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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −白及の巻−
173/192

二年季冬 雁北郷 4



 翌日の午後。理淑は曹将軍からの書類を葛将軍の執務室へ届けて詰所へと戻る途中、ふと足を止めた。


「理淑さまー」


 周りに目を凝らすと、名前を呼びながら走ってくる小柄な女子と、その後にのんびりと従う体格の良い男が目に入る。

 走っているのはどうやら礼晶だ。懸命に走っているのは伝わってくるが、なかなかその距離が近くならない。


「おーい」


 理淑が手を振り待っていると、ようやく目の前にたどり着いて、息を切らしながら頭を下げた。


「あの……兄が……申し訳ありません……でした……!」


 胸を押さえて息を整えながら続ける。


「ちゃんと……私が……説明しなかったから、兄が……大変失礼を……。本当に……すみません……!」

「大丈夫ですよ」


 ひどく恐縮する礼晶を理淑が笑顔で宥める。

 先ほど英賢に会った時に聞いた話によると、今日の朝一番に経史が英賢の部屋に来て昨日のことを平謝りに謝ったらしい。


「それより手は大丈夫ですか?」


 理淑が話題を変えると、礼晶は顔を上げて両手を広げて見せた。


「はい。平気です」


 それを確認すると理淑が聞いた。


「その……剣の稽古はまだ続けて大丈夫ですか?」

「もちろんです!」

「……お家の方達は反対してませんか?」

「実は……父や兄達には反対されました。でも、頑張って説得しました!」


 嬉しそうに身体の前でぎゅっと手を握り拳をつくる。


「それで、兄が皮の手套(てぶくろ)を用意してくれたので、もっと素振りもできます!」

「そうですか。よかった」


 理淑が微笑むと、礼晶が、あ、と理淑の肩越しに何かに気付いて小さく声を上げた。

 礼晶が口に手を当てて見る間に頬を染める。理淑が振り向くと、佑崔がこちらに向かって歩いて来るところだった。


「理淑様。曹将軍は詰所においでですか?」


 佑崔が理淑のすぐそばまで来て聞いた。礼晶がいるのに気付いて会釈をする。


「うん。いるはずだよ」

「そうですか。壮哲様の執務室へお越しいただきたいのですが」

「これから詰所に戻るので、伝えましょうか」

「お願いしていいですか?」

「いいですよ」


 理淑が頷くのを確認すると、佑崔は礼晶の方を向いた。


「そう言えば、先日は母が何かお使い立てをしてしまったようで、申し訳ありませんでした」


 頼んでもいない荷物を母親が礼晶に届けさせたことを詫びて佑崔が頭を下げると、礼晶が恐縮したように手を振る。


「全然、そんな!」


 佑崔は顔を上げると聞いた。

 

