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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −白及の巻−
187/192

二年季冬 鶏乳 3




 翌朝、出立の準備を終えた騎駿が、壮哲の元へ挨拶に来た。


「もう発たれますか」

「はい」


 壮哲の問いに愛想笑いの一つもなく応えた後、相変わらずの無表情で言った。


「その前にお願いがございます」


 そして騎駿が壮哲の傍に控えていた佑崔へ視線を移した。


「そこにいる護衛と手合わせをさせていただけませんか」


 壮哲が、ほう、と顎をさする。


「何故、手合わせを?」


 昨夜、宴の席で騎駿が言っていたことは佑崔から聞いていたが、素知らぬふりで尋ねると、騎駿が淡々と答えた。


「先日、その護衛と手合わせをしたのですが、まだ勝負がついておりませんので」

「秀太子が勝たれたと聞いていますが」

「いえ。どうもその護衛は手を抜いたようで、私としては大変不服に思っております。武の国の者にとって、勝負の場において手を抜かれるなど、侮辱されたと同然」


 冷ややかな視線は佑崔に向けられたままだ。


「手を抜いたということはないと思うが……」


 壮哲が取りなしてみる。

 しかし元より騎駿は引き下がるつもりは毛頭ないのだろう。


「そうでないと言うのならば、その確認のためにも今一度、手合わせを願いたく存じます」

「……なるほど」


 壮哲は頷き、佑崔を振り返る。


「こう申されるがどうする」

「……承知いたしました。お受けします」


 佑崔が再び静かに頭を下げた。







 羽林軍の鍛錬場でひと試合を終えた理淑が空を見上げると、ぐえぐえ、と鳴き声を上げながら旋回する鳥がいた。


「夜雨」


 理淑が呼ぶと、夜雨はその肩に降り立ち、のんびりと嘴で羽を整えはじめた。


「帰ってなかったんだね」


 声をかけると、夜雨はきょろりとした目で理淑を見て、きゅう、と鳴いた。

 思わず微笑んだところに、鍛錬場にいた兵士たちが手を止めて何事かとざわつき始めた。

 手合わせの相手の髭の兵士が理淑のところへ来て、こちらへ向かってくる一行を見遣って首を傾げた。


「何事だろうな。陛下と……秀太子が来るぞ。佑崔もいる」


 


 一行が鍛錬場へ着くと、出迎えて拱手した曹将軍に壮哲が言った。


「鍛錬中に悪いな。少し場所を貸してもらえるか」


 曹将軍は浮かない顔の佑崔をちらりと見て来訪の目的を察し、「承知しました」と兵士たちに訓練を中断するよう声をかけた。

 兵士たちが注目する中、騎駿はずかずかと鍛錬場へと足を踏み入れた。それに佑崔が続く。


「また秀太子は佑崔と手合わせするみたいだな」


 髭の兵士の言葉に理淑は、うん、と生返事をして鍛錬場へ進む二人を目で追う。すると理淑がいるのを確認するように騎駿が視線を寄越した。理淑が会釈をすると、騎駿は眉を上げて頷き、後ろにいる佑崔をちらりと見た。

 その仕草で、騎駿が昨夜の宴で言っていたことを実行するために来たのだとわかる。


 兵士たちが大きく場所を空けると、騎駿と佑崔が向かい合って立った。


「お互い無茶なことはしないと思うが、試合は一本、勝敗の判定は審判によるものとする」


 そう言うと、壮哲は曹将軍に差配を任せることにして後方へ下がった。

 曹将軍は二人の間に立つと、確認するように双方へ順に顔を向けた。


「用意はよろしいですか?」


 すると騎駿が顎を上げて佑崔を挑発するように言った。


「不安なら木剣にしてやってもいいぞ」

「どちらでも殿下のお好きなようになさってください」


 落ち着いて応える佑崔を、ふん、と騎駿が冷ややかに見る。


「じゃあ、こっちでいいな」


 ぞんざいに言い、騎駿が抜剣した。それに続き佑崔もすらりと剣を抜いた。

 曹将軍は剣を構えた二人を再度確認し、


「始め!」


 宣言の声を上げた。


 前回とは異なり、騎駿がいきなり斬りかかることはなかった。切長の目を僅かに細め、佑崔を射るように見る。いつでも戦闘に移すことができる構えで、黒ずくめの全身からはびりびりとした空気が発せられている。

