三年仲春 桃始華 2
「とうとう壮哲様もご結婚されたのねぇ」
壮哲と月季を少し離れたところから見守っていたいた佑崔に、姉の環里が声をかけた。
少し酔っているのか、いつもよりも雰囲気が緩い。
「姉上も来ていたのですね。お久しぶりです」
ひと月半ほど前に斉邸で顔を合わせて以来だ。礼晶との茶会で母親に呼ばれてから帰っていない。納徴の儀や請期の儀などのために日々が慌ただしく、役所勤めの姉にも宮中で会う機会はなかった。
「本当。久しぶり。佑崔も忙しかったみたいね。お疲れ様」
「私など大したことはしていませんよ」
「でも壮哲様が無事にご結婚されて、ホッとしているでしょう?」
「ええ。それは」
我が事のように嬉しそうに顔をほころばせた弟に、環里もほっこりと微笑む。
「それにしても、あの壮哲様がねぇ」
「あの、とはどういう意味ですか」
「だって。あのやんちゃ坊……あら失礼、あのお小さかった元気なお子が、王になられてご結婚もされて」
ゆるゆると首を振り、ほう、と溜息をつく。
「しかも紅国の公主で、あんなにお綺麗な方と」
うっとりと上座を見つめた後、佑崔へちらりと視線を遣って環里が聞いた。
「……初めて壮哲様にお会いした時のことは覚えてる?」
「勿論です」
懐かしそうに目を細める佑崔に環里が、ふふ、と笑いを漏らす。
斉邸を訪れていた壮哲が、姉たちとおはじき遊びをしていた佑崔を連れ出して剣を教えたのだ。
「あの日、佑崔の人生が決まったようなものだものね」
「ええ。本当にあの時お会いできたことに感謝しています」
「相変わらず壮哲様一筋ねぇ」
環里の微笑みが苦笑いに変わる。そしてそのまま、それほど背が高いわけでもがっしりとした体格でもないが、武人として名を上げた弟をしみじみと見た。
「体が弱くて可愛らしい顔をして、私たちよりもずっと女の子みたいだった佑崔が、今や国一番の剣の手練れだなんて……本当にあの頃は予想もしなかったわ」
宮中で働く環里の耳には、ちょくちょく佑崔に関する女官たちの噂話が届く。綺麗な顔をしているのに腕も立ち、主君の覚えもめでたい。おまけに優しい。そんな佑崔に憧れる女官は多い。我が弟ながら、この上ない優良物件であることは認めざるを得ない。
「ねえ、本気で一生、壮哲様の護衛だけをするつもりなの?」
勿体無い、と心の中で独りごちて佑崔を窺い見る。
「いつまでも待つって言ってくれた礼晶さんを断ってしまうなんて耳を疑ったわ。あんな可愛くて良いお嬢さん、なかなかいないわよ」
非難するような視線を寄越した環里に、佑崔が同じような視線を返す。
「……もしかしてあの時の……礼晶殿との話を聞いてたんですか?」
あの時、とは斉邸の蝋梅の木の下で礼晶に香嚢を返した時のことだ。
すると環里は、失言を知って首をすくめた。
「蝋梅を見に行ったら偶然聞こえてしまったのよ」
佑崔が咎めるように眉間に皺を寄せると、環里は、ごめんってば、と身を縮めた。しかし環里は諦めなかった。余程言いたかったのだろう。
「本当に勿体無いと思うのよ。礼晶さんって、母上の終わらない話にも楽しそうに付き合ってくれるし……」
前を向いて目を合わせないよう視線を逃した佑崔を、横から覗き込むように見上げて追撃する。
「あの後、母上の落ち込みようが凄かったのよ。寝込むのじゃないかと心配したんだから。つい純栄様の忘れた荷物を取りにいらした理淑様にも愚痴ってしまったわ」
そう言った環里に佑崔がゆっくりと顔を向けた。眉間には皺が刻まれている。
「……姉上でしたか……」
「何が?」
「私が泣く泣く礼晶殿と結婚するのを諦めた、なんて理淑様に吹き込んだのは」
「え? だってそうなんでしょう?」
「脚色しないでください」
納得がいかない様子の環里に佑崔が小さく溜息をつき、念を押すように言った。
「とにかく、理淑様に変なことを吹き込まないでください」
「あら。どうしてよ」
