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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −白及の巻−
177/192

二年季冬 雉雊 4



 藍公の執務室横の応接室。昊尚が客人と向かい合って座った。


「お会いするのは、受叔の騒動の直後以来でしょうか」

「そうですね。納采の儀の折にはお会いできませんでしたからね」


 和やかに挨拶を交した客人は、紅国王の側仕えの郭文陽である。


「今日は一人なんですね」

「ええ」


 凪いだ空気を纏うように、静かに微笑むこの男が昊尚を訪ねてくるのは大抵、紅国王の慧喬がお忍びでやってくる時だ。その際は、文陽が大店の主人、慧喬はその供の者という役まわりであるが、今日は普通に紅国の官として面会を求めてきた。


「実は、少しお耳に入れておいた方がいいと思うことがありまして伺ったのです」

「何でしょうか?」

皙国(せきこく)のことです」


 文陽が静かな目で昊尚を見て続ける。


「こちらでは皙国との関わりは如何ほどでしょうか」


 本題に入る前に尋ねた。

 皙国は正式名称を綾皙(りょうせき)国という(りょう)氏の治める国だ。凌氏を加護するのは嫘祖(るいそ)神。養蚕の女神である。それにより、皙国では養蚕と絹の生産を盛んとしている。紅国の北西の高い山々を越えるとたどり着く小さな国で、蒼国とは国境を接していない。

 昊尚が文陽の意図を探るように答える。


「遠方の国ですので頻繁に行き来ができないこともあって、紅国ほどの交流はありません。……ただ生糸の輸入は継続的にしています。何しろ、皙国の生糸は上質のものですので。あとは……絹、特に皙布(せきふ)の購入をある程度します」


 皙布とは皙国特産の絹織物のことで、輝くような純白の最上級の絹布である。それは嫘祖神の加護下の皙国でしか生産することができない希少品のため、手に入れるには皙国から購入するしかない。蒼国でも絹織物を生産しているが、皙布を超えるものはない。

 文陽が昊尚の言葉にゆっくりと頷く。その穏やかな目を真っ直ぐに捉えて昊尚が付け加えた。


「最近あまり情勢が良くないようだ、ということは耳にしています」


 喜招堂の明遠から、皙国への入国が以前より厳しくなったことを聞いていた。どうやらその原因は、魁族にあるらしい、ということも。

 大陸の北に勢力を持つ騎馬民族の魁族は、豊かな南方への侵略を長らく目論んでいた。しかし、北辺を守護する武神、玄天上帝の加護を持つ秀氏の墨国が侵入を許さず、その南下を阻んできた。つい最近、魁族の首長が代替りをしてからは、墨国を闇雲に侵略するという方針を変更したのか、今のところ墨国とは小康状態を保っている。そのことが皙国に何か影響を及ぼしているのかもしれない。


「ええ。既に耳にされているかもしれませんが、皙国に対して魁族が気になる動きをしているようなのです。皙国は魁族の版図と接してはいますが、元々、皙国は周りを高い山々に囲まれた要塞のような国です。幾重もの険しい山に阻まれてこれまで魁族が攻めてくることはありませんでした。しかし、どうも最近、魁族が皙国に入り込んでいるようなのです」

「墨国に侵略するのを諦めて、皙国を狙うつもりなのでしょうか」


 昊尚が聞くと、文陽が頷く。


「可能性はあります。何にせよ、皙国は危機感を覚えたようで兵力の増強に力を入れ始めたのです」

「自衛のための補強ですね」

「ええ。そのとおりです。それ自体、問題はありません。しかし……」


 文陽が首を振った拍子に、首にかけた亀甲形の首飾りが揺れる。


「……私が危惧しているのは、最近、皙国の軍関係らしき者が謐の郷を探し回っているらしい、ということなのです」

「……まさか」


 穏やかな瞳に暗い影が落ちる。


「……そうです。間諜としての人材を求めているようなのです。まさしく、我々が隠れ住むようになった原因です」


 謐の郷というのは、並外れて耳の良い人々の住む集落である。この文陽も謐の郷の出身だ。

 その郷は音のない玄海の端にある。並外れて耳の良い人々にとって、玄亀の耳飾りを付けていない時の範玲と同じく、音の多い世界では暮らし辛いからだ。

 しかし、隠れるように玄海へ居所を移した理由はそれだけではない。

 過去、謐の郷の人々は幾度も間諜として利用するために為政者に捕えられたり、子どもが攫さらわれたりした。玄海に隠れ住むようになったのは、その脅威から逃れるためでもあったのだ。


