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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −白及の巻−
180/192

二年季冬 雉雊 7



 羽林軍の詰所から出ると、外はまだ陽がさしていた。

 しかし陽の光で僅かに温もりを保っている空気も、頬に吹きつければやはり冷たい。

 理淑は首をすくめ、足を踏み出そうとして、「理淑様」と自分を呼ぶ声に気がついた。

 声の方へ目を向けると、大男を付き従えた予想どおりの可憐な姿があった。


「礼晶殿。どうしたんですか?」


 駆け寄ってきた礼晶のいつもは滑らかな白い頬が赤い。


「もしかして外でずっと待ってたんですか? 寒かったでしょ。大丈夫ですか?」


 理淑が驚いて聞くと、礼晶が「大丈夫です」と慌てて手を振る。

 そして遠慮がちな上目遣いで理淑を見た。


「……あの……理淑様、まだお仕事中ですか?」

「ん? ううん。今日は早番だから、ちょうど終わって帰るところです」


 すると礼晶が、よかった、と安堵したように頬を緩めた。

 理淑が問うように首を傾げて見せると、礼晶が首をすくめる。


「すみません。父上に執務時間に行くのはやめなさいと注意されたので……」

「それで終わるのを待っていてくれたんですか」


 理淑が笑うと、礼晶が、はい、と頷いた。


「それはありがとうございます。で、今日はどうしたんですか?」

「実は……。今度のお稽古のときでもいいかしら、とは思ったのですけど……あと一つしか用意できなかったし、それに、早くお渡ししたくて」


 そう言って両手を差し出した。

 礼晶の柔らかそうな手には小さな袋が載っていた。


香嚢(こうぶくろ)なんですの。よかったら貰ってください」

「え? いいんですか?」


 理淑が驚きながら受け取る。


「はい。もちろんです。理淑様には剣術を教えていただいたり、お世話になっているので、使っていただけると嬉しいです」

「えー、ありがとうございます! いい匂い!」


 香嚢に鼻を寄せて香りを嗅ぐ理淑を、礼晶が嬉しそうに見る。


「その香草、身を守ってくれる効能があるそうなんです」

「へえ! そうなんですね! すごい嬉しい!」


 香嚢を裏返してみて理淑が、あ、と声を上げる。


「この(あひる)の刺繍かわいい!」


 一瞬、間が空いて、礼晶がぽつりと申し訳なさそうに言う。


「……あの……それ……朱雀(すざく)なんです……」

「……え? あ! 本当だ! どう見ても朱雀だった!」


 理淑があわあわと慌てて言うと、礼晶が恥ずかしそうに両手で顔を覆った。


「……すみません……自分で刺繍したのですけど……私、不器用みたいで……」

「そんなことないです! 私なんて刺繍したことすらないし、すごいと思う!」


 自分の言葉にこくこくと頷きながら熱心に言う理淑に、礼晶が顔を覆ったまま下を向く。


「ありがとうございます……。でも、やっぱりその朱雀って、(あひる)に見えるのですね……。佑崔様にも鴨と言われました」

「佑崔殿にも同じものを?」


 礼晶が、はい、と消え入りそうな声で答える。


「佑崔様は陛下の護衛として危ない目に遭うこともあるとお聞きしましたので、何かできることはないかと思って……」

「そっか。それはいいですね」

「本当ですか?」


 礼晶が顔を覆っていた手を離す。


「うん。とってもいいと思う」


 理淑がこくりと頷くと、不安げだった礼晶の顔が和らぐ。


「理淑様にそう言っていただけて安心しました。佑崔様、受け取ってはくださったのですけど、なんだか少し困っていらっしゃったように見えたので……」

「そんなことないと思うよ」

「でしたらいいのですけど……今更なのですが、もしかしたらご迷惑だったかもと思うと申し訳なくて……」


 祈るように顔の前で両手を合わせる礼晶を理淑が見つめる。


「礼晶殿は、いい人だね」

「そうですか?」


 きょとんとして目を瞬かせる。


「世間知らずとは父上によく言われます」


 少しずれたことを言って首を傾ける。その仕草はあくまで可憐だ。


「そうなんですか」


 理淑が聞くと、礼晶が今度は反対側に首を傾けた。


「はい。私としては、自分が世間知らずだなんて思っていなかったのですけど……父上は正しかったんです」


 礼晶が胸の前で両手をぎゅっと握る。


「この間も申し上げましたが、私の家は代々文官で、武官の方とお会いすることはなかったんです。それもあって、武官の方って怖いばかりだと思っていたんです。本当に失礼な想像だったと今なら解るのですけど、乱暴な方が多いのかしらって」


 恥ずかしそうに、申し訳ありません、と礼晶が下を向く。


「だから、陛下の……王妃候補の面談の時も、本当は少し不安だったんです。陛下は禁軍の将軍でいらした生粋の武官の方でしたから……。でも、お会いしてみたら陛下はお優しくて、とっても素敵な方でした。その時初めて、武官の方への私の認識が全く間違っていたことがわかったのです。……本当に、世間知らずですわ」


