二年季冬 鶏乳 5
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「少し身体でも動かしてくるといい」
佑崔は壮哲に言われて護衛の任を離れ、鍛錬場へと向かう道を歩いていた。
自分ではいつもと変わりないつもりでいたが、斉邸に行ってきて以来、時折、物憂げな顔をしていたらしい。
主君に気を遣わせてしまった。
自分の不甲斐なさゆえの腹立たしさに、つい歩速が早くなる。そこに背後から自分を呼ぶ声が聞こえ、振り向くと理淑が手を振って走ってくるのが見えた。
立ち止まって待つと、目の前に来た理淑がはずむ声で言った。
「今ね、月季殿を見送ってきたんだよ」
「……そうでしたか。そう言えば今日お帰りでしたね」
「うん。佑崔殿はどこ行くの?」
「……ちょっと鍛錬場で身体を動かそうかと」
「え! じゃあじゃあ、私が相手するよ!」
嬉しそうに言いながら、再び歩き出した佑崔の横に並んだ。
少し歩くと、そう言えば、というように理淑が聞いた。
「ねえ、結局茅士略たちはどうなるの?」
「恐らく杖刑になるのではないかと昊尚様が言っていましたよ。壮哲様と月季様のご婚姻の恩赦もあるからと」
「そっか」
理淑が考えるように、むう、と唸る。
「茅士略は以前、禁軍にいたんだよね」
「ええ。……当時は縹公になられる前でしたから、旦那様が将軍をしていらした時にその下にいたみたいですよ」
「ふうん。そんで、その時に例の通路のことを知ったんだ」
梨泉が突き落とされたという中書省近くの隠し通路のことだ。
「宮内の警備中に偶然、見つけたと言っていました」
「へえ。その通路ってどこに通じてるの?」
「中書外省です」
中書省は宮城に本部があるが、皇城にも執務所があり、皇城にある方を中書外省と言っている。
「……あ、なるほど。何かあった時に勅書とか重要な書類を持ち出すための通路?」
「ええ。そうです」
「もしかして、その通路を通って宮城に入ろうとしたとか?」
理淑が聞くと、佑崔が少し困ったように笑う。
「そのつもりだったみたいですね。ですが、宗正卿が宮城の壮哲様の応接室に案内してくれたから、使わずに入れてしまったということらしいですよ」
人の好い宗正卿の丸い顔を思い出し、理淑が心配そうに眉を下げる。
「……宗正卿、怒られなかったかな」
「……怒られはしませんでしたけど、話を聞いて青い顔はしてました」
佑崔が苦笑すると理淑が、そうかぁ、と額を掻く。
「でもさぁ、あれだけ似てたら仕方ないよ」
「そうですね。……壮哲様が気付いてくださって本当によかったです」
「流石だね」
楽しそうに言った理淑に振り向き、佑崔が心からの賛同の意を込めて頷く。
壮哲が気付かなかったら、紫の青玉の件はともかく、大変なことになっていただろう。本物の月季が偶然にも来ていただけに、修羅場の可能性もあったのだ。本当によかった、と改めて胸を撫で下ろす。
「壮哲様に偽物だとバレてしまったので、士略は隠し通路から逃げようとしたらしいです。そこを、梨泉様にみつかったということのようですね」
「魏完浦は?」
「完浦も士略たちについて一緒に宮城へ入ったんですが、宮城では、単独であちこち青玉を探していたと言っていました。その時に、士略を追いかけていた梨泉様を見かけて、通路に閉じ込めたということらしいです」
「……梨泉様、無事で良かったよね」
理淑が安堵の溜息をつきつつ、でも、と遠慮がちに言う。
「一回、その通路に入ってみたい気もする」
「あの通路の皇城側は閉じてしまうみたいですよ」
「そうなんだ。何かもったいないね」
「仕方ありません。部外者に知られていたのですから」
「まあ、そうだよね。……通路はまだ他にあるの?」
