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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −白及の巻−
181/192

二年季冬 雉雊 8




 蒼翠殿へと向かう途中、梨泉はふと建物の影に身を潜めるようにしている人物に目を止めた。

 どこかで見たことがある。


「あ……あの男……」


 濃い灰色の袍を纏った男を見極めるように見つめると、梨泉はそれに向かって走り出した。


「そこの貴方!」


 梨泉の声に男が振り向いた。しかし梨泉を認めると、反対方向へと走り出した。


「待ちなさい!」


 待てと言われて止まるはずもなく、男は梨泉の目から(のが)れるように角を曲がった。

 梨泉は裙を両手で持ち上げて追いかける。しかし角を曲がったところで立ち止まった。

 男の姿はない。


「どこ?」


 きょろきょろと周りを見渡しながら更に建物の角を曲がると、小さな庭に面した場所に行き当たった。


「え……?」


 思わず驚きの声が漏れる。

 記憶ではその突き当たりは、石造りの壁面だったはずだ。しかし、壁だった面がぽっかりと暗い口を開けている。


「どういうこと?」


 人が通れるほどの四角い穴に恐る恐る近付く。その暗がりを覗いてみると、下へと延びる階段があった。


「何これ……?」


 そう呟いた時、梨泉は突然背中に衝撃を感じた。

 声を上げる間も無く、地についていたはずの足が浮き、目の前がぐるんと回転した。梨泉は自分が階段を転がり落ちようとしていることを悟ったが、なす術もなく、思わずぎゅっと目をつむった。

 しかしその瞬間、誰かに腕を掴まれて引き寄せられた。そして抱きすくめられる感覚がして、その後、段を滑り落ちるような衝撃が続いた。

 動きが止まると、梨泉は目を開けてみた。階段を転がり落ちた割には衝撃が少ない。そしてあまり痛くない。目の前に見えたのは、濃い藍色の布地。


「大丈夫ですか!?」


 焦った声が頭の上から聞こえる。頭を抱えられている腕が緩んだので顔を上げると、朽葉色の瞳が目に入った。


「洸良殿……?」


 血相を変えた葛将軍——葛洸良が梨泉を覗き込んでいた。


「どこか怪我は?」


 洸良は梨泉を抱えたまま身体を起こし、梨泉をひょいと持ち上げて膝に座らせると、点検するように目を走らせる。


「どうして洸良殿が?」


 らしくなく呆けた表情で見上げる梨泉に怪我がないことを確認すると、洸良はほっと息を吐いた。


「貴女がすごい勢いで走っていくのが見えて追いかけて来たんです。そうしたら、男が貴女を突き落とそうとしていて……慌てて貴女を掴まえたんですけど……すみません、あの男は多分取り逃しました」


 転がり落ちていく梨泉をすんでのところで掴まえ、そのまま抱き込んで階段を落ちたらしい。


「あ……ありがとう……」


 混乱した頭のまま言いかけて、梨泉がはっと息を呑む。

 

「貴方は大丈夫なの?」


 つまり洸良は、自分を衝撃から守りながら階段を落ちたということなのに気付き、慌てて梨泉が聞いた。


「私は大丈夫です」


 そう洸良が答えた時、ガガガガと何かが引きずられる音がした。音のした階段の上を見上げると、光の差し込み口が徐々に狭くなっていき、ついにそれが無くなった。

 そして音が止み、空間が闇に塗りつぶされる。


「え? 嘘」

「どうやら閉じ込められてしまったようですね。恐らく貴女を突き飛ばした男でしょう」


 暗闇の中、洸良はいつもと変わらない落ち着いた声で言った。


「何をのんびり言ってるんですか」


 梨泉は洸良の腕を押しのけると、上方の隙間から漏れてくるわずかな光を頼りに、這うようにして階段を登った。先ほどまでは開いていたはずの石造り扉を押してみるが、びくともしない。


「嫌だ。開かない」


 梨泉が言うと、後をついて登って来た洸良が、どれ、と扉に手をかける。しかし押しても引いても動かない。


「開かないように外から何かで押さえているのかもしれませんね」

「そんな……」


 扉を叩き、助けを求める声を上げてみるも、返事はない。


「追いかけていた男は誰なんです?」


 背後から問われ、梨泉は扉を叩くのを諦めて振り向いた。


「……この間お話しした、父の隠し子のことは覚えていますか?」

「ええ。勿論」

「あの後、その子の連れの女性が来たんです。だけど、彼女、その子を連れて何も言わずにいなくなってしまったの。先刻の男は、彼女が秦家(うち)に来た時に、門の外で一緒にいたのを見かけたの」