 あはは、と笑いながら理淑が、そっか、と言うと、礼晶が安心したように続ける。


「それに……それに! 佑崔様は武官の方なのに、とてもお美しいし……文官の兄上よりずっと穏やかな雰囲気で」


 形の良い大きな瞳がうっとりと潤む。頬の赤みは、今度は寒さからではなくほんのりと熱を含む。


「剣を持っても、お強いのにあんなに優雅で、なんて素敵なんだろう、もう、本当に、こんな方がいるのか、夢みたいって思って」


 礼晶が胸に両手を当てて幸せそうにふんわりと微笑む。


「……それで、母上にそのことを話したら、あれよあれよという間に父上が佑崔様のお家に縁談のお話を持って行ってしまって……。とても驚いたのですけど、でも、もしも、佑崔様の奥様になることができたら何て幸せなんだろう、なんて思ってしまったんです」


 そこまで言うと、礼晶はしょんぼりと俯いた。


「……でも、佑崔様にはお断りされました。陛下をお守りすることに全力を尽くしたいから、ということでした」


 理淑が、そっか、と相槌を打つ。


「お断りをされた時、父上には、残念だろうけど諦めなさい、って言われました。でも……私は……それができなくて……せめて佑崔様が打ち込んでいらっしゃる剣術をやってみたい、剣術を知りたい、と思ったんです」


 うん、と理淑が頷く。


「剣術を習いたい、ということを父上に言うと、やっぱり世間知らずだと諭されました。剣術を習ったからといって、佑崔様が私に振り向いてくださるわけじゃない、って。……でも、それでも、私は、剣術を頑張って、剣術のことを知って、少しでも佑崔様に近付きたい、と思ったんです」


 ぎゅっと手を握って真剣に語る礼晶を見つめ、うん、と理淑が再び相槌を打った。

 すると、礼晶がはっと我に返った。


「あ……も……申し訳ありません。私ったら……こんな話を長々と……」


 そう言うと、頬だけではなく耳まで真っ赤にして頭を下げた。


「ううん。全然!」


 理淑はふるふると首を振って、両手で顔を覆って身を縮める礼晶に目を細めた。


「佑崔殿に近付きたい、っていう気持ちは私もとってもよくわかります。佑崔殿の剣は、私の目標だし」


 そう言った理淑を、礼晶は顔を上げて真っ直ぐに見た。


「私、理淑様が剣を使われるお姿も好きなんです。軽やかで、静かで、美しいです。やっぱり理淑様の剣を握るお姿は、佑崔様と似てると思うんです。だから、とっても羨ましいんです。きっと理淑様は佑崔様と同じところにいるんだろうって」


 きらきらと瞳を輝かせて礼晶が言った。


「ありがと。でもまだ全然、届かないんだ」

「そんなことないです!」


 断言する礼晶に、理淑は、そうだと嬉しいな、と笑った。






 礼晶が去ると、理淑は何となくそのまま帰る気になれず、ぶらぶらと蒼翠殿の方へと足を向けた。すると、遠くの方で自分に向けて手を振っている人物を見つけ、あ、と声を上げて駆け出した。


「月季殿!」


 理淑が駆け寄ると、月季はその美しい顔を優しくほころばせて迎えてくれた。

 元々飛び抜けて美しいが、更にその美しさに磨きがかかった気がする。


「久しぶりね。理淑殿」


 改めて月季の笑顔を見て理淑が、へへ、と笑う。


「何? どうしたの? 何かあった?」


 訝しげに首を傾げる月季に、理淑が嬉しそうに首を振る。


「何もないです。それより、今日は忠全殿は一緒じゃないんですね」


 月季の背後にいつもの気の良さそうな護衛の姿がない。


「え? ああ、そうね。もうすぐ来ると思うけど……」

「また撒いてきたんですね」

「……だって、遅いんだもの」


 少しだけバツが悪そうに月季が言った。

 きっと今頃、忠全は泣きそうな顔で馬を走らせていることだろう。それを想像して、気の毒に、とは思いながらつい笑ってしまう。


「何か急ぎのご用があったんですね」

「そういうわけではないけど……。ちょっと、壮哲殿に……」


 頬を染めてごにょごにょと口籠る。凛々しい美しさに可愛らしさが混じる。


「陛下のところにはもう行かれたんですか?」

「ううん。これから……」


 にこにこと聞いた理淑に、そう月季が照れたように言った時、蒼翠殿の方向から声が聞こえた。


「待て!!」


 目を遣ると、兵士が追いかける先に鉄紺色の胡服姿の人物が走っているのが見えた。

 「ちょっとすみません」と月季に断ると、理淑は駆け出した。


 兵士より先に胡服姿の逃走者に追いつく。

 理淑は、どうしようかと迷ったが、胡服の肩に手をかけた。すると、その拍子に相手は足をもつれさせ、悲鳴をあげて転んだ。


「捕まえててください!」


 追いかけてくる兵士に言われ、理淑が転んだその人物を押さえ込む。


「ありがとうございます!」


 理淑達の元に、逃走者を追いかけていた兵士が到着した。


「なんか……言われたとおり捕まえたけど……よかったんだよね?」


 捕まえたはいいが、手の下でもがくのが華奢な女性である感触に困惑して、遠慮がちに聞く。


「もちろんです!」

「……で、この人がどうし……」


 逃れようと抵抗する女の顔を覗き込む。


「え!?」


 理淑がつい声を上げた。

 そこへ月季もやって来た。


「大丈夫?」


 声をかけた月季を理淑が見上げる。そして逃げようともがく女を見る。更にもう一度月季を見て再度、自分が捕まえている女の顔を見た。


「え? どういうこと?」


 理淑に取り押さえられていた女の顔は、不快そうに歪んではいたが、月季の美しい顔とそっくりだった。



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