「あからさまに警戒を示すことは、却って謐の郷の存在を喧伝するようなものです。ですから、玄海に守られているのでそうそう簡単には見つからないとは思いますが、謐の郷には紅国から兵士を数人派遣してもらいました」


 そう言うと文陽は眉を顰めて聞いていた昊尚を見た。


「もうお察しになっているようですが……念の為、夏県主様にもお気をつけくださいますように、と伝えに参ったのです」


 範玲の耳のことを知っているのは、ごく限られた者だけだ。しかしかつて長古利が気付いたように、わずかな綻びから秘密が漏れることもある。

 皙国の者が範玲に目をつける可能性は皆無ではない。

 昊尚は苦いものを噛んだような顔で、深々と頭を下げて言った。


「お知らせくださり、ありがとうございます」

「いいえ。人ごとではありませんから」

「こちらも何か情報を掴みましたらお知らせします」


 文陽は、ええ、と静かに答えると、ふと何かを思い出したように聞いた。


「夏県主様の母方の姓は何とおっしゃるのですか?」

「確か、粛氏です」

「粛……」


 文陽が考えるように思慮深い瞳を伏せる。


蒼国(こちら)の古くからのご家系ですか?」

「ああ、いえ、建国からの家系ではないはずですが……それが何か?」

「いえ、大したことではありません。……すみません」


 そう言って気を取り直したように穏やかに微笑み、話を変えた。


「そういえば、墨国の秀太子のお姿をお見かけしたような気がしたのですが、いらしてるんですか?」

「ああ、はい。そうなんです。先ほど前触れもなく」


 昊尚が苦笑いを漏らす。


「ただ、陛下が今取り込み中なので、秀太子にはお待ちいただいているところです」

「実は、秀太子は月季様へのお祝いをわざわざ我が国へ届けてくださったのですよ。その秀太子をお見送りしたばかりだったので、お姿を見かけて少し驚きました。紅国からその足でいらしたようですね」

「そうでしたか。秀太子自ら……。まあ、それほど魁族との情勢も落ち着いているということなのでしょうね。蒼国(こちら)にいらっしゃった用件はまだお聞きしていませんが」