「それで追いかけたんですか」

「そう。何か知ってるかもしれないと思って」


 洸良が微かに笑った気配に梨泉の眉が上がる。


「何が可笑しいのです?」


 梨泉が咎めると、取り繕うような咳払いがあった後、


「だからといって一人で追いかけるのは感心しませんね」


 と洸良に逆に窘められる。


「あの子たちがうちにやってきた理由がわかったから、壮哲に知らせに行くところだったんです。……そこへあの男を見つけたから……」


 梨泉が反論するように言うと、洸良が、なるほど、と考え込んだ。


「だから早くここから出ないと。……でも、ここ、何なのかしら」


 梨泉が途方に暮れて階段の下に目を遣る。

 扉の隙間から漏れ入ってくるわずかな光を頼りに目を凝らしてみると、階段の下には石畳の道のようなものが延びている。

 再び階段を降りてみると、暗闇の先から微かに吹いてくる風を感じた。


「風が来ているということは、この先に出口があるのでしょう。行ってみましょう」


 あっさりと言った洸良を、梨泉が、え、と驚いて見上げる。


「そんな、よくわからないところを行って大丈夫なの?」

「急いだ方がいいのでしょう? ここにいても、助けが来る保証もありませんし」


 そう言われて、梨泉は眉を顰めて閉じられた扉を見上げていたが、それもそうね、と溜息をついた。すると洸良が手を差し出した。


「では行きましょうか。危ないですから、私の手を掴んでください」


 一瞬、梨泉が固まる。

 慌てて「大丈夫です」と後ろに隠しかけた梨泉の右手は、洸良に掴まえられた。梨泉は手を引き抜こうとするが、大きな手は尚更しっかりと梨泉の手を握る。


「嫌かもしれませんが我慢してください。真っ暗なので、はぐれると面倒です」


 至極合理的な言い分だけに、梨泉は渋々頷いた。


「では、行きましょう」


 洸良はにこりと笑うと、空いている方の手を壁に着いて、暗闇の中の通路を文字通り手探りで進み始めた。

 階段から離れると、隙間から差し込んでいた僅かな光すらなくなり、完全な暗闇になった。


「ちょっと……ねえ、全く先が見えないけれど、本当に大丈夫なんですか?」


 すぐ前にあるはずの背中すら見えない。


「もしかして暗いのは怖いですか?」

「……怖くなんかないわよ」


 少し揶揄うように言われて、梨泉がムッとして言い返すと、洸良の忍び笑いの気配がした。


「何ですか? 先刻から……」

「いや。変わってないなと思って」


 洸良の楽しげな声に、梨泉は何も言えず黙り込んだ。



 会話が途切れると、闇の中で聞こえるのは密やかな足音だけになった。

 暗闇は本当に別に苦手なわけではないが、流石にこうも何も見えないと、不安が湧き上がってくるのは否めない。まるで一人この闇に取り残されたような錯覚に落ち入る。

 ここにいるのが自分だけではないという証拠は、繋いでいる大きな手の温もりだけ。

 でも、繋いでいるこの手は、本当に洸良のものなのだろうか。

 不安に耐えきれず、梨泉は思わず聞いた。


「ねえ……ちゃんといます?」

「どうしました?」


 洸良のいつもの落ち着いた声に、梨泉がほっと息を吐く。


「何も見えないから……本当に貴方がいるのかわからなくなって……」

「ちゃんといますから大丈夫ですよ。心配ならもっとしっかり掴まってください」


 そう言って洸良が梨泉の手をぎゅっと握り直した。思わず梨泉の心臓が跳ねる。


「そういう意味で言ったのでは……」


 急にうるさくなった自分の心臓の音を誤魔化すように梨泉が言うと、洸良が笑った。 


「じゃあ、何か話をしながら進みましょうか」

「……そうしてください」

「何を話しましょう」


 梨泉は、そうね、と呟く。

 頭に浮かんだのは、先日、口にしかけて止めたことだ。


「……どうして結婚しなかったのですか……?」

「それを聞きますか」


 洸良の声で、梨泉は自分が無意識にそれを声に出してしまっていたことに気付いた。


「あ……ごめんなさい……」


 慌てて謝ると、「いえ、いいですよ」と言って少し困ったように洸良が笑った。低音の笑い声が梨泉の耳に、そして胸の奥に響く。


「……機会はありました。県令のお嬢さんとの縁談をいただいて。……とても良い方でした」


 懐かしむように語る声に、梨泉の胸がちくりと痛む。


「でも、この先の人生をこの人とずっと共にするんだ、と思った時……躊躇してしまったんです。一緒にいても、恐らく女性として愛することはできないだろう……そんなふうに思ってしまって、どうしても踏み切ることができませんでした」


