二年季冬 雉雊 10
蒼翠殿から勢いよく飛び出した理淑が立ち止まって辺りを見渡す。
「どっちだろう」
「梨泉様は中書省辺りで見たとおっしゃっていましたね」
後を追って来た佑崔に声をかけられ、理淑が振り向く。
「もう逃げて出て行っちゃったということはないかな」
「なくはないでしょうけど、青玉を諦めてないのだったら、また蒼翠殿に戻って来ているのかもしれません」
「じゃあ、とりあえず二手に別れて蒼翠殿周りを探す?」
理淑が言うと佑崔が、そうですね、と頷いた。
「建物に沿って行って落ち合いましょう」
「わかった」
理淑は蒼翠殿の周りを佑崔とは反対方向に、身を潜めている可能性のある檐廊の下や屋根の梁までも慎重に見ながら進んだ。
「いないなぁ」
立ち止まって独りごちながら、ふと門下省へ続く左滄明門の方へと目が行った。
「ん?」
濃い灰色の背中が門の向こう側でチラリと見えた。
「今の……」
理淑は呟くと同時に走り出した。
左滄明門をくぐり、濃い灰色が消えた方向へと目を走らせる。しかし姿は見えない。
きょろきょろと見回しながら門下省の脇の道を曲がると、目印として探していた灰色が見えた。その背中は、袍の肩周りが少し窮屈そうにも見える。背はそれほど高くはなくがっしりとした体格は、梨泉の言っていた風体と合致する。
理淑は足音を忍ばせてできる限り速度を上げてその男へと向かった。
しかし、男は理淑に気付いたのか、チラリと後ろを振り向くと、突然走り出した。
「待ちなさい!」
声を上げて理淑は男の後を追った。しかし思いのほか、男の足は速い。
男が角を曲がったので理淑も後に続く。しかし、そこには目当ての男だけではなく、その先にちょうど向こう側の角を曲がって来た礼晶の姿も同時に目に入った。
「あ! 理淑様ー!」
理淑に気付いた礼晶が呑気に手を振った。
男はそのまま礼晶の方へと走って行く。
「礼晶殿! 戻って!」
自分の方に走ってやってくる男を漸く認識した礼晶が立ち止まった。
理淑は礼晶が一人なのに気付く。いつも傍に控えていた大男がこの肝心な時にいない。
「早く! 逃げて!」
焦った理淑の声で、慌てて礼晶が引き返して角を曲がった。
礼晶のところに男がたどり着く前に捕まえなくてはならない。
気ばかりが急く。
ふと突然、上から嫌な気配を感じ、反射的に横へと軌道を変えて跳んだ。直後、理淑の進んだであろう場所に何者かが剣を突き立てた。それは逃げる男と同じく、濃い灰色の袍を纏った小柄な男だった。塀の上から剣を構えて跳び降りて来たようだ。
「誰?」
その問いに答えることなく、その男はいきなり理淑に斬りかかった。
理淑は剣を避けながら自身も剣を抜いて構える。
男は怯んだ様子はなく、理淑に更に斬り込んできた。理淑は男の剣から軽い動きで身を躱す。しかし、足元を薙ぎ払うように出された剣を跳んで着地したところに、男が正面から剣を振り下ろした。
鈍い金属音が響く。
「くっ……!!」
振り下ろされた男の剣は受けたが、小柄な割に男の力は強かった。男に剣ごと押されて理淑の足が、ざざざと音を立てながら後方へ滑る。
歯を食いしばりながら見た男の肩越には、追いかけていた男が立ち止まってこちらの様子を窺っている姿があった。
そして、思いがけず視界に飛び込んできたものにぎくりとする。
逃げたはずの礼晶が棒のようなものを構え、その男の背後へそろそろと近付いて来ていたのだ。
一瞬気が逸れ、大きく後ろへと押される。