「さあどうでしょうね」
理淑が佑崔を覗き込むように見てきたが、佑崔は気付かぬふりをする。
「……まあ隠し通路だもんね。簡単には言えないか」
理淑が口を尖らせた。
それに佑崔が笑っていると、理淑が顔色を窺うように切り出した。
「そう言えば、礼晶殿がね」
理淑は佑崔の横顔を見ながら続ける。
「昨日の剣術の練習に来なかったの。体調を崩したって言ってたんだけど」
「……そうですか」
理淑に真偽を尋ねるような目を向けられたが、佑崔は前を向いたまま、そう言うだけに留めた。
礼晶に香嚢を返した日、経史が険しい顔をして佑崔を訪ねてきた。
斉家から帰ってきてから、礼晶が自室に籠って出てこないと言う。何かあったのかと散々詰め寄られたが、佑崔は何も言えなかった。
佑崔が小さく溜息を漏らすと、突然、横を並んで歩いていた理淑が立ち止まった。
「佑崔殿」
改まった声音に数歩先を行っていた佑崔が振り向く。
「何です?」
「佑崔殿は、壮哲様を守ることを何よりも優先させるんだよね」
穴が開きそうな強い視線を向けられて、佑崔が理淑の方へと向き直る。
「……ええ。そうですよ」
少し間が空いてしまった答えに、理淑が探るように聞いた。
「だから、結婚しないんだよね?」
「……」
佑崔は理淑の碧色の瞳を無言で見つめ返す。
「結婚しても、壮哲様を優先させるから、家を疎かにするって思ってるんでしょ?」
佑崔は道の脇の植え込みを見る振りをして視線を外した。
「……そうですね。もし、壮哲様が危険ならば、私は壮哲様を優先させます。恐らく家族よりも。だから、きっと結婚しても相手は不幸になると思います」
「やっぱり、そう思ってるんだね」
そう呟くと、理淑が空いていた距離を詰めて佑崔を見上げた。
「あのね。大丈夫だよ」
逸らしていた佑崔の目は思わず理淑に引き戻される。
「何とかする」
理淑の碧色の瞳が真っ直ぐに佑崔を捕える。
「だから、壮哲様を優先させるからって、諦めないでよ」
そう言った時、理淑の碧色の瞳は微かに揺れた。が、それはほんの一瞬のことだった。
「大丈夫だから」
続いて佑崔の耳に届いた声に、普段の子どもっぽさはなかった。心の奥が柔らかな羽で撫でられたように微かに震える。
佑崔は明るい碧色の瞳から目を逸らせないでいた。
理淑の言葉はどういう意味なのか。
問うこともできない。
すると、理淑が決意したように息を吸い込み、口を開いた。
「礼晶殿にはこれからも、少しでも自分の身を守れるように剣を教えるし、もし万が一、佑崔殿が守れない時は私が礼晶殿を守るから」
理淑が宣誓するように言った。
一瞬、間が空く。
「ん?」
「え?」
佑崔が眉を顰める。それを見て理淑が目を瞬かせる。
「……どうしてそこに礼晶殿が出てくるんです?」
探るように佑崔が言った。
訝しげな目に晒されて、理淑は肩をすぼめるようにして前のめりだった身体を後ろに引く。
「だって……壮哲様を守らなくちゃいけなくて、礼晶殿が危険な時に守れないかもしれないからって理由で泣く泣く結婚を断ったんでしょう……?」
恐る恐る理淑が聞くと、珍しく混乱した様子の佑崔が苦悶の表情で目を瞑り、額を手で押さえる。
「いや。……ええと、そうじゃなくて……って、誰に何を聞いたんですか」
「え? だってだって。礼晶殿が怪我しないようにって、ずっとすごく心配してたじゃない」
「それは……礼晶殿が剣を理淑様に習ったせいで怪我をしたら、強烈な兄君……特に経史殿が理淑様を責めると思ったからですよ」
額に手を当てたままの佑崔を、きょとんとした顔が見上げる。
「そうなの?」
「そうです」
「礼晶殿が好きだから、怪我するのが心配だったんじゃないの?」