 昊尚は騎駿の不機嫌そうな強面を思い浮かべた。







 鍛錬場での打ち合いが一段落して、理淑が袖で無造作に顔の汗を拭っていると、頭上からぐえっぐえっという甲高い声が聞こえてきた。


「ん?」


 空を見上げると、小ぶりの梟がぐるぐるとその場で旋回している。それを目をすがめてじっと見つめる。


「もしかして……?」


 理淑が「おーい」と手を振ると、それに応えたように梟が下降してくる。腕を差し出してみると、小さな梟はばさばさと羽ばたきながらそこに落ち着いた。

 腕に止まった梟を覗き込んで、理淑がぱっと顔を輝かせた。


「やっぱりそうだ! 久しぶりだね!」


 声をかけると、愛嬌のある顔で小金目梟が理淑を見上げた。


「夜雨、だったよね」


 ふかふかの頭を撫でると、気持ちよさそうに夜雨はきょろりとした目を閉じた。


「どうしたの? ひとり?」


 言いながら辺りを見回すと、背の高い黒ずくめの男が鍛錬場へ向かってくるのが見えた。

 打ち合いをしていた兵士たちも、不審と緊張を孕んだ視線で男に注目する。

 しかし男はその緊張感の中、長い足で大股に平然と近付いてくる。


「秀太子ではありませんか」


 鍛錬を監督していた曹将軍が男に声をかけた。

 黒ずくめの怪しい男は墨国の太子、秀騎駿だった。


「どうされましたか」


 拱手をして曹将軍が聞くと、騎駿は理淑の方へと視線を置いたまま言った。


「いや、鍛錬中にすまないな。私の連れが邪魔してるようだ」


 そして低い声で呼んだ。


「夜雨」


 呼ばれて小金目梟は首だけそちらの方へと向けたが、理淑の腕に止まったままだ。

 理淑が騎駿に向かってぺこりと頭を下げると、騎駿は理淑の前にやってきた。


「夜雨は夏県主が気に入ったようだな」

「そうなんですか?」

「私以外の者に触らせるのすら珍しいんだが、其方は特別のようだ」

「えー。それは光栄」


 理淑が笑いながら夜雨の首の辺りをくすぐるように撫でる。夜雨は目を閉じてされるがままにしている。


「この子、この間もそうだったけど、明るいうちにも行動するんですね」

「ああ。私が出かけるのにもいつもついてくる」

「いいなあ。すごい馴れてるんですね」


 羨ましそうに夜雨を撫でる理淑を観察するように見ていた騎駿だったが、腕を組むと言った。


「夏県主」

「はい?」

「墨国に興味はないか?」


 理淑が夜雨を撫でる手を止めて騎駿を見上げる。

 無意識に威圧しているようになる眼差しにも、特に臆することなく理淑が答える。


「墨国って、北の方の国ですよね。馬がたくさんいる」

「そうだ。野生の馬も多くいる。群れになって駆けていく景色は圧巻だ」

「それは見てみたいかも!」

「そうか。それは好都合」


 騎駿が意味ありげに頷く。


「ところで、夏県主は禁軍に所属しているんだな」

「はい。左羽林軍です」

「先ほど打ち合いを少し見たが、なかなかの腕前のようだ」

「そうですか? ありがとうございます。でもまだまだです」


 理淑が照れて頭を掻く。


「私と手合わせしてみないか?」

「え? いいんですか?」


 理淑が驚いて顔を上げる。


「武の国の墨国の太子になるには、物凄い腕前が必要と聞きました。そんな方と手合わせしていただけるなんて嬉しいですけど……」


 理淑が許可を求めるように曹将軍を窺い見る。騎駿がその理淑の視線の先へと顔を向けた。


「夏県主と手合わせをしてもよいか」


 騎駿の口から出たのは許可を求める台詞だが、口調は決定事項の伝達である。曹将軍は理淑の期待に満ちた顔に少し顔をしかめて見せてから、よろしいですよ、と承諾した。

 騎駿が「夜雨」と名前を呼ぶと、小さな梟は今度は理淑の腕から飛び去って鍛錬場の柵に移った。


「では、参ろう」


 騎駿が鍛錬場へと足を踏み入れると、それまで理淑と騎駿のやりとりに手を止めて注目していた兵士たちが、場所を空けるように退いた。武の国の太子の剣が見られるとあって、兵士たちは興味津々だ。

 皆に見守られながら、理淑と騎駿が向かい合う。華奢な理淑と大柄な騎駿が向かい合う姿は、子どもが大人に挑んでいるように見えた。

 しかし理淑はいつもどおりに気負うことなく細身の剣を構える。すると、騎駿も腰に佩いた長い剣をすらりと抜いた。


「お願いします」


 理淑の声に騎駿が頷いた。





「なかなかの腕前だ」


 剣を仕舞いながら、騎駿が何故か満足げに言った。


「……全然です。……悔しいけど、秀太子は流石、強いですね……!」


 理淑は桃のような頬を上気させて、悔しがりながらも楽しそうだ。

 結局、理淑は騎駿から一本も取ることができなかった。騎駿はというと、初め防戦一方に見えた。しかし、極めて冷静に理淑の動きを捉え、決定的な攻撃を許すことはなかった。一転、後半は騎駿から仕掛けていった。理淑は小柄なことを活かしつつ、俊敏に攻撃の剣を躱し続けた。最後、低い位置から懐に飛び込んだ理淑の剣がもう少しのところで騎駿に届くというところで、剣を払われて終わった。

 息を整えようとして大きく深呼吸をする理淑を、騎駿は冷淡に見える切れ長の目で見つめた。

 そして、手合わせを提案した時と同じ温度で言った。


「夏県主、私の妃にならぬか」




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