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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −白及の巻−
188/192

二年季冬 鶏乳 4

**




 佑崔は門の前に立ち止まり、小さく溜息をついた。

 ここしばらく近寄るのを避けていた斉邸——佑崔の実家である。母親から何度も帰るようにと言われていたが、何くれとなく理由をつけて受け流していた。

 しかし、今日はその母親の呼び出しに応じて足を運んできた。


 佑崔はもう一度溜息をついて門をくぐった。


「おかえりなさい。佑崔。さ、こちらよ」


 待ち構えていた母親の稀夕がいそいそと応接室へと先導する。

 部屋に入ると、先に到着して待っていた人物が立ち上がった。


「佑崔様」


 嬉しそうな笑顔で迎えたのは礼晶だ。小花模様が散りばめられた淡黄色の襦に白い柄物の半臂(はんぴ)、それに紅色の裙を合わせ、同系色の刺繍の入った薄絹の披帛(ひはく)を肩にかけた着こなしはいつにも増して華やかに見える。

 滑らかな頬はほんのりと染まり、可憐さに更に色を添えていた。


「お待たせしたようですみません」


 佑崔が言うと、礼晶がふるふると首を振る。


「とんでもありません。佑崔様こそお忙しいのに、お会いできて嬉しいです」


 はにかむ礼晶を稀夕がにこにこと満足そうに見守る。

 今日の稀夕からの呼び出しは、礼晶とお茶をするから来るように、というものだった。


「まあまあ、二人とも立っていないでお座りなさいな」


 稀夕が機嫌よく佑崔の背を押して窓際に設えられた席へと(いざな)った。

 言われるままに佑崔が席に着くと、礼晶もちょこんと向かい側の椅子に座る。そして稀夕も、佑崔の隣にちゃっかり腰を下ろした。


「礼晶さんが美味しいお菓子を持ってきてくださったのよ。お茶でも淹れましょうね」


 そう言って稀夕はいそいそと茶道具を手に取った。


「礼晶さんはね、よくうちに遊びにきてくださるのよ」

「そうですか」

「ええ。私の話し相手になってくださるの」


 稀夕が佑崔に言った後、ね、と礼晶に笑顔を向ける。


「とっても可愛らしくて、いいお嬢さんなのよ」


 今度は佑崔に、ね、とにこりと笑う。


「そうですね」


 佑崔の相槌に、礼晶は頬を染めて俯く。

 その様子を微笑ましく見ながら稀夕が聞いた。


「佑崔と礼晶さんはもう何度か会っているのよね」

「ええ」


 佑崔が答えると、稀夕が全く悪びれもせず言う。


「私が届け物をお願いするまでもなかったわね」


 頼んでもないものを人に届けさせたことに文句を言おうかと思っていたが、稀夕の嬉しそうな顔に、佑崔はその抗議を飲み込んだ。


「実は、先日、私の不注意で危険な目にあったところを佑崔様に助けていただいたんです」


 礼晶の言葉に稀夕は茶を淹れる手を止めて顔を上げる。


「まあまあ! そんなことが!」


 目を丸くする稀夕に、礼晶が、はい、とほんのりと頬を染める。


「あっという間に悪者を退治してくださったんです。佑崔様は本当にお強いんです」

「そうなのねぇ」


 礼晶の話を嬉しそうに聞きながら、稀夕が誇らしげに佑崔を見た。

 こんなに上機嫌な母親を目にするのは久しぶりだ。

 それに気付き、佑崔は内心でほのかに罪悪感を感じた。


「礼晶さんにはお兄様が三人いらしてね」


 そんな佑崔の気持ちを知ってか知らずか、稀夕の上機嫌なお喋りが続く。とりとめもない話に礼晶が楽しそうに相槌を打つ。きっと礼晶は、いつもこんな風に稀夕の話し相手になってくれているのだろう。

