには二人とも直に話すことを避けてるしさ」


 志敬の言葉に、順貴と珠李が顔を見合わせる。


「だったらここは可愛い妹と親友のために一肌脱ぐしかないと思って」

「……じゃあ、あの酔い潰れたのは芝居か」

「まあ、そうなるかな」


 へへへ、と志敬が緩み切った顔で笑う。そして


「いやあ、でも二人ともよかったなぁ。嬉しいなぁ」


 悪びれる様子が全くない満面の笑みの志敬に珠李が思わず吹き出すと、順貴もそれを見てつられて笑う。

 そんな二人を志敬は嬉しそうに見ると、


「ね、だからうちで飲み直そう」


 そう言って順貴と珠李の間に入って肩を組んだ。


「これからか」

「そうそう! いいだろ?」


 志敬がにこにこと順貴と珠李を交互に見た。


「珠李殿が良ければ」


 順貴が志敬越しに声をかける。


「私は、嬉しいです」


 珠李が笑って答えると、志敬の方が「やった!」と叫んで肩を組んだまま歩き出した。

 順貴と珠李は「声が大きい」と文句を言いながら、はしゃぐ志敬の背中でどちらからともなくそっと手を繋いだ。






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