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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −白及の巻−
185/192

二年季冬 鶏乳 1




 雲の切れ間から青白い顔を出した月の光が庭を照らす。庭の樹々は、室内から漏れ聞こえてくる琵琶や琴の音に合わせて踊るように葉を揺らしていた。

 美しい音の溢れる室内で、壮哲が月季の横に来てにこそりと言った。


「付き合わせて悪いな」

「いいわよ。別に」


 月季が手にしていた杯の中身を一口飲む。


「わざわざ紅国(うち)にまでお祝いを持ってきてくれたみたいだし、それくらいはね」


 この日の夕刻、墨国の騎駿が明日帰ることになったと壮哲に挨拶に来た。国許から帰国の要請が来たらしい。それを聞いて急遽、送別の宴を催すことになった。

 蒼国を訪れていた月季も、騎駿とは面識があることもあり客人として宴に参加することになったのだ。

 ふと月季が思い出したように、その琥珀色の瞳を壮哲に向けた。


「そういえば、昨日の、私のフリをしたあの花姚君とかいう役者はどうなるの?」

「ん? ああ、それがな」


 壮哲が苦笑いをこぼした。




**




 牢に収監された姚君の元に、葛将軍に付き添われた純栄がやってきた。


「こんにちは。貴女が姚君さんね」


 場違いに柔らかく微笑む純栄を、壁にもたれて膝を抱えていた姚君が不思議そうに見上げる。

 どこかで見たことがある気がする。


「誰です?」

「私は秦敬伯の……縹公のね、妻の斉純栄といいます」


 見たことがあると思ったのは、梨泉に似ているからだと気付き、あ、と思わず声を上げる。と同時に、丁寧な自己紹介に気まずさを覚えながら、はあどうも、とモゾモゾと答えた。