礼晶は背後から男を襲うつもりなのだ。どう考えても無謀だ。返り討ちに遭うのは目に見えている。
やめて逃げるように礼晶に伝えたいが、しかしここで声を出すと男に気付かれ、礼晶が無事に済むとは思えない。
理淑の集中力が散漫になり、重なる剣の拮抗が崩れた。理淑の剣から逃れた男の剣は、理淑の肩口を襲った。辛うじて体を捻って避けたが、左腕を男の剣が掠めたのがわかった。
その時、焦る理淑をよそに、礼晶が棒のようなものを振りかぶった。
そして突然、こちらを見ていたはずの男が振り返り、礼晶に向かって剣を振り上げた。
「きゃあっ!!」
驚いた礼晶が悲鳴をあげて尻もちをついた。
「礼晶殿!!」
完全に注意を奪われ、明らかに隙ができた理淑に男の剣が容赦無く向かう。
「理淑様!」
突如、理淑を叱責する声が聞こえたかと思うと、二重の金属音が鳴り渡った。
尻もちをついた礼晶の前に立ち、振り下ろされた剣を受けたのは佑崔だ。同時に、理淑は辛うじて小柄な男の剣を剣で留めた。
佑崔は受けた剣を払いざまに体勢を崩した男の後頭部を、剣の柄で打ちつけた。男は地面に倒れ込み、動かなくなった。
佑崔が振り向くと、理淑が小柄な男の腕に一太刀浴びせたところだった。
「理淑様!」
佑崔が駆け寄ろうとすると、小柄な男は舌打ちをして跳び退り、傍の木を足がかりにしてひょいと塀へと上がった。
「待ちなさい!」
塀の上を走る男を追おうと理淑が走り出すと、その先に兵を連れた葛将軍が現れた。
「あとは引き受けよう!」
そう言った葛将軍率いる右羽林の兵たちが男の追跡を引き継いだ。
「大丈夫ですか!?」
佑崔がやって来ると、理淑は失敗を見つかった子どものような顔で佑崔を窺い見た。
「ごめん。取り逃しちゃった」
「葛将軍が追って行ったから大丈夫でしょう」
「……うん」
佑崔の顔がふいに緊張する。
「……怪我してませんか?」
佑崔の視線が理淑の左腕に向けられている。見ると、袍の腕のあたりがすっぱりと切れていた。
「ん? あ、大丈夫。服だけみたい」
そう言って切り口を覗き込んで確認する理淑にほっと息を吐くと、佑崔が言った。
「らしくなかったですね。動きが随分と散漫になっていましたよ。他に気を取られて自分がやられてしまっては意味がないでしょう」
だって、と理淑が口を尖らせたが、
「でも、来てくれてありがと。お陰で何とかなったよ」
そう言うと、理淑は剣を仕舞い、倒れたままの男の横で座り込んでいる礼晶の元へと駆け寄った。
「礼晶殿、大丈夫?」
地面にへたり込んだままの礼晶が頷く。腰が抜けてしまったようで立てないらしい。
理淑が手を貸すと、よろよろと立ち上がった。
「……ありがとうございます……」
礼晶が理淑に礼を言い、倒れている男を縛り上げていた佑崔にも頭を下げた。
「……助けてくださってありがとうございました」
「いえ」
佑崔が立ち上がり、困ったように聞いた。
「でも、どうしてあんな状況になってたんですか?」
「……あの……理淑様が戦ってて……あの人も理淑様のところに行ったら大変だと思ったんです……」
泣き出しそうになりながら、声がだんだん小さくなる。
「加勢してくれようとしたんだよね」
理淑が助け舟を出すと、礼晶はしょんぼりと俯いて言った。
「……理淑様に剣術を教えていただいているので、お役に立てるのではないかって……」
「そうかぁ」
笑った理淑に、佑崔が溜息をついた。
「理淑様、そうかぁ、じゃありませんよ」
そう言うと礼晶に目を移す。