 あまりに稀夕の楽しそうな姿に、佑崔も時折相槌を打ち、しばらくは稀夕の話を聞いていた。

 しかし、終わることのない稀夕のお喋りに、佑崔が申し訳なさそうに切り出した。


「母上。少し、礼晶殿と庭を歩いてきてもいいですか?」


 稀夕は口に運びかけていた湯呑みを止めて佑崔を見た。しかし、あらまあ、と何かを納得したように頷いて微笑んだ。


「ごめんなさいね。私ったら一人で話してしまって。そうよね。どうぞ、いってらっしゃい。……あ、そうだわ。円亭(あずまや)のそばの蝋梅(ろうばい)がちょうど綺麗に咲いているわよ。佑崔も久しぶりに見ていらっしゃいな」


 ふふふ、と嬉しそうに稀夕が笑った。





 佑崔は庭へ出ると、稀夕の言っていた蝋梅を見るために円亭へと足を向けた。


「すみません。連れ出して。寒くないですか?」


 後ろをちょこちょこと付いてくる礼晶を振り返る。


「大丈夫です。寒くありませんわ」


 暖かい上着を着ているから、という意味だろう、ぽんぽんとふわふわの毛皮のついた襟を叩く。その仕草に、「確かに暖かそうですね」と佑崔が言うと、礼晶が嬉しそうに小走りに佑崔に追いついて来た。

 少し歩くと円亭のそばに、黄色い花をつけた蝋梅が見えた。


「本当。綺麗に咲いていますね」


 蝋梅に駆け寄り、蝋細工のような黄色い花を見上げて礼晶が無邪気に歓声を上げる。そして同意を求めるように満面の笑みで振り返った。それに佑崔が微笑んで見せると、礼晶は頬を染めて俯いた。