 それは自分が結婚をやめたのと同じような理由だった。

 梨泉が相槌を打つことすらできずにいると、「そうしたらそのうち、相手の方から断られました」と洸良は苦く笑った。


采陽(ここ)へ戻ってくるのは、本当は気が進まなかったんです」


 黙ってしまった梨泉に洸良が続けた。


「……どうして?」


 辛うじて梨泉が聞くと洸良が苦笑するのがわかった。


「貴女が誰かの妻になっているのを見たくなかったんです」


 梨泉の鼓動が大きく打つ。

 どういう意味なのかと思っている間に、洸良が言った。


「覚えていますか? 初めてお会いしたのは七年前でしたね」


 梨泉は左手で胸を押さえ、何事もないように平静を装って言った。


「……ええ。覚えていますわ。偶然行った戯場で阿片の密売が行われている現場に遭遇してしまって、貴方に助けていただいたのですもの」

「そうです。あの時貴女は、その現場に潜入しようとしていた。無謀にも程がある」


 可笑しそうに笑う低音の声が暗闇に響いた。


 そうだった。

 七年前の自分はこの笑い声がたまらなく好きだったのだ。


 それを思い出し、梨泉は心臓をぎゅっと握られたように切なくなった。


「とんでもない県主(ひめ)だと思いました」

「……失礼ね」


 気付かれないように大きく息を吸って気持ちを落ち着かせると、わざと不貞腐れた声で応えた。すると更に洸良が笑った。


「衝撃でした。噂に聞いていた秦家の梨泉県主は、物静かで、嫋やかで、儚げな方のはずでしたから」

「そのとおりじゃない」


 梨泉がつんと澄ましたように返すと、洸良は、そうですか、とまた笑い、何気ない口調で言った。


「その後、何度か偶々(たまたま)会ううちに、気付いたらそんな貴女にどうしようもなく惹かれていました」


 梨泉の足が思わず止まった。その拍子に腕が引っ張られる形になって手がすり抜けそうになったが、洸良がそれをぎゅっと握った。

 梨泉は立ち止まったまま呟いた。


「……そんなこと……七年前は一言も言っていなかったじゃない」

「貴女は別の方と結婚することが決まっていましたから」


 洸良の苦笑いの混じった言葉が再び沈黙を作った。


 すると、洸良が不意に言った。


「ここに階段がありますね。通路の終わりまで来たようです」

「あ……」


 突然切り替わった会話に戸惑いながら、梨泉は顔を上げた。

 確かに、上方から漏れ入ってくる光へと階段が続いているのがかすかに見えた。

 そのまま階段を上がってみると、入って来たところと同じく、扉のようなものがあった。

 洸良がそれを横へずらそうと力を入れた。しかし、わずかに扉が揺れるが、それ以上は動かない。


「開かないな……」

「そんな。どうしたら?」

「外から気付いてもらえるのを待つしかないのかもしれません」

「え?」

「もしかしたら一生気付かれないかも」

「馬鹿のことを言わないで」


 怒る梨泉に、洸良が堪らず笑いを溢す。そして愛おしむように梨泉を見た。


「梨泉様、私はやっぱり今でも貴女が好きなようです」


 洸良の不意打ちに、梨泉が一瞬、言葉を失う。


「……こんな時に何を……」

「こんな時だからです。今度は悔いを残したくないのです。七年前は言えませんでしたから」


 隙間から漏れてくる光で見える朽葉色の瞳は、七年前、梨泉が好きだと思った時のままだった。


 梨泉が決まっていた結婚をやめようと思ったのは、洸良への想いを自覚してしまったことが原因だ。でも、何も言わずに地方へ赴任してしまった洸良も、自分のことをそんなふうに思っているなんて考えもしなかった。それに、一方的に結婚を止めたくせに洸良と結ばれようなどと、そんな虫の良いことは、梨泉自身が許せなかった。

 だから梨泉は、洸良への想いを七年前に()めてしまった。そしてその想いを誰にも打ち明けるつもりはなかった。

 洸良にも。

 この先も。

 

 それなのに、洸良の朽葉色の瞳は、梨泉の止まっていた時をゆっくりと動かし始めてしまった。


「……馬鹿ね」


 梨泉は泣いてしまわないように眉を顰めると、洸良の胸を、どん、と拳で叩き、額を押し付けた。

 洸良が受け止めるように梨泉をそっと抱きしめる。

 梨泉は暖かな腕の中で、自分の心が(ほど)けていくのを感じた。こんな時なのに、と思いながらも、幸せが胸の中を満たしていく。


 ——しかし、少しすると、洸良が名残惜しそうに溜息をついた。それに気付いて顔を上げた梨泉に微笑み、もう一度、今度はぎゅっと抱きしめると、細い背中をぽんぽんと優しく叩いた。


「……本当に、私としては非常に残念ですが、そろそろ行かないといけませんね。これ以上、職務に私情を持ち込むのは許されないでしょうし」


 そう言うと洸良は、扉を片手でぐいっと押した。すると動かなかったはずの扉が、ぎぎぎぎと音を立てて易々と開いた。

 差し込んだ陽の中で呆然とする梨泉の顔を見て、バツが悪そうに洸良が頭を掻いた。


「実はこの隠し通路のことは、羽林軍の将軍を拝命した折に、陛下から知らされていました」


 それを聞いて、梨泉は顔を真っ赤にすると、ふるふると怒りに震えて言った。


「騙したわね……!?」


 腕の中で自分を睨む梨泉に、洸良は逆にこの上なく嬉しそうに笑った。






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