「礼晶殿。貴女は剣を習い始めたと言っても、まだほんの数日です。それにそもそも過信は命取りになります。もっと慎重になってください」
そして理淑に向き直ると顔をしかめた。
「理淑様も、きちんとその辺を伝えておいてください。そんなんで怪我でもしたらどうするんです」
「ごめんなさい……」
しょげ返る二人を前にして、佑崔は小さく息を吐くと、声を和らげた。
「まあ……でも無事で本当に良かったです」
その言葉に礼晶が泣きそうな顔を上げた。佑崔を見ると、形の良い大きな目に溢れそうに溜まっていた涙が、ぽろぽろと零れた。
止まらない涙に、狼狽えた佑崔が慌てて手巾を出して手渡す。
「もう大丈夫ですから」
そこへ大男が、礼晶の名を呼びながらやって来た。
「こちらにいらしたんですか」
事情を知らない礼晶の護衛は、泣きじゃくる主人の姿に驚いて佑崔と理淑を見た。
「ちょっと怖い目にあったんです。帰って休ませてあげてください」
佑崔は苦笑いをすると、護衛に礼晶を引き渡した。
礼晶が護衛に付き添われて去ると、佑崔は捕えた男が士略だろう、と壮哲の元へと連れて行くことにした。理淑は葛将軍に合流すると言って佑崔とは別れた。
理淑が男の逃げて行った方に向かって走っていると、英賢がやって来た。
「大丈夫?」
騒動を聞きつけてきたらしい。
理淑の袖が破れているのに気付き、英賢の顔色が変わる。
「斬られたの!?」
「大丈夫だよ。切れたのは服だけだから」
理淑がそう言っても英賢の顔は強張ったままだ。理淑に伸ばした手も微かに震えている。
「……佑崔は何やってたの……!」
頭に血が上った英賢が詰る。
すると、兄上、と理淑が宥めるように英賢を見上げた。
「違うよ、兄上。私は羽林軍なんだから、賊と戦うのは当たり前だよ」
「理淑……」
眉を下げた英賢に理淑が言う。
「心配かけてごめんなさい。でも、切られたのは私が他のことに気を取られたからなだけ。完全に自分のせい」
「他のことって?」
「私が賊と戦ってた時、私を助けようとしてた礼晶殿が危険な目に遭って。それに気を取られたんだ」
「……え? 礼晶殿は大丈夫なの?」
思わず英賢の顔が険しくなる。もし何かあれば——たとえ小さな怪我でも大騒動になるだろう。
「うん。佑崔殿が礼晶殿を助けに行ってくれたから」
「そう……」
安堵すると同時に、複雑そうな顔で相槌を打つ英賢に理淑が言った。
「相手に負けそうになって佑崔殿に叱られちゃった。でもそのおかげで持ち直して、怪我をせずに済んだんだよ」
更に晴々とした顔で続ける。
「それにね、佑崔殿が私に加勢しなかったのは、一人で大丈夫って思ってくれたってことだもん。それは嬉しい」
「そうなの?」
うん、と返事をした理淑の目を英賢がじっと見つめた。明るい碧色の瞳には全く曇りがない。
英賢は大きく息を吐いた。
以前、自分を庇ったために大怪我をさせた時のことが頭をよぎり、理淑が怪我でもしたらと思うと、どうにも冷静でいられない自覚はある。
英賢はそんな自分の苦い思いを抑えて微笑んだ。
「……ごめん。……そうだね。理淑はもう一人前の羽林軍だものね」
「そうだよ」
ふん、と鼻息を荒くして理淑が頷く。
「あとね、兄上」
見上げてくる一生懸命な顔に思わず笑んで、ん? と英賢が首を傾げる。
「私は佑崔殿に守って欲しい、とは思ってないんだよ。むしろね、私が佑崔殿に勝つのを目標にしてるのは、佑崔殿が危ない時にも、ちゃんと私が助けられるようになりたいからなんだよ。だって、一番強い人にも助けられる人がいないとね」
そう言うと理淑は、へへ、と笑った。