表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −白及の巻−
175/192

二年季冬 雉雊 2



 辺りが薄暗くなる夕暮れ時。秦家の屋敷の外門近くに二つの人影があった。

 仕事帰りの梨泉を乗せた車が門に近付くと、一つはその場を離れて行ったが、もう一つはそのまま、車を迎えるように立っている。

 梨泉が門に付けた車から降りたのを見計って、女が近寄って来た。


「うちに何かご用でした?」


 梨泉が声をかけると、女は深々と頭を下げた。


「突然ご無礼をお許しください。……私……田秋玉と申します」


 頭を下げたまま、女が言った。




 梨泉は秋玉を屋敷へと招き入れ、純栄が数日前に敬安と話をした部屋へ通した。

 縹公はまだ帰っていない。杏湖は純栄のところに行くと言っていたから、今対応できるのは梨泉一人だ。


 梨泉は秋玉と差し向かいに座ると、遠慮のない視線を向けた。


 自分よりも若そうだが、着ているものは随分と地味だ。顔立ちも印象が薄い。一度会っただけでは、次に人混みですれ違ったとしても気付かないかもしれない。


 そんなことを考えながら、しばらく秋玉が口をひらくのを待っていたが、一向にその気配がないので諦めて梨泉の方から切り出した。


「あなたがあの子を連れて来てくださったのね」

「あ……はい」


 秋玉は顔を強張らせて小さく頷く。


「はぐれてしまったとあの子が言っていたから、心配していたんですよ」


 顔を伏せたままの秋玉にちくりと嫌味を言うと、秋玉は膝につきそうなほど頭を下げた。


「申し訳ありません……。敬安に……お別れを言うのが辛かったので……」

「……やっぱり、故意にあの子だけを置いて行ったのね」


 梨泉が美しい眉を顰める。


「……申し訳ありません……」


 顔を伏せたまま消え入りそうな声で謝る秋玉に、梨泉が聞いた。


「……じゃあどうして、戻って来たのですか?」


 ぎゅっと膝の上で手を握り、ぽつりと秋玉が言った。


「……やっぱりどうしても……心配になってしまって……」


 梨泉が首を傾けて無言で秋玉を見る。

 秋玉はまるで裁きを言い渡されるのを待つように、身じろぎもせず俯いたままだ。

 敬安が秦家の子ではないと判明したことは、まだ本人には言っていない。

 この目の前の女性は、敬安が本当は秦家の子ではないということを承知の上でやってきたのだろうか。

 つい聞きたい衝動に襲われるが、相手の意図が見えるまでは、こちらが知っていることを明かさない方がいいだろう。

 梨泉は、小さく溜息をついた。


「……まあ、いいわ。あなたにもお聞きしたいことがあったから、来てくれてよかった」


 おずおずと顔を上げた秋玉に梨泉が尋ねた。


「まず。貴女はあの子とはどういった間柄なの?」


 秋玉は再び顔を伏せて話し始めた。


「……私は朱国の首都……寧豊の、蝶夢苑という戯場で働いていました」


 朱国の戯場については、ちょうど帰る前に壮哲から聞いていた。敬安の母親がいたのは蝶夢苑ではないかという推測は当たっているようだ。


「あの子の母親もその蝶夢苑にいたのね?」

「はい。そうです」

「貴女は……あの子の母親の同僚ということ?」

「同僚……というか、私は戯場の下働きでした」


 秋玉が膝の上で握った手に視線を置いたまま続ける。


「暁明姐さん……敬安の母親は蝶夢苑の舞姫でした。舞台に立っている間、赤ん坊の頃から敬安の面倒を見ていたのは私なんです」

「あの子の母親は太楽で舞人をしていたと聞きましたけど、辞めて蝶夢苑というところで働いていたということね?」

「はい。おっしゃるとおりです。暁明姐さんは太楽を辞めた後、頼れる人もなく一人で敬安を産んだそうです。しばらくは貯えで暮らしていたようでしたが……半年経たないくらいには、蝶夢苑にいました」