「ところで……お二人はお知り合いなんですか?」

「そうなの。同志なんだよ」

「同志?」


 理淑の答えに佑崔が怪訝な顔をする。

 その顔を見て理淑が、へへ、と笑うと、礼晶が嬉しそうに言った。


「理淑様に剣を教えていただいているんです」


 佑崔の顔が驚いたものに変わる。


「え? 何故、剣を?」

「それは……あの、私も剣を使えるようになりたくて」

「……そうなんですか……」


 そう呟くと、何か言いたげに理淑を見た。


「あ、ちゃんと危なくないように気を付けるから」


 理淑が先回りをして言うと、佑崔は眉を顰めただけに止めたが、礼晶には念を押すように言った。


「兄君が心配されますから、礼晶殿もくれぐれも怪我などしないようにお気を付けください」


 言われて礼晶が背筋を伸ばす。


「あ、はい。くれぐれも気を付けます」


 神妙に返事をする姿に佑崔が笑みをこぼし、理淑には曹将軍への伝言を再度頼んでその場を後にした。

 立ち去るその背中を二人で見送っていると、礼晶が、ほお、と溜息をついた。


「お話をしてしまったわ……」


 呟いた礼晶は、赤く染まった頬に手を当てて、うっとりした瞳をきらきらと輝かせていた。

 しかしはっと我に返り、慌てて頭を下げた。


「お急ぎのところすみませんでした」

「ううん。じゃあ、また」


 理淑が笑って言うと、礼晶は嬉しそうに頷いて、侍従を引き連れて再び走りだした。

 しばらくの間、理淑はゆっくりだけれど一生懸命に走っていく礼晶を見ていた。

 けれどその姿が見えなくなると、


「あ、そうだった」


 佑崔から頼まれたことを思い出したように呟いた。




 理淑が詰所へ着くと、戸口付近で、兵士の詰所では見慣れない梨泉がうろうろと行ったり来たりしていた。


「梨泉様、どうしたんですか?」


 声をかけられて振り向いた顔が理淑を見て気まずそうなものになる。

 常に毅然とした態度の梨泉にしては珍しい。

 しかし梨泉は咳払いを一つすると、いつもの堂々とした声で聞いた。


「葛将軍はいるかしら」

「葛将軍なら、さっき執務室にいましたよ」

「そう……」

「何かご用でしたか?」


 理淑が聞くと、梨泉は苦笑いを見せた。


「ええ。少しね」







 梨泉は葛将軍の執務室の前まで来ると、大きく息を吸った。そして胸を軽く叩いたあとに息を吐ききり、背筋を伸ばすと、部屋の中へと(おとな)いの声をかけた。


「どうぞ」


 葛将軍の低音の深く響く声が返ってきたのを確認して、梨泉は室内へと足を踏み入れた。


「……お久しぶりです……。秦梨泉です」


 梨泉が優雅に頭を下げると、葛将軍が執務机からがたりと立ち上がった。


「……これは、珍しい。どうされました」

「お忙しいところ申し訳ありません。少しお時間をいただいてもよろしいですか?」

「もちろんです」


 そう言って葛将軍が執務机の前にある卓を指し示す。


「よかったらお掛けください」


 梨泉は促されるまま椅子に腰掛けた。


「こちらこそご無沙汰をしております。お元気でしたか」


 向かい側に座った葛将軍の落ち着いた声が梨泉に真っ直ぐに届く。


「はい」


 梨泉は短く答えると、伏せていた目線をゆっくりと上げた。しかし視線の先を葛将軍の胸元に当てて目を合わせないまま切り出した。


「……突然伺って申し訳ありません。葛将軍……に、お聞きしたいことがあるのです」

「何でしょうか」


 低音の響く声につい引き寄せられた視線は、葛将軍の朽葉色の瞳と出合った。しかし梨泉は何事もないようにゆっくりと目を逸らす。


「……昔のことなので、お忘れかもしれません……。九年前、朱国の武恵様のご婚姻のお祝いに、うちの父が縹公として行ったのに将軍も随行されたと聞いたのですが、覚えていますか?」

「確かに随分前ですね」


 葛将軍は不思議そうに梨泉を見る。


「……でも、覚えていますよ。武恵様のご婚姻のお祝いにはお供いたしました。ちょうど左羽林軍に所属していまして、当時の将軍と一緒でした。……それが何か……?」

「……その時のことなのですが、祝賀の宴の後で具合の悪そうな舞人の方を介抱しましたか?」


 唐突な質問に、葛将軍が記憶を探るように考え込む。

 それを梨泉がそっと窺い見る。


「……ああ、ええ。宴の後と言うか、宴の途中で縹公がご不浄に立たれた際に、中庭で蹲っている女性を見つけまして、縹公が声をかけられました。その人は確かに宴で舞を披露された方でしたね」

「……その……声をかけた後、うちの父がどうしたかご存知ですか?」


 要領を得ない言い方に葛将軍が僅かに首を傾けた。


「どうしたか……ですか? すみません。それはどういう……何をお知りになりたいのでしょうか」


 葛将軍が少し前屈みになり、梨泉を覗き込む。

 もどかしい会話に我慢できなくなり、梨泉は観念したように大きく息を吐いた。


「……恥を承知で言ってしまいますわ。実は、先日、うちに父の隠し子だという子が訪ねてきたんです」


 予想外の告白に葛将軍が目を瞬かせる。

 それをちらりと梨泉が見る。


「その子は……父、と、九年前の武恵様のお祝いに伺った際に……祝宴で踊った舞人の女性との子だと言うのです」


 言いにくそうに言って俯くと、言い訳をするように早口で続ける。


「父は具合が悪くなったその女性を介抱しただけ、と言うのですけど、沢山御酒を飲んでいたみたいですし、当事者の父が違うというだけで証拠がなくて。父がその時に将軍が一緒にいらっしゃったというから、恥を忍んで伺いにまいりましたの」


