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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −白及の巻−
172/192

二年季冬 雁北郷 3



 英賢が休日出勤から帰ってくると、奏薫、範玲、理淑が出迎えた。


「お帰りなさい」


 幸せな光景に思わず笑みが溢れる。

 しかし、その幸福感にしばし浸りたいのを堪え、英賢が言った。


「ただいま。だけど、帰ってきたなりでごめん。理淑、ちょっといいかな?」


 英賢が着替えもせずに卓に着くと、理淑もその前にちょこんと座った。


「なんですか?」


 不思議そうに理淑が聞く。


「孫尚書のご息女の礼晶殿が、今日うちに来たの?」


 明るめの碧色の瞳をぱちくりとさせる理淑に、英賢が切り出した。




 つい先ほどのことだ。

 休日に登城してようやく仕事を片付け、いざ帰ろうと立ち上がったところへ、孫尚書の次男の経史が血相を変えて英賢の執務室にやってきた。相手が英賢だから遠慮しているが、そうでなければ怒鳴り込んできたのではないかという勢いだ。

 経史は四角い顔を更に角張らせ、


「本日、我が妹の礼晶が理淑様を訪ねて行ったのですが、怪我をして帰ってきました。一体どういうことでしょうか」


 と言う。

 一瞬英賢のこめかみが、ぴきりと引き攣る。

 しかしかろうじて三まで数を数えて間を取り、にこりと微笑んだ。


「貴殿の妹君が今日、夏邸(うち)に来たということは承知していないからよくわからないが、その際に、私の妹、が、貴殿の妹、に、怪我をさせた、と言いたいのかな?」


 ところどころ言葉を区切りながら静かに返すと、経史の勢いは萎えたが、それでも四角い顔は緩まない。そうだということなのだろう。


 うちの理淑に限ってそのようなことをするはずがない。


 親馬鹿じみた台詞をつい口にしかけたが、いくら確信があっても事実関係を確認するまでは、とぐっと堪えた。

 経史に、礼晶殿がどこを怪我したのか聞いてみると、手のようだが隠すのではっきりしないと言う。

 普段は落ち着いて確実な仕事をする官のはずだが、今回に限って言うことが曖昧だ。相当動揺しているのかもしれない。

 英賢は小さく溜息をついた。


「私も理淑に事情を聞いてみるから、貴殿もちゃんと妹君に事情を聞いて、怪我の箇所と程度を確認するように」


 そう言って不満げな経史を部屋から追い出すと、英賢も帰宅を急いだ。

 新婚にも関わらず貴重な休日を仕事に費やしたことでただでさえ機嫌が悪いところに、溺愛する妹に難癖をつけられ、ふつふつと怒りが増す。


 孫経史め。どうしてくれよう。事実をはっきりさせた上は理淑に濡れ衣を着せた償いをさせてやる。


 そんなことを考えながら帰ってきたのである。




 事情を知らない理淑が、英賢の問いにけろっとして答えた。


「うん。礼晶殿と剣の稽古をしたの」

「は?」


 思いもよらない言葉が返ってきて英賢が唖然とする。

 何事かと様子を覗っていた範玲も、嬉しそうに話に入ってきた。