「真に受けてあらぬ方向に突っ走るからです」
どういう言い方なのよ、と吹き出しつつも頬に指を当てて環里が聞いた。
「でも、ということは、理淑様が何かご配慮くださったの?」
「……ええ。礼晶殿が危険な時は任せろと」
「じゃあ……」
「そういうことじゃないんですよ、姉上」
困ったように眉を下げる佑崔に環里が食い下がる。
「そういうことじゃない、ってどういうこと? 礼晶さんを守ってあげられないかもしれないからって断ったんでしょう? 理淑様も礼晶さんを気にかけてくれるのなら、安心してお務めに励むことができるじゃないの」
「……そうじゃないんです。待っていただいても……違うんです。駄目なんです」
歯切れは悪いが、頑として譲らない佑崔に、環里の顔に困惑の色が混じる。
「なあに? ……え? じゃあ……もしかして佑崔は礼晶さんを好きなわけではないってこと?」
「……そうです……」
「待ってくれても好きになる可能性はない?」
「……私の気持ちが礼晶殿に向かうことはありません」
申し訳なさそうに目を逸らした佑崔に環里が大きく息をついた。
「ならそうとあの時もはっきりと言えばよかったのに」
「……はっきりと言ったつもりでしたよ」
「そうは聞こえなかったもの」
気まずい沈黙が降りる。すると環里がぽつりとその沈黙を破った。
「……礼晶さん、最近また母上のところに遊びに来てくれるようになったのよ」
「そうなんですか……」
驚く佑崔に環里が頷く。
「気を使わせるから佑崔には言わないで、って礼晶さんは言っていたけれど。母上とはずっとお付き合いをさせてほしいと言って来てくれたの。……本当に良いお嬢さん」
「……そうですね」
「でも駄目なのね?」
「……すみません……」
「……まあ……仕方ないわね……」
ふう、と肩をすくめるようにして環里が息をついた。
「母上はね、礼晶さんの笑うとふわっとしてほのぼのするような感じが好きなのですって。……なんて言ってたかしら……ああ、陽だまりみたいって」
「……陽だまり……」
ゆっくりと噛み締めるように言った佑崔に、ええそう、と環里が頷く。
「佑崔って少し真面目すぎるというか、頑固なところがあるでしょう? だからほんわかとしたお嬢さんが合うのじゃないかって。それで礼晶さんを佑崔のお相手に、って思ったみたいよ」
「……そうでしたか」
「母上の気持ちもわかってあげて」
ぽんぽんと環里が佑崔の腕を叩くと、曖昧に頷いて佑崔が言った。
「でも、私の周りには……陽だまりの元がいますから」
怪訝な顔で環里が佑崔を見る。
「陽だまりの元って、お陽様のこと?」
そして、あ、と眉を顰める。
「やだ。また壮哲様のことね? 小さい頃も嬉しそうに言ってたわよね。壮哲様はお陽様だって」
環里が呆れ顔で視線を上座に移すと、佑崔もそちらに顔を向け、目に映った光景に目元を緩ませた。
そして。
「そうでしたね」
そう言って楽しそうに笑った佑崔を、環里は不思議そうに見上げた。
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宗鳳三年四月朔日。紅国公主を王妃に迎えた二月後、建国二百周年記念の式典が盛大に執り行われた。
(白及の巻 了)
ここまでお読みいただきありがとうございました。
この巻のタイトルについてですが、「白及」は紫蘭のことです。
また、紫蘭の花は、開花までに種を蒔いてから2〜3年かかるそうです。
その開花までに時間がかかるという性質も踏まえて、このタイトルをつけました。
次の巻で『異聞蒼国青史』は完結します。
「白及の巻」と随分前に蒔いた種を回収する予定です。
『紅国春秋余録』の「洛神珠の巻」の続編を先に書くかもしれませんので、
もう少し先になると思いますが、またのぞいてくださると嬉しいです。
ではでは。また。よろしくお願いいたします。