 しかし、あ、と何かを思い出したように改まり、佑崔へまっすぐに向き直った。


「あの……改めて、先日は……助けてくださってありがとうございました」


 深々と頭を下げる。


「ああ、いえ。ご無事でよかったです」

「……あんなに泣いてしまうつもりはなかったのですけど……。お見苦しいところをお見せして……」


 泣きながら帰って来た礼晶に驚いた経史が、血相を変えて佑崔に事情を聞きに来たほどだ。

 礼晶が恥ずかしそうに俯く。


「無理もありませんよ。怖くなかったはずがありませんから。ご家族も驚かれたでしょう」

「父と兄たちにはすごく怒られました」

「そうでしょう。でもご家族の言うとおりですよ。あんな危ないことはもうしないでくださいね」


 礼晶が、はい、と小柄な身を更に小さくして頷くと、持っていた荷包(きんちゃく)から、薄緑色の手巾の包みを取り出した。


「それで、あの、これを」


 両手に持ってそおっと差し出す。


「先日、助けていただいたお礼です」


 佑崔が包みから礼晶に視線を移す。


「……礼など結構ですよ」

「でも……」

「仕事のうちですから気になさらないでください」


 佑崔が言うと、礼晶が慌てて包みの中身を取り出した。現れたのは鳥の形に彫られた美しい緑色の玉佩だ。


「……今度はちゃんと、腕の良い職人に朱雀を彫ってもらいました。だから……受け取っていただけませんか」


 大きな形の良い目を不安げに揺らしながら佑崔を見上げる。

 佑崔はその瞳からそっと視線を外した。


「……ありがとうございます。……でも、そのように特別なものは……尚更いただく理由がありません……」

「理由なら……あります……!」


 突然、焦ったように声を上げた礼晶を佑崔が見る。

 佑崔と目が合うと、礼晶は顔を真っ赤に染め、つい逃げそうになる目を真っ直ぐに佑崔に向けて言った。


「……私……あの……佑崔様のことが好きなんです。佑崔様のことをお慕いしています」


 見上げる瞳が潤んで揺れる。


「礼晶殿……」


 佑崔は礼晶を見つめると、躊躇いながら再び視線を逸らした。そして腰の荷包から小さな紙の包みを取り出した。


「……今日、礼晶殿がいらっしゃるときいて来たのは、これをお返しするためなのです」


 静かに佑崔が開いた包みから、鳥の刺繍のある香嚢が現れたのを見て、礼晶が呟く。


「……それ……」


 礼晶が泣きそうな顔で佑崔を見上げた。その瞳を苦しそうに受け止めると、佑崔は深く頭を下げた。


「申し訳ありません……。せっかく作ってくださったのですが」

「……佑崔様のことを想って……一生懸命作ったんです……」


 佑崔が頭を上げると礼晶の大きな瞳と出合った。その瞳には涙がこぼれ落ちそうに溜まっている。


「……すみません……」


 屈託のない笑顔をこんなふうにしてしまったことに罪悪感が押し寄せる。しかし佑崔は、胸の痛みに抗いながら再び頭を下げた。


「礼晶殿のお気持ちは、とても有り難く思います。……ですが、そうであるならば尚更、これをいただいてはいけないと思いました……。私はそのお気持ちに応えることができません」


 玉佩を持ったままじっと佑崔を見つめる礼晶の手が震える。礼晶は溜まった涙が溢れるのを堪えるように、(まばた)きもせず言った。


「……まだご結婚されるおつもりはないとお聞きしています。……私は、いつまでも待てます……いいえ、待ちます」


 声が不安定に震えるのを必死で抑えながら続ける。


「……父から申し入れたお話が……お断りされて、諦めようとしました。……でも……でも、やっぱり、私は佑崔様のことが好きなんです。助けていただいて……私を叱ってくださって、心配してくださって……」


 膨らんで破裂しそうな想いを逃すように、礼晶が何度も小さく息を吐く。


「……あの時……泣いてしまったのは……助けてくださった佑崔様の笑顔を見て……やっぱり佑崔様のことが好きで……お慕いしているだけでは嫌だと思ってしまったんです」

「礼晶殿……」

「剣術も……佑崔様のことをもっと知りたくて、はじめました」


 泣かないように震える声で想いを伝え続ける礼晶を佑崔はただ見つめた。


「……諦めることなんて……」


 言葉に詰まり立ち尽くす礼晶にやはり佑崔の胸は痛んだ。こんなふうにはっきりと断る必要はあっただろうか、と気持ちが揺れる。

 しかし佑崔は静かに、そして深く頭を下げた。


「申し訳ありません……。……待っていただいても、お気持ちにお応えすることはできません」

「……どうしても……駄目……ですか」


 目を真っ赤にしながらも、懸命に涙を堪えて礼晶が聞いた。

 佑崔は礼晶を改めて見つめ、そしてゆっくりと視線を逸らした。


「……私は……生涯、護衛として、陛下をお守りすると心に決めています。もし……貴女と陛下が同時に危ない目に遭ったら、私は陛下の方をお助けするでしょう。……そんな者を待つなどしてはいけません。礼晶殿にはもっと良い方がお似合いになります」


 佑崔はそう言うと、再び深く頭を下げた。







「あら? 佑崔だけ?」


 一人で部屋へ戻って来た佑崔に稀夕が目を瞬かせる。

 稀夕の隣には、いつの間にかやってきていたすぐ上の姉の環里もいた。環里は何か言いたげに佑崔を見たが、稀夕はそれには気付かず聞いた。


「礼晶さんは?」

「……もう少し蝋梅を見てから戻ってこられるそうです」

「一人で?」


 戸惑う稀夕を申し訳ない気持ちで見る。

 つい先ほどの礼晶と茶をする楽しそうな姿が思い出される。でももう、その機会すらも駄目にしてしまったかもしれない。


「……母上。すみません。ご期待に添うことができなくて」

「どういうこと? 礼晶さんのこと?」


 沈んだ声で謝る佑崔に、困惑して稀夕が立ち上がる。


「でも、礼晶さんは佑崔のことを……」

「……私には勿体無い方です」

「でも……」


 佑崔の腕に置かれた稀夕の手にそっと触れる。


「……すみません」


 見上げた稀夕に佑崔が言った。





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