二年季冬 雉雊 6
「どうしたものかな」
会談が終わり、騎駿が退室すると、壮哲が指で卓をこつこつと叩きながら唸った。
「驚きましたね。墨国が魁族を牽制するために大国の紅国と姻戚関係を結びたいと思うのはわかりますが、まさか蒼国に持ちかけてくるとは。……まあ、紅国の公主の嫁ぎ先はもう決まってしまっているのもあるでしょうけど」
昊尚が壮哲を見る。
「何か聞いていましたか?」
月季から、というのを言わなくても伝わった壮哲が首をひねる。
「いや。特に墨国のことは聞いていないな」
以前、翠国の恭仁の他に予想外のところから縁談が来たと言っていたが、それがそうだったかもしれないな、とは内心で思う。
そうですか、と昊尚が考えるように顎に手をやる。
「魁族の方針が変わった、と秀太子はおっしゃっていましたよね。その内容は明らかにされませんでしたが、口ぶりから察するに、魁族との政略結婚の話が持ち上がっているのかもしれません」
「……なるほど」
「だとしたら恐らく、魁族の身分の高い女性を受け入れるという選択肢なのでしょう。もしかしたら、秀太子の正妃として受け入れるのを避けるために、正妃の座を埋めようとしている、ということも考えられます」
「それで理淑に目をつけたと?」
「理想で言えば大国の後ろ盾も得られて腕も立つ芳公主でしょうけど、それも叶わない今、理淑殿は確かに王族でもあり腕も立ちますからね。条件には当てはまります」
昊尚が佑崔に視線を移した。
「理淑殿と手合わせをしたと言っていたが、知っていたのか?」
「いいえ。……ただ……先ほど、秀太子殿下を探しに行って見つけたのが羽林軍の鍛錬場だったので、もしかしたら、その時だったのかもしれない……とは思います」
鍛錬場での騒ついた妙な雰囲気を思い出しながら佑崔が答える。
「曹将軍ならその場にいらっしゃったので、よくご存知なのではないかと……」
最後まで言う前に、まるで待っていたかのように曹将軍から訪いの声がかかった。
入室を許可すると、もともとの渋い顔をさらに厳しくして曹将軍が現れた。
「秀太子のことでご報告が……」
「有難い。ちょうどそれを聞こうと呼びに行かせようと思ってところだ。鍛錬場で何があったのか教えてくれ」
壮哲が言うと、曹将軍が羽林軍の鍛錬場でのことを話し始めた。
「……なるほど。そんなことが」
曹将軍の話が終わると、壮哲が溜息をついて椅子の背にもたれた。
「この間蒼国に来た時に、理淑に目をつけていたのか……」
「そうおっしゃっていました。秀太子の連れている梟が懐いたことが大層お気に召したようです」
曹将軍が言うと、昊尚が、ああ、と頷いた。
「秀太子はその梟をとても可愛がっておいでで、あの無表情な方が唯一笑顔を見せる相手のようです」
「あの秀太子も笑うことがあるんだな」
「私は見たことはありませんが、大雅……紅国の太子が言っていました。その梟が懐いたから、というのはある意味、秀太子らしいと思います」
昊尚が言うと、壮哲が、ふむ、と腕を組む。
「じゃあ、今回の来訪の一番の目的は、秀太子の希望の条件に当てはまっていた理淑の剣の腕を確かめるためだったということか。それで理淑の腕が国としての条件にも合致したから、婚姻を持ちかけてきたんだな」
「そうですね。……しかし理淑殿の意志に任せるというのは、どういう心づもりなのでしょうね」
「理淑には断られているにも拘らず、だからな。交渉の余地がまだあると言っていたのが気になる。なかなか自信がありそうな感じだったぞ」
「ええ。普通に考えて、理淑殿が蒼国を離れることを承諾するとは思えませんが」
昊尚が、騎駿がそう考えるような何かがあったのか、と曹将軍に問うように視線をやる。
「もしかしたら……」
曹将軍がその視線を受けて、佑崔をちらりと見る。
「理淑様が申し出を受けない理由の一つに、蒼国で目標を達成していない、と言ったことに過剰に反応しておられたように見えました」