「今日ね、礼晶殿が理淑に剣を教えてほしいっていらしたのよ。せっかくだから皆で一緒に教えてもらったの」

「……え? なになに? ちょっと待って? 一緒にって範玲まで? て言うか、え? じゃあ、礼晶殿が怪我をしたっていうのも、その時?」


 英賢が疑問を連発しながらつい身を乗り出す。


「えっ? 礼晶殿、怪我したの?」


 理淑が驚いて逆に聞き返した。


「どういうことですか?」


 範玲も困惑顔で理淑の横にやって来た。

 礼晶が怪我をしたということは二人とも初耳のようだ。


「いや、さっきね、孫尚書の次男が、礼晶殿がうちで怪我をしたと言ってきたんだよ」

「え!?」


 理淑と範玲が揃って声を上げる。


「怪我したなんて気が付かなかった……」


 理淑が不安げに範玲を見ると、範玲も、こくりと頷く。


「お稽古の後も楽しそうにお茶をしていらしたのに……」


 範玲が奏薫に同意を求めるように視線を送ると、静かに様子を見守っていた奏薫も頷く。


「お茶の時、奏薫も一緒だったんだ?」

「はい。でも、お怪我をされていたのは気付きませんでした」


 そう言って、申し訳ありません、と奏薫が頭を下げる。


「いやいや、そこはそもそも貴女が謝ることではないから」


 英賢は奏薫に手を振りながら、三人とも気付かないような怪我なのか、と首を捻る。


「稽古、って、何をしたの?」


 改めて英賢が聞くと、理淑は尋問を受けるような真面目な顔で答えた。


「……今日は最初だったから、まず剣の握り方を説明して、素振りをしたの」

「それから?」

「それだけだよ」

「それだけなの?」


 英賢から拍子抜けした声が出る。


「うん。礼晶殿も姉上もとにかく体力がないから、それ以上はできなかったんだよ」


 ね、と理淑が範玲に声をかける。


「そうなの。私も礼晶殿もすぐ息が切れて疲れちゃって」


 範玲が俯いて情けなさそうに自分の手を見る。


「じゃあ……打ち合いをしたとかじゃないんだ」

「まだ全然そんなことできないよ」


 以前、佑崔が壮哲から剣を教わった時に、初っ端からへとへとになるまで打ち合いをしたと聞いていたので、もしやと思ったのだが、そうではないようだ。

 英賢が、そうなんだ、と呟いて考え込むと、範玲が、あ、と小さく声を上げた。


「……もしかして……」

「何? どうした?」


 英賢が範玲へと目を向けると、範玲が両の手のひらを広げて見せた。

 華奢な手が赤くなっている。


「これのことなのかしら。剣を握って何回か振っただけなのに、こんなふうになってしまったの。礼晶殿も同じように赤くなってて、私たち不甲斐ないわね、って二人で笑ったんだけど……」


 範玲の手を見ながら英賢は大きく息を吐いた。


「それだ」


 英賢が溜息混じりに言うと、理淑が心配そうに聞く。


「ほんとに?」

「ああ」


 英賢は孫経史が血相を変えてやってきた原因を確信した。

 一族に蝶よ花よと育てられた礼晶は、剣はおろか箸より重いものを持ったこともないほどなのではないか。経史はそんな礼晶の柔な手が赤く腫れているのを見て、頭に血が上ってしまったのだろう。