「そう……」


 梨泉の相槌の声が物憂げになる。

 一人で赤ん坊を抱えて生活するのは、さぞかし大変なことだっただろう。

 彼女の嘘で混乱させられていることを差し引いても、同情するに余りある。


「それからその蝶夢苑で舞手としてずっと働いていたのね」

「はい。……今年の立夏の頃に……病で……亡くなるまで……」

「立夏……?」


 梨泉が思わず聞き返した。

 立夏の頃ならば、もう八か月も前のことだ。母親が亡くなってすぐに訪ねて来たのではないということになる。


「母親が亡くなった後、あの子はどうしていたの?」

「……敬安のことは……暁明姐さんに頼まれていましたので私が引き取りました……」

「あの子を引き取るほど親しかったの?」


 見たところ、秋玉自身まだ若い。他人の子を引き取って育てるというのは並大抵のことではないだろう。


「暁明姐さんには本当にお世話になりましたし……敬安は……小さな頃から面倒を見ていたので……」


 俯いた秋玉の表情はよく見えない。


「……じゃあ、それなのにどうしてここへ連れて来たの?」


 梨泉の言葉に、秋玉がぽつりと言った。


「……敬安の……あの子の父親が蒼国の縹公様だということは、暁明姐さんから聞いていました」


 梨泉が返事をしないでいると、秋玉が先を継いだ。


「……敬安は、私にとって家族も同然でしたし、私が引き取るのは当然のことだと思っていました。……でも……朱国が武恵様に代替わりをすると、蝶夢苑は続けていけなくなって……」


 当時主な顧客だった澄季妃がいなくなり、廃業に至ったと聞いている。


「しかも武恵様が王になられても……国は安定しないままで……生活は苦しくなるばかりでした。……何の取り柄もない私が暮らしていくのは……大変でした……」


 黙って耳を傾ける梨泉へ、独白のように秋玉が語る。


「それでも、二人、食べていくだけなら、何とかなるだろうと思っていました。でも……敬安は縹公様の高貴な血を引いています。なのに……このまま私と一緒にいても、貧しい生活しかできません。……それは……あの子のためにはならないのではないかと……」


 そこまで言うと秋玉は声を詰まらせた。


「それで、うちに連れて来ることにした、というわけね」


 梨泉が後を引き取ると、秋玉は俯けた顔を更に伏せた。


 梨泉は悲しげな秋玉の肩をじっと見ていたが、大きく息を吸って首を振った。

 敬安が秦家の子ではないことは判っているのに、つい話に引き込まれてしまっている自分に気付く。

 梨泉は冷静になることを自らに言い聞かせて尋ねた。


「あの子がうちの父の子だというのは確かなことなの?」

「暁明姐さんが……そう言っていました……」

「じゃあ、どうして訪ねてこなかったのかしら」

「……それは……縹公様はご存知ないことだから、と……言っていました。姐さんは一人で敬安を育てるつもりだったんです」

「でも、周りの人たちは、蒼国に行くように言わなかったの?」

「姐さんは、そのことを周りには言わなかったんです。蝶夢苑でも知っていたのは私くらいだったはずです。……敬安自身にも他の人には言わないようにと口止めをしていました」

「そう……」


 そもそも縹公が父親ではないのだから、大っぴらには言えなかったのだろう。

 そう思ったがそれは口には出さず更に聞いた。


「暁明さんは、どうやってうちの父と出会ったと言っていました?」


 秋玉はちらりと梨泉を見て、言いにくそうに言った。


「……暁明姐さんは、太楽にいた時、賓客の方のおもてなしの席なんかによく出ていたそうです。武恵様のご結婚のお祝いの席でも踊ったそうで……その際に縹公様と……その、お会いした……と言っていました」