「理淑の目標? もしかして、佑崔に勝つことか」
壮哲が椅子にもたれていた身体を起こす。
「はい。そのことを聞いた直後、ちょうど佑崔が秀太子を探しにやって来たんです。そこで佑崔に無理やり手合わせをさせたのですが……」
「ほう。佑崔と秀太子の手合わせか。それは私も見たかったな。……で? 結果はどうだったんだ」
壮哲が面白そうに佑崔へ話を振る。
「……はあ……」
居心地悪そうに佑崔が答えを濁すと、壮哲がやや意外な顔になる。
「負けたのか」
「……秀太子はお強いですから……」
「……お前、まさかわざと負けたのか? 本気でやらなかったんじゃないだろうな」
壮哲が苦笑する。
佑崔は壮哲を護衛する時以外、必ずしも本気を出す必要はないと思っている。だから割と平気で負けたりすることがある。
壮哲に指摘され、佑崔が普段は上がり気味の眉を情けなさそうに下げる。
「別に本気でやらなかったというわけでは……」
しかし、早く騎駿を連れ戻すために、手合わせを適当なところで故意に終わらせたのは事実だ。
あの時の反応からして、騎駿も気付いただろう。
「秀太子は流石に本当にお強いんです。真剣に向かっていっても勝てるかどうかはわかりません」
佑崔が言うと、黙って聞いていた昊尚が、なるほど、と頷く。
「佑崔よりも強いということを示して、自分を理淑殿の新たな目標にすげ替えようと思われたか……。秀太子も佑崔に勝つ自信があるんでしょう。だからあのような提案をされたのかもしれません」
壮哲が首を傾げる。
「……しかし……そうだとしても、そんなに単純なものか? 仮にも妃として望んでる相手に対して、そんな剣だけで……」
「いえ、秀太子ならばそう考えたとしても、私は不思議だとは思いません」
この中で騎駿を最も知っているのは昊尚だ。だからそう言った昊尚に断固として反論ができる者はいなかった。
壮哲は困ったように首を摩ると、佑崔に言った。
「……まあ、結局は理淑の意志に任せると言っているし、理淑が秀太子について行くと言うとは思えないが……。一応佑崔もこういう状況だということは気に留めておいてくれ」
「……わかりました」
頭を下げながら、佑崔は鍛錬場で去り際にちらりと見た理淑の顔を思い出していた。
口を尖らせた不満げな顔。
恐らく佑崔が騎駿との手合わせで、故意に負けたことに気付いたからなのだろう。
佑崔は小さく溜息をついた。
*
皇城の回廊を、宗正卿がせかせかと自身の執務室へと歩いていた。
しかし、ふと足を止めて遠くに見える人影をじっと見つめた。
あれに見えるは、甥であり主でもある壮哲がべた惚れの、この上なく美しいかの国の公主ではないか。
宗正卿は方向を変えて小走りにその姿を追った。
「芳公主様」
満面の笑顔で呼びかけると、振り返った顔はやはり蒼国未来の王妃の月季だ。
しかし一瞬戸惑ったように宗正卿を見て瞬きをした。
「お忘れですか? 宗正卿の秦敬克です」
何度か顔を合わせたはずなのに覚えられてないのか、とほんの少しだけ落胆しながら拱手する。しかし、
「もちろん覚えています」
華やかな微笑みを向けられて、つい頬を赤らめた宗正卿が気を取り直して聞いた。
「本日、いらっしゃるご予定でしたか」
来るということは聞いていない。しかし、月季は時として大国の公主らしくなく、前触れもなくやって来ることがある。
「ごめんなさい。突然来てしまって」
「いいえ。とんでもない。陛下も喜ばれます」
宗正卿は初め、紅国の公主との縁談は、完全に壮哲が蒼国のためを考えての政略的なものだと思っていた。昊尚に、壮哲は月季にべた惚れだ、と言われても半信半疑だった。しかし、何度か二人が一緒にいるところを目にするうちに、それが本当だったと判り、叔父としても嬉しく思っている。
壮哲に会いたいと思って月季がわざわざ来てくれたのだろう、と思うと自然と頬も緩むというものだ。
「その護衛の方はいつもの方と違いますね」