「貴女にお話があって来たの」


 そう言って純栄が牢の前に頓着なく座った。それに驚いて目を瞬かせる姚君に向かって、頬に手を当てた純栄が言った。


「敬安さんとね、お話をしたんです」


 姚君が思わず膝立ちになり純栄ににじり寄る。


「敬安は、無事ですか?」

「ええ。大丈夫よ。貴女が教えてくれた宿屋にちゃんとお利口に待っていたようよ」

「今どこに……」

「とりあえずうちで保護させてもらったわ」

「縹公のところに……?」


 唖然とする姚君に純栄が微笑む。


「それでね、敬安さんにね、うちの子にならない? って聞いたの」


 姚君の目が見開かれる。


「……本気ですか?」

「ええ。だって、敬安さんってうちの旦那様の小さい頃に似ていて、とっても可愛いでしょう? お母様も亡くなってしまったとお聞きしたし、どうかしらと思って」


 穏やかに話す純栄に、当てこすりを言っている空気は感じられない。

 姚君は恐る恐る聞いてみた。


「……敬安は縹公の子ではありませんよ? お聞きになってませんか?」


 しかし純栄は、にこりと微笑んで、ええ、ええ、と頷いた。


「存じてますよ」

「それなのに……?」

「ええ」


 純栄がこくりと深く頷いた時、


「ようくん姉さん」


 純栄の背後で様子を見守っていた葛将軍の影から、おずおずと敬安が現れた。姚君の顔を見ると、待ちきれないように牢へと走り寄り、牢の格子の間から姚君に手を伸ばした。

 姚君は差し出されたその小さな手を握りかけたが、触れる寸前で伸ばした手を下ろした。


「よかったじゃない。縹公のうちの子になれるんだって」


 姚君が言うと、敬安は目を瞬かせた。


「だって、それは、お芝居って」

「このご婦人があんたのことを気に入ったんだって。だから本当に縹公んちの子になれるのよ。そうすれば、これから何も心配しないで暮らしていけるわよ」


 舞台に立ったように、口の端を綺麗に上げた笑顔を向けられ、敬安は手を下ろして格子を掴み、不安げに聞いた。


「ようくん姉さんは?」

「私は……さあ、どうなるのかしらね」

「どっか行っちゃうの?」

「そうねぇ。紅国にでも行こうかしらね」

「じゃあ、おれも行く」


 格子を掴んでぴょんぴょんと跳ねる。


「バカなこと言わないの。縹公のうちの子になるのよ」

「姉さんについてく」

「ちょっと……敬安……」


 純栄の機嫌を窺うように見る。しかし、純栄は変わらずにこにこと微笑んでいる。


「このとおりでね、敬安さんがうちの子になるのは嫌だっていうの」

「なっ……! なんてバチ当たりなことを!」


 姚君の声に敬安がびくりと肩をすくめる。


「それでね、貴女にお願いがあるのよ」


 のんびりとした声で話を続ける純栄を姚君が不審げに見た。

 純栄は、うふふ、と笑みをこぼすと、まるで秘密の取引を持ちかけるように声をひそめた。


「我が家が援助している戯場でね、役者を募集しているの。ちょうど女性の役者が辞めてしまったらしくって。どうかしら。引き受けてもらえない?」

「は?」

「貴女、とっても演技がお上手なんですってね。梨泉がすっかり騙されたって言っていたわ」


 顔の前で手を合わせて楽しそうに言う純栄とは反対に、姚君の顔が険しくなる。


「何を言ってるんです? 私はおたくたちを騙して青玉を盗もうとしたんですよ?」

「それも聞いたわ。でも、結局、何も持っていかなかったのでしょう? 目当てのもの以外にも、(ぎょく)やお金になるものはあったはずよ。それを持っていこうと思えば、できたのに」