「あの子はその時の子、ということね」


 事務的な梨泉の言い方に、秋玉が遠慮がちに小さな声で、はい、と答えた。


 敬安の母親と縹公に接点があったということは、確認済みの事実だ。

 今までの会話からは、秋玉が嘘をついたり、敬安が縹公の子ではないと知っているという確証は見つけられていない。

 秋玉は本当にただ、敬安を縹公の子だと信じて、敬安のことを思って連れて来ただけなのだろうか。

 しかし、敬安の母親が我が子を託すほどに信頼していた秋玉に、本当のことを話していないということがあるだろうか。

 梨泉には判断がつかなかった。

 細い指を頬に当てて溜息をつくと、梨泉はとりあえず結論を保留することにした。


「あの子を連れて来てくださった経緯はわかったわ。貴女も大変でしたね」


 労わりの言葉をかけると、秋玉は、いえ、と小さく応えた。

 そして消え入りそうな声で訴えた。


「……あの……敬安に……もう一度、会わせていただけないでしょうか」

「貴女があの子を一人置いて行ったのに?」

「……それは……本当に……申し訳ありません……。後悔してるんです……。やっぱり、ちゃんと顔を見てお別れを言いたくて……」


 肩を震わせ、頭を下げた秋玉は、見ている方の胸が痛むほどに哀れだった。

 梨泉は何度目かの溜息をつくと、「ちょっと待ってらして」と席を立った。





 連れてこられた敬安は、秋玉の姿を見るなり、走り寄って抱きついた。敬安が秋玉に懐いているというのは間違いないらしい。


「黙って行ってしまってごめんね」


 涙混じりの慈しみ深い声で言って秋玉が敬安を抱きしめ直す。敬安は抱きついたまま無言で首を振った。

 秋玉のことはまだ信じ切れてはいないが、父親も知らず、母親にも先立たれ、小さな子どもが過酷な状況にいるというのは事実だ。

 どうするのがまだ幼いこの子にとって、一番良いことなのか。

 梨泉は抱き合う二人を見て考えていた。

 すると、


「……あの……本当に……こんな我儘を言うのは、本当に、厚かましいことだとわかっています……」


 敬安を抱きしめていた秋玉がおずおずと梨泉を見た。

 言い淀む秋玉に先を促すように梨泉が首を傾げると、震える声で言った。


「……やっぱり……敬安は……私に引き取らせていただけないでしょうか……」


 意外な申し出に梨泉が目を見開く。


「……ここへ連れて来たのは貴女なのよ?」

「……勝手なことを言って……本当に……申し訳ありません……」


 涙を浮かべた目で秋玉が梨泉を見上げる。


「やっぱり敬安は……私のたった一人の家族なんです……」

 

 梨泉は初めてしっかりと向けられた瞳を見返して、大きく溜息をついた。


 このまま、訳のわからないまま敬安を帰すわけにはいかない。


 梨泉は困ったように首を傾げると言った。


「とりあえず今日は、このままうちにいらっしゃい」

「でも……もう敬安と離れているのは……」

「安心して。貴女も一緒によ」

「……え?」


 予想していなかったのか、秋玉がぽかんと梨泉を見る。


「実は母が敬安さんのことをとっても気に入ってるみたいなの。今、少し出掛けているけど、明日、母を呼び戻してくるからそれまではいらして。それからお話ししましょう」


 梨泉が言うと、そうなんですか、と秋玉が小さく呟いた。







「梨泉様!」


 翌朝、侍女がばたばたと梨泉の部屋にやって来た。


「何? 朝から騒がしいわね」


 髪を結われている最中の梨泉がちらりと目だけ遣ると、侍女は、申し訳ありません、と謝りつつも慌てた様子で言った。


「例のお子とその連れの方がいません」


 告げられた言葉に、梨泉が思わず振り返る。


「いないってどういうこと?」

「わかりません……。朝餉の準備が整ったのでお部屋に伺ったのですが、どこにもいないんです……!」


 狼狽える侍女を梨泉はまじまじと見た。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