ちらりと背後に立つ護衛を見る。いつも月季に付き従っている誠実そうな若者ではなく、少し年配の男だった。
「ええ」
「あの方はどうかされたのですか?」
宗正卿が言うと、戸惑ったように横を向いた。
「少し体調を崩してしまったようで。だから代わりの者を連れて来たの」
「左様でしたか。早く良くなるといいですね」
「そうね」
「陛下のところへおいでになるのならばご案内しましょうか?」
「ええ。お願いするわ」
美しい未来の王妃を案内する栄光を得て、宗正卿はほくほくとしながら応接室へと一行を送り届けた。そして何度も挨拶をして名残惜しそうに去っていった。
後を任された事務官は、椅子を勧めながら申し訳なさそうに言った。
「陛下は今、会議中で……。少しお待たせしてしまうと思います」
「構わないわ」
優雅に椅子に腰掛けた優しげな微笑みが事務官に向けられた。
「お忙しいのね」
「はい。ご婚姻の準備もありますし」
「そうよね。私も待ち遠しいわ。……そういえば……紫の青玉を私にくださると聞いたのだけど、どんなものなの?」
事務官は、ああ、と微笑んで答えた。
「とても大きくてそれは見事な青玉でした。私にも見せてくださったのですが、あのように立派なものは初めて見ました」
「そう。……羨ましいわ。私も早く見たくなってしまったわ。見られるかしら」
「陛下におっしゃっていただけば見せてくださると思います」
「そうなのね。どこかに仕舞ってあるの?」
「あ、はい。陛下のお部屋に大切に保管してあると思います」
すると、美しい顔が俯き遠慮がちに呟いた。
「待っている間に見たいのだけど……」
「それは……」
事務官が困った顔で口籠る。
「駄目かしら……」
上目遣いに見られて事務官は顔を赤らめ動揺したが、改めて頭を下げた。
「申し訳ありません……。私では何とも……」
「そうなの? 何とかならない?」
ゆるりと立ち上がる気配がして、事務官の肩に手が置かれた。事務官の心が揺らぐ。
しかし、事務官はその動揺を振り切るように再び深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
すると肩に置かれた手は離れ、残念そうな声が聞こえた。
「そうよね。ごめんなさいね。無茶を言って。大人しく陛下をお待ちするわ」
事務官は、ほっと息を吐くと、お茶をお持ちします、と部屋を後にした。
「月季殿、待たせた」
月季が待っていると聞いた壮哲が応接室へ入って声をかけると、美しい姿が振り向いた。
「元気だったか?」
「ええ。貴方も、お元気でした? とてもお忙しそうね」
「ん? ああ。大事ない。……何だか今日はやけに殊勝な感じだな」
壮哲が笑う。
「……だって久しぶりに会えたのだもの……」
恥ずかしそうに俯いた姿に壮哲が歩み寄る。
「今日は何か用事でもあったのか?」
「いいえ。貴方に会いたくて来たの」
壮哲が目の前に立つと、その胸にしなやかな身体が寄り添った。
ふわりと甘い香りが壮哲を包む。
「……どうした……? 珍しいな」
壮哲が細い肩に手を置くと、ふふ、とくすぐったそうな笑い声を漏らして、頬を壮哲の胸に押し付ける。
そして甘えるように囁いた。
「そういえばね……。さっき、事務官の方から紫の青玉のことを聞いたのだけど……とても見てみたくなってしまって……。私にも見せてくれる?」
「ああ。もちろん」
「嬉しい……」
そう言いながら頬を擦り寄せる細い身を壮哲がそっと離すと、見上げてきた潤んだ瞳がゆっくりと閉じられた。
壮哲は少しの間、その美しい顔を見つめていたが、誘われるように引き寄せられていった。
甘い香りが壮哲を更に手繰り寄せる。
そのまま唇が触れる。
——かと思われた。
が。
「……其方、誰だ」
壮哲の口から出たのは冷ややかな声だった。壮哲の手が置かれた細い肩がぴくりと揺れる。
「いやだわ。婚約者の顔を忘れてしまったの?」
目を開けた薔薇を思わせる華やかな顔が、この上なく艶やかに微笑んだ。