 対して佑崔は、普段と同じく姿勢のよい、余分な力の入っていない自然な構えだ。上がり気味の形の良い眉の下の目も凪いだ水面のように落ち着いている。

 まるで対照的な二人を兵士たちが見守る。


 仕掛けたのは騎駿だった。

 黒ずくめの大きな身体が地を蹴って佑崔に向かった。剣と剣がぶつかる金属音が連続して響く。

 低い位置で風を切る音がしたと思うと、足元に斬りつけた騎駿の剣を佑崔が跳んで躱したところだった。

 続けて振り上げられた剣を僅かな距離で佑崔が避ける。

 左脇を狙って突き出された剣を避けてそのまま回転すると、その背中を剣が追った。一旦身を低くしてそれを逃れる。

 怒涛のような攻撃を躱し切った佑崔に、騎駿が剣先を向けて横へじりじりと動きながら言い放つ。


「逃げ回ってばかりでは勝てはしないぞ」


 佑崔は挑発に応えず、騎駿の動きに合わせて立ち位置を変えながら様子を見る。


 すると騎駿が薙ぎ払うように剣を繰り出した。

 佑崔が跳び退いてそれを避けると、再び騎駿の猛攻が始まった。

 もの凄い速さで打ち込まれる剣を佑崔は後退しながら防ぐ。


 周囲が固唾呑んで見守る中、きいん、と一際高い音が響いた。

 深く踏み込んだ騎駿の剣を佑崔が受け、剣を交えたまま止まる。

 騎駿は剣越しに佑崔を冷ややかに見ると低い声で言った。


「一応聞いてやる。お前、夏県主に気があるのか」

「そのような間柄ではありません」

「では私が夏県主をもらっても其方に何の問題もないわけだな」

「……その件は理淑様の意志にお任せになるとお聞きしておりますが」

「それで安心しているのか」


 低い声に一層不機嫌さが混じる。


「私に負けたら夏県主に私の妃になるように言え。夏県主に慕われるのは迷惑だとお前の口から拒絶しろ。いいな」


 そう吐き捨てると、騎駿は佑崔の剣を強く押した。佑崔は後方へ跳び退る。

 両者再び剣を構えて向かい合う。

 佑崔は、騎駿の表情のない顔の中で、そこだけ段違いに温度の高い目から刺さるような視線を受けた。剣の腕も尋常ではないが、全身から溢れ出る負けぬという自信と気魄は、それだけで相手を圧倒するに足るものだった。