「怪我をされないようにと思っていましたが、好きだから、というところは誤解です」
「佑崔殿の母上がすごく気に入ってて」
「ええ。母は、すごく礼晶殿を気に入っています」
「だって、佑崔殿もいい人だって」
「可愛らしくていい方だと思いますけど、結婚したかったわけではありません」
口を開けたまま理淑が固まった。そして、
「……そうなんだ……」
拍子抜けしたように理淑から肩の力が抜ける。
「何だぁ……」
はああ、と大きく息を吐いて、呆けた顔で呟いた。
「てっきり……佑崔殿は礼晶殿を好きなんだって……。だから……その、応援、しようと思ったのに……」
「……余計な気をまわさなくていいですよ」
「あ、そんな言い方しなくていいじゃん」
理淑が眉根を寄せて口を尖らせる。
「……ひとがせっかく……」
「え? 何です?」
横を向いて吐いた呟きを佑崔が聞き咎める。
「……何でもない」
慌てて首を振り、理淑が無理やり勢いを取り戻す。
「佑崔殿が悩んでるんだったら、力になりたいと思ったんだよ。まだまだ私の実力じゃあ佑崔殿には遠く及ばないから、偉そうなことは言えないかもだけどさ」
「そんなことはないと思いますよ。あの秀太子に認められた腕前じゃないですか」
「あ、何か嫌味な言い方」
「そんなつもりはありません」
佑崔が笑って言うと、少しいじけたように理淑が膨れる。
「だってさ、この間の佑崔殿と秀太子との手合わせを見て、まだまだ全然力及ばずだって打ちのめされてるんだよ。……本当に凄かったよね。二人とも」
しかしそう言うと、身体の前で力強く拳を握り、佑崔を、きっ、と睨む。
「でも絶対いつか佑崔殿に勝つからね」
「……どうしてそんなに私に勝ちたいんですか?」
佑崔は苦笑して聞いた。
禁軍の採用試験の時に負けたのがそんなに悔しかったのだろうか、と。
しかし。
「何かあった時に、佑崔殿を助けたいからだよ」
思いがけなく返ってきた言葉に佑崔の苦笑いが止まる。
「佑崔殿より強くなって、もし壮哲様と佑崔殿が一緒に危なくなったら、私が二人とも助けるよ」
屈託のない笑顔で言い放つ理淑を、佑崔は瞬きもできず見た。
その笑顔を見た途端、不思議と憑き物が落ちたように佑崔の心が軽くなった。
我知らず、佑崔は声を出して笑っていた。
「笑うことないじゃん」
理淑が再び不満そうに口を尖らせる。
「……理淑様は、すごいですね」
「あ、馬鹿にしてるね」
笑いを残しながら言った佑崔を理淑がじろりと見る。
「思うんだけど、大体さあ、佑崔殿は頭が固いよ。どっちか片方だけしか守れないとか決めちゃうなんて」
理淑が口を尖らせて文句を垂れる。
「両方……ううん、大事な人をみんな守る方法を考えようよ。諦めるなんて、私は嫌。諦めたら、諦めた方も絶対後悔する。きっと不幸になると思うんだ」
不貞腐れた態度のまま話し続ける理淑を佑崔はただ見つめた。
「だからね、佑崔殿には何にも諦めてほしくないんだよ。佑崔殿には幸せになってほしいと思ってるからさ」
下の方を向いてぶつぶつ言う理淑を見ているうちに、佑崔の胸の奥に、ほんのりと暖かいものが広がっていた。
佑崔は空を仰ぎ見て、陽の光に眩しそうに目を細めると、目を理淑に戻した。
理淑はまだ不満そうにぶつぶつ言っている。
「わかりました。では、何も諦めずに済むように、私ももっと強くなります」
佑崔が言うと、理淑は顔を上げた。そうして佑崔を驚いた目で見たが、うん、と頷いて満足そうな笑顔になった。
思わず佑崔は目を細める。
——太陽。
そう思った時、理淑が、あ、と声を上げた。
「しまった。それじゃあいつまで経っても私が勝てないじゃん!」
あああ、と頭を抱えた理淑に、佑崔は「結局勝ちたいだけじゃないですか」と再び声を出して笑った。