 葛将軍は、形の良い眉を顰めながら卓の一点を見つめて話す梨泉をじっと見守っていたが、おもむろに、なるほど、と頷いた。


「そういうことでしたか」


 そして、ふ、と笑う。


「では、その子は敬伯様のお子ではありません」


 はっきりと言い切った。


「本当ですか?」


 思わず梨泉が顔を上げて葛将軍の目を見る。


「はい。断言できますよ」


 梨泉と目が合った葛将軍の目尻が僅かに緩む。


「どうして断言できるのです?」


 梨泉は葛将軍とは目を合わせるのを避けていたが、それどころではなくなった。ここまではっきりと明言されると、葛将軍が縹公を庇って、真実を言っていないかもしれないという疑いが生まれたからだ。

 その真否を見極めるように朽葉色の瞳をじっと見つめる。

 気の強そうな縹色の瞳を向けられ、葛将軍はつい微笑んだ。


「なぜなら、その時すでに、その舞人の女性は身ごもっていたからです」

「え……?」

「具合が悪くなったのはそのせいだったんです」


 ぽかんと梨泉が葛将軍を見返す。


「敬伯様が長く宴の席を空けるわけにはいきませんので、先にお戻りいただきました。あとは私がお引き受けしてその方の介抱をしたんです。その時に本人からはっきりと聞きましたから間違いありません」

「……そう……でしたか……」


 梨泉は力が抜けたように呟いた。


「……お腹の子は朱国の官吏の子だと言っていました」


 葛将軍が追加の情報で縹公の無実を補強する。


「……そうでしたか……」


 梨泉からは同じ言葉が繰り返された。

 父親が不貞を働いていなかったことがはっきりとして胸を撫で下ろす。

 しかしふいに整った眉を歪めた。


「……では何故、あの子の母親は、父親が縹公だと言ったのかしら」


 明らかに嘘だということは母親自身がよくわかっているはずだ。


「それは解りかねますが……」


 葛将軍は言うべきかどうか迷うように目線を落としたが、そのまま続けた。


「……ただ、その、お腹の子の父親に、騙された、とは言っていました」


 梨泉の美しい顔が曇る。


 だから彼女は一人で子どもを産み育てることになったのか。

 自分を騙した男を子どもの父親だと言いたくなかったのかもしれない。


「……大丈夫ですか?」


 考え込む梨泉に葛将軍が気遣うように声をかけた。

 梨泉は我に返って頷く。


「ええ」


 そうしてもやもやとした気持ちを一旦抑えて言った。


「ありがとうございました。これで父の不貞の疑惑は晴れましたわ」


 梨泉が椅子から立つと葛将軍も立ち上がった。


「それはよかったです。敬伯様は奥方様をとても大切にしておられますからね」

「そうですね。母の方もそんなに疑っているわけではないようでしたけど、でも万が一ということがありますから」

「お役に立てて何よりです」


 その言葉に梨泉が頭を下げ、では、とその場を去ろうとすると、


「……貴女は……お変わりないですか」


 葛将軍の深い声が引き留めた。

 梨泉は立ち止まり、ゆっくりと息を吸ってから振り向いた。


「……おかげさまで。……葛将軍も……」

「はい。私も相変わらずです。しばらく地方にいましたが、壮哲様に呼び戻していただきましたので、久々に古巣へ戻ってこられました」


 葛将軍は前王の事件の後、県の副官である県丞をしていたところを、壮哲に直々に呼び戻されて禁軍の将軍へと異例の抜擢を受けた。元々禁軍所属の武官だったのが地方の行政官になり、再び禁軍に戻るという珍しい経歴を辿っている。


「ご活躍はお聞きしておりますわ。先日の黄朋の騒動の時も朱国へ行かれて大変だったとか……」

「いえ、あの時は結局、ほとんど何もしておりませんから」

「でも、ご無事でよかった」


 梨泉が言うと、葛将軍が思いがけず顔を綻ばせた。


「心配してくださったんですか」

「……そういうわけではありません」


 梨泉が慌てて否定する。


「それは残念。なかなか誰かに心配してもらうことがないので」


 楽しそうな声に、梨泉は聞くつもりのなかったことを口にしていた。


「……ご結婚は……なさっていないのですか」

「……ええ、まあ」

「どうして……」


 言いかけてはっとして止めた。


「いえ、何でもありません。では、お時間をいただきありがとうございました」


 顔を見られないように素早く頭を下げると、梨泉は足早に部屋を後にした。




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