 佑崔は、思っていた以上に手強い相手であることをひしひしと感じた。

 油断すれば確実に負ける。


——もし万が一負けても、私の目標が佑崔殿に勝つことっていうのは変わらないからね


 ふいに、昨夜の理淑の言葉が佑崔の脳裏に浮かぶ。

 騎駿は、言い方は無茶苦茶だが、理淑の意志に反して無理を通そうとしているわけではないらしい。負けたところで理淑が騎駿の申し出を受けることはないだろう。

 ならば負けても問題はない。

 他国の太子を無理に負かす必要はないのではないか。

 ふとそんなことが頭を(よぎ)った。その時。

 佑崔は、びゅう、と風を切る音を反射的に避けた。

 観衆と化した同僚兵士たちからどよめきが上がった。

 騎駿の剣が佑崔の頬を掠め、佑崔の頬に一筋、赤い線ができる。

 佑崔は息を静かに吐くと、剣を握り直した。

 手合わせ中に雑念を以って臨んでよい相手ではない。気を抜けば即座に勝負はついてしまうだろう。


——もし万が一負けても、私の目標が佑崔殿に勝つことっていうのは変わらないからね


 再び理淑の言葉が浮かぶ。

 負けてもいい。

 あれはそういう意味ではないだろう。

 相手は想像以上に強い。実力で言ったら恐らく騎駿の方が上だろう。負けるのもやむを得ないことかもしれない。しかし。

 そう言ってくれた信頼を裏切ることはしたくない。

 それに。


 突如、騎駿が正面から打ち込んできた。

 佑崔はその重い剣を受け、歯を食いしばると、剣を押し返し前へ出た。


 それまで防戦一方だった佑崔からの攻撃が始まると、騎駿は口の端を僅かに上げた。

 目まぐるしく繰り広げられる光景を兵士たちは(まじろ)ぎもせず見守った。


「……凄いな……」


 髭の兵士が思わず感嘆の溜息を漏らした。しかし理淑は声を出すことすらできなかった。無意識に握っていた両手が震える。

 突然、それまで大人しかった夜雨が、ふぇふぇ、と鳴くと理淑の肩を蹴り、空へと羽ばたいた。

 飛び立った夜雨は剣を交わす二人のところへ向かった。


「夜雨、駄目! 戻って!」


 理淑が呼んだが、夜雨は見向きもしない。

 激しく打ち合う騎駿と佑崔の頭上を、夜雨が、ぎゃあぎゃあと威嚇しながら旋回する。

 そして高く舞い上がった夜雨が、急降下して佑崔に襲いかかった。


「夜雨!」


 騎駿が叫ぶ。

 その瞬間、左手で夜雨の攻撃を交わしながら佑崔が出した剣が騎駿の剣を弾き飛ばした。騎駿の剣はがしゃんと派手な音を立てて地面に落ちた。


「……勝者、斉佑崔!」


 曹将軍の声が鍛錬場に響いた。

 兵士たちの間からどよめきの声が上がる。

 しかし夜雨は攻撃の手を緩めるつもりはないらしい。佑崔を執拗に襲う。


「夜雨!」


 さらに攻撃しようとする夜雨を遮るように、騎駿が佑崔の前に立ちはだかると、ようやく夜雨は、ぐえぐえ、と鳴きながら理淑の元へと戻って行った。

 騎駿は夜雨の行き先を確認すると佑崔に振り返り、不快そうに顔をしかめた。


「非常に不本意だが勝負があったようだ」


 佑崔が剣を下ろし、静かに頭を下げる。


「……今のは正確には手合わせで勝ったとは言えません。殿下が梟に気を取られた隙を狙ったのですから」

「……夜雨に邪魔をされたのは其方の方だろう」


 騎駿が舌打ちをして佑崔を睨む。


「ですが……」

「何だ。では私の妃になるように夏県主を説得するか」


 騎駿の言葉に、佑崔は顔を上げて騎駿を見たが、再び頭を下げた。


「それは致しかねます」


 頭を下げながらもはっきりと言った佑崔を鼻で笑うと、騎駿は落ちた剣を拾うために背を向けた。


「ならこれ以上ぐだぐだ言うな」


 そう言って剣を拾って鞘に仕舞い、立ち去りかけた騎駿が足を止めた。


「夜雨を斬らなかったことには礼を言う」


 肩越しに佑崔を見て言うと、騎駿は大股で鍛錬場を出て理淑の元へ向かった。


「夜雨」


 騎駿が呼ぶが、夜雨は理淑の肩にとまったまま、丸い目で見返しただけで動こうとしない。


「夜雨、秀太子が呼んでるよ」


 理淑が言っても横を向いて動かない。しかし、再び騎駿が「夜雨」と腕を差し出すと、夜雨は仕方なくというように騎駿の腕に移った。


「すまんな。夜雨。帰る刻限だ」


 騎駿は夜雨に言うと、理淑に向き直った。


「夏県主、今回は急な帰国の要請があったからこれで帰る。しかし其方を妃に迎えたいという申し出は取り下げたわけではないからな」


 まるで勝負を挑むように言い渡すと、騎駿は壮哲に挨拶をして大股で去って行った。





 騎駿がいなくなると、佑崔は押し寄せてきた興奮する同僚たちにもみくちゃにされた。その様子を見た壮哲は、笑いながら、先に帰っている、と執務室へ戻って行った。

 曹将軍に窘められた兵士たちからようやく解放され、佑崔は辟易しながら鍛錬場を出た。


「佑崔殿」


 追いかけてきた理淑が佑崔を呼び止めた。


「血がついたままだよ」


 振り向いた佑崔に、理淑が水で濡らした手巾を差し出した。

 傷は大したことはないのだが、同僚たちに囲まれた時に、血が頬に広がってしまったようだ。


「ありがとうございます」


 佑崔が受け取った手巾で頬の血を拭っていると、理淑の眉間に溝ができた。


「腕からも血が出てる」


 夜雨に襲われた時に盾にした左腕に血が滲んでいた。


「ああ。ほんとですね」


 肘を曲げて覗くように傷を見て、佑崔がふと笑った。


「私はあの梟にものすごく嫌われたみたいですね」


 佑崔の漏らした笑い声に、神妙な顔をしていた理淑の眉間が緩む。ほっと息を吐き、理淑も笑む。


「そうだね」


 そして腕の傷にも手巾を当てる佑崔を見ながら嬉しそうに、へへ、と笑った。


「どうしました?」

「よかったと思って」

「怪我をしたのがですか?」

「違うよ」


 理淑は口を尖らせて文句を言った後、「そうじゃなくて」と再び顔をほころばせる。


「佑崔殿が勝ったのがだよ」


 屈託のない笑顔で理淑が言った。

 一瞬、辺りが明るくなったように感じる。

 その満面の笑みに佑崔は目を細めて思った。


 理淑の信頼を損なうことがなくてよかった。

 それに。

 もし負けていたら。


 佑崔が小さく息を吐く。


 負けていたら、騎駿の妃になるよう勧めなくてはならなかったかもしれない。


 佑崔は眉を下げて苦く笑った。


「……そうですね」


 そして頷いた。


「よかったです」






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