「……」

「だから、私のお願いを引き受けてくれれば、秦家(うち)を騙そうとしたことは無かったことにしてもいいわ」


 ぽかんとした顔になった姚君に、ふふ、と純栄が笑う。


「陛下を騙そうとしたのはなかったことにはできないからお咎めはあるでしょうけど、きっとそんなに酷いことにはならないはずよ」


 ね、と葛将軍を振り返る。急に話を振られた葛将軍が曖昧に笑う。


「だからね、罪を償ったら、蒼国(ここ)で暮らすといいわ。敬安さんと一緒に」

「でも……」

「敬安さんと一緒に暮らすのは嫌?」

「そんなわけない!」


 即座に否定した姚君を純栄が満足そうに見る。


「よかった。貴女も敬安さんのことが大好きなのよね。小さい頃から面倒を見ているのが本当のことだということは、敬安さんから聞いたわ」

「……でも」

「あら。誤解しないでね。この提案は貴女のためじゃないのよ。敬安さんにとって、一番いいようにしてあげたいの。だって、私の旦那様に似た顔の子が悲しむのは嫌なの」


 純栄を見つめていた姚君が敬安に目を移す。


「本当はうちに来て欲しいのだけど、うちは嫌だと言われてしまったから。敬安さんは貴女のことが大好きで一緒がいいんですって」


 純栄の声を聞きながら、姚君は格子の間から伸ばされた小さな手をぎゅっと握った。





**





「結局、花姚君は釈放されたら蒼国の戯場に入ることになったんだ。母のたっての希望で」

「貴方のお母様って何だか面白い方ね」


 話を聞いた月季が、ふふふ、と楽しそうに笑う。その笑顔に壮哲も目を細める。


「そうだな。行動が斜め上をいくことがよくあるな」

紅国(うち)の母上とは全く違う感じ」

「そりゃ、慧喬陛下とは」


 笑っていた壮哲が、ああそうだ、と月季を見る。


「紫の青玉だが、母が月季殿の好きなものにするようにと言っていたな。何がいい?」

「本当に私がいただいてしまっていいの?」

「もちろん。せっかくだから今度の納徴の儀に間に合わせたいな」


 そう言うと、月季の瞳を覗き込んで満足げに頷いた。


「うん。やっぱり。あの紫の青玉は、月季殿の瞳の色に絶対に似合う」

「……だから、そういうことを不用意に言わないでってば」


 間近に笑顔を向けられて照れた月季は、慌てて顔を背けた。すると、その視線の先で、話をしている理淑と騎駿に気付き、ねえ、と壮哲に向き直る。


「あの二人……何を話してるのかしら」





「夏県主。警備ご苦労だな」

「秀太子」


 騎駿が宴の警備要員として壁際に控えていた理淑に声をかけ、持ってきた琥珀色の液体の入った杯を理淑に差し出した。


「一杯くらいいいだろう」

「だめですよ。私は任務中なんですから」

「今夜の主賓からだ。断るな」


 そう言って、騎駿が催促するように理淑の目の前で杯を振る。

 理淑が仕方なく杯を受け取ると、騎駿は腕を組んで宴の会場を見るように理淑の横に並んだ。立ち去る気配はない。

 受け取ってしまった杯に口をつけることはせず、手に持ったまま理淑が聞いた。


「夜雨は連れてきてないんですね」

「流石によその国の宴席に連れてくるわけにはいかないだろう」

「そうですか。残念だなぁ」


 理淑が口を尖らせる。


「夏県主は夜雨を気に入ってるんだな」

「そりゃもう。なんであんなに可愛いのか!」


 夜雨を思い出して笑顔になった理淑に、騎駿が一目ではそれとわからないほどだが目を和ませた。


「あ、そう言えば、昼間はありがとうございました」


 理淑が騎駿に向かってぺこりと頭を下げた。

 昼間、騎駿が再び鍛錬場に現れ、理淑の気が済むまで手合わせの相手になってくれたのだ。


「いや。構わん」

「明日、帰っちゃうんですよね。残念です。墨国の太子に手合わせしてもらえるなんて、なかなか貴重な機会でした。楽しかったです」

「墨国にくれば毎日相手してやるが」


 その言葉を理淑が笑って受け流すと、騎駿の方はにこりともせず言った。


「本気で言っている。墨国に来い」

「それはお断りしたじゃないですかー」


 前を向いたまま笑顔で返した理淑を、横に並んでいる騎駿が首だけ向けて見下ろす。


「明日帰ることにはなったが、私はまだ諦めていないぞ」

「ええと、私は蒼国を出るつもりはないですし、そもそもお妃とか、そういうのに向いてないですって」

「大丈夫だ」

「無理ですってば」

「ああ、そうか。蒼国には後宮がないんだったな。後宮が嫌なら、たとえ側妃を娶ることになっても相手にはせぬ。それならいいだろう」

「何ですかそれ」


 あまりにも身勝手な提案に、理淑が思わず吹き出して見上げると、笑わない切長の目と合った。

 冗談ではないらしい。

 理淑は指で額を掻き、少し考えてから口を開きかけたところを、騎駿が遮るように言った。


「断りの返事ならば聞かぬ。承諾ならば聞く」

「うーん。そう言われても」


 理淑が手に持った杯に顎をつけて口を尖らせていると、弓形の眉を下げた佑崔が現れた。


「秀太子殿下、任務中の護衛に御酒(ごしゅ)を勧めないようにお願いいたします」


 騎駿が切長の目をさらに細めて佑崔を見る。


「何だ。邪魔をするな」

「申し訳ありません」


 静かに頭を下げた佑崔に冷ややかな視線を送ると、騎駿が言った。


「この間言っていた、夏県主の目標というのはこの男に勝つことなのだろう?」

「え? あ、はい。そうですよ」

「私の方がそいつよりも強いぞ」

「そういえば昨日、勝ってましたね」

「あれは……」


 騎駿が鋭い目を不快げに細めて佑崔を見る。

 そして理淑に言った。


「私が此奴(こいつ)を打ちのめしてやるから墨国に来い」

「えっ? 何でそうなるんですか」

「此奴に勝つのが目標なんだろう? 私に惨めに負ける姿を見れば、其方の考えも変わるだろう。そうしたら私を目標にすればいい」

「そんな無茶な」


 呆れる理淑を尻目に騎駿が佑崔に高圧的に命じた。


「私と勝負しろ」

「申し訳ありません。宴の席です。お受けいたしかねます」


 動じず丁寧に頭を下げる佑崔に、騎駿の視線が冷たく刺さる。

 そこへ騎駿の臣下がやってきて申し訳なさそうに声をかけた。


「殿下、蒼国王陛下がお話があるそうですが……」


 騎駿はちらりと壮哲の方へ目をやると、佑崔を再び威圧するように見て、理淑に「良い返事を期待する」と大股に去っていった。





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