「間違いないと思う。だから心配いらないよ」

「そっか」


 理淑もほっと息を吐いてようやく安心した顔になった。範玲と奏薫も胸を撫で下ろしている。

 しかし英賢からは苦笑いが漏れた。


 気持ちは、わかる。よくわかる。

 溺愛する妹に何かあったら心配する気持ちは。

 ではあるが、理淑に言いがかりをつけにきたのはやはり腹がたつ。

 よく確かめもせず抗議してくるのはどうなんだ。

 ……まあ、理淑に直接文句を言いにこなかったことだけはよしとしよう。


 そう自分の中で折り合いをつけながら、英賢が念のため再度確認をした。


「それ以外は特に何もなかったんだよね?」

「うん。礼晶殿には何にもなかったよ。姉上はちょっと足を痛めたけど」


 理淑が範玲を見ると、英賢も驚いて視線を移す。


「え? なに? 範玲の方が怪我をしたの?」

「あ、いえ、大したことじゃないの。大丈夫」


 慌てて範玲が手を振る。


「ちょっと足を打っただけ」


 範玲が言うと、理淑が、ぶふ、と堪え切れないように吹き出す。

 それを見て範玲が頬を膨らませる。


「ひどいわ。頑張ったのに」

「ごめん。でも、剣を握って一回振っただけなのに、どうして自分の足にぶつけるのか全然わかんないよ」


 謝りながらも理淑が、あはは、と明るく笑う。

 範玲は理淑をわざと睨むように見たが、自分でもその時のことを思い出したのか、可笑しそうに笑いだす。

 急に場の雰囲気が微笑ましくなり英賢も頬を緩めると、理淑が満面の笑みのまま奏薫を見た。


「でもね、奏薫姉様はすごいんだよ!」

「え?」


 英賢も奏薫を見る。


「まさか……奏薫まで剣の稽古したの?」


 突然話を向けられて奏薫がバツが悪そうに俯く。


「すみません。拝見していたらとても楽しそうだったので……」

「いや、それはもちろん貴女がやってみたいなら全く問題ないけど……手は大丈夫?」


 英賢が立ち上がって奏薫の細い手を取り、まじまじと検分する。


「大丈夫です。私は丈夫なので」


 恥ずかしそうに言った奏薫に、理淑が我が事のように自慢げに胸を張って報告を続ける。


「まず構えた姿がかっこいいんだ。素振りもね、最初っから上手いの」


 それを聞いて英賢は美しい眉を顰め、奏薫の顔を恨めしげに見る。


「ずるいな。私も見たかったな」

「……お見せするほどのものでは……」


 慌てて首を振りながらも、少し照れる奏薫に英賢が思わず目を細める。

 休日なのに奏薫を置いて仕事に行ったことを心配していたが、思いの外楽しく過ごしていたようだ。

 奏薫が夏家に馴染み、自分のやりたいと思ったことができているのが堪らなく嬉しかった。

 しかし、英賢は、はっと顔を上げた。


「まさか、奏薫も禁軍に志願するとか言わないよね?」


 急に青ざめた英賢を奏薫がきょとんとして見る。


「流石にそれは、ごめん、反対する。理淑だけでも心配なのに、この上奏薫までとなったら身が持たないよ」


 大真面目な顔で英賢が奏薫の手を握る。

 しかし、む、と悩ましげに碧色の瞳が伏せられた。


「……でも、奏薫が本当にやりたいことなら……反対はしたくはないな……」


 苦悶する英賢を見て奏薫が思わず、ふふ、と笑う。

 思いがけず表れた笑顔を見ようと英賢が顔を上げると、奏薫が言った。


「禁軍に志願しようとは思っていません」

「本当?」


 英賢が真意を読み取ろうと青灰色の瞳を覗き込む。


「はい。第一、私にそんな才能はありません」

「そうなの? 本当にいいの?」


 猶も聞く英賢に、はい、と奏薫が頷くと、そうか、とようやく眉を開いた。

 そして妹たちに温かい笑顔で見られているのに気付き、照れ隠しの咳払いをすると、英賢は理淑に話を戻した。


「ところで、どうして理淑が孫尚書のご息女に剣なんて教えることになったの? って言うか、知り合いだったっけ」


 顔の広い理淑は確かに宮中に知り合いが山ほどいる。しかし宮仕えをしていない礼晶との接点はないはずだ。今更ながら英賢が訝る。


「うん。礼晶殿とは、この前、佑崔殿のお宅で偶然会ったの」

「へえ……」


 何かに思い至ったように、英賢から含みを持った相槌が出される。


「で、どうして剣を?」

「えっとね、鍛錬場で佑崔殿の剣術を見て、自分もやりたいって思ったんだって。それで教わるのなら女子がいいからって私のところに来たの」

「ふうん……」


 英賢が首を傾げる。


「それって……」


 言いかけて止める。そしてちらりと範玲たちを見ると、少し声を落として聞いた。


「……ええと……問題はない?」

「ん? 業務には影響がないように、執務時間外にすることにしたから、大丈夫だよ」


 ぱちくりと目を瞬かせて答えた理淑を英賢が覗い見る。

 しかし、そんな英賢を小首を傾げて見返してくる理淑に、小さく笑いを漏らす。


「……まあ……そうか。……うん、わかった。……孫尚書のご令嬢に剣を教えるのは構わないけど、その保護者たちがすごく心配するから、決して無茶はしないようにね」

「気を付ける」


 理淑が頷いた。





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