二年季冬 雁北郷 2
*
玄武門横の羽林軍詰所では、鍛錬前の時間ということで準備をする兵士たちの出す雑多な音が満ちていた。
「ごめんくださいませ」
そこへ鈴の音のような声が流れ込んだ。室内の雑音にかき消されそうな音量であったにも関わらず、兵士たちの声がぴたりと止み、彼らの耳が戸口へと集まる。
「お忙しいところ申し訳ありません。孫礼晶と申します。斉佑崔様はいらっしゃいますか」
一瞬、ざわ、と室内の空気が揺れる。
戸口の近くにいた髭の兵士が進み出ると、礼晶の形の良い大きな瞳に不安げな色が広がった。それを見て取り、髭の兵士は髭面を柔和に見えるように顔を緩める。
「佑崔殿は今ここにはいませんね。陛下のお側に侍ることが多いので、こちらには滅多に来ないんですよ」
努めて穏やかに言った。
その努力が報われたか否かはともかく。
「そうですか」
礼晶が小さく言い、目に見えて落胆したように俯く。何か載せられそうなほどの睫毛は残念そうに萎れた。しかし思い直したように顔を上げて手にしていた紫色の包袱の包みを差し出した。
「では、これを、佑崔様にお渡しいただけますか?」
「何でしょうか」
受け取りながら髭の兵士が聞く。
「中身は存じ上げません。佑崔様のお母様からお預かりいたしました」
気にしていない振りをして聞き耳を立てていた兵士たちが、堪えきれずついに礼晶へと視線を向けた。
「わかりました。渡しておきます」
髭の兵士が言うと、礼晶はほっと緊張を緩ませた。そして可憐な顔を華やかに綻ばせて一礼すると、戸の近くで待っていた腕っぷしの強そうな侍従を連れて出て行った。
詰所の中は、しん、と静まり返っていた。が。
「……おいおいおいおい。どういうことだ?」
礼晶の姿が見えなくなると、静かだった詰所内が、わっと沸いた。
「今の、孫尚書のとこのご令嬢だよな」
「くそっ。可愛いな……」
「いや……美しいっ!」
「ほんとに兄貴たちに似てないな」
「なんで佑崔ばっかりモテるんだ」
「佑崔の母上から預かったって、どういうことだ! どういう仲なんだ!?」
兵士たちのやっかみと羨望とその他諸々混じった喧騒の中、髭の兵士が部屋の中央の卓の上に預かった荷物を置く。
「わざわざ何を届けに来たんだろうな」
置かれた紫色の包みを数人が囲んで見つめる。
「持った感じ、布類のようだが」
兵士の一人が包みを持ち上げてみる。
するとそこへ、そんなことになっているとは思いもしない佑崔が入って来た。
詰所に入った途端に同僚たちの視線が佑崔に集まる。
「……何ですか?」
とげとげとした視線を感じた佑崔が眉を顰める。
「さっき孫尚書のご令嬢が来たぞ」
「はあ。そうですか」
「何だよその態度は。お前を訪ねて来たって言ってんの」
気のない返事の佑崔に髭の兵士が絡む。
「母君から荷物を預かって来てくれたらしいぞ」
「誰のですか?」
肩に回された腕を払いながら佑崔が聞く。
「お前のだよ」
舌打ちをして髭の兵士が卓の上の紫の包みを指差した。
佑崔は怪訝な顔をしながら包袱を解くと、上がり気味の眉を下げて溜息をついた。
「何を届けてくれたんだ?」
髭の兵士が覗き込むと、佑崔は広げた包袱を戻した。
「別に大したものじゃなかったです」
中身は特に頼んだ覚えもない着替えだった。
「何だ、お前、まさか孫尚書のご令嬢と婚約でもしたのか?」
若い同僚兵士が羨ましげに聞いた。
「そんなわけないでしょう」
「じゃあ何で礼晶殿が母君からの荷物を持って来たんだよ」
面白くなさそうな顔をして別の兵士が佑崔の顔を覗き込み、問い詰める。
佑崔はそれを手で払うように避ける。
「知りませんよ」
どうせ母上が何か企んでいるのだろう。
そう言えば、と家出をした純栄の行き先を確認するために久しぶりに実家に行った時、母親が孫尚書の息女と会ってみろとしつこく言ってきたのを思い出す。
縁談は断ったはずなのに、と思っていたら。
そう来たか。
再び佑崔が憂鬱ぎみに溜息をつく。
すると、
「どうしたんです? みんなで佑崔殿を囲んで?」
詰所に理淑が入って来た。
曹将軍に頼まれたお使いに行っていたらしい。寒い中を走って来たのか桃のような頬がいつもよりも赤い。
「理淑殿! 聞いてくれよ! 佑崔のとこにえらい美人のご令嬢が訪ねて来たんだ」
同僚兵士の一人が理淑に訴えると、理淑の目が丸くなった。
「そうなんですか! え? 誰? 誰?」
「孫尚書のご息女だよ」
「ほお!」
「母君から荷物を頼まれたんだと」
「おおっ!!」
理淑が興味津々なのを隠さず佑崔のところへ小走りにやって来た。
佑崔が面倒くさそうに理淑を見る。
「いちいち来なくていいですよ」
佑崔が言うと、理淑が、えー? と不満そうに口を尖らせる。
その顔をじろりと睨む。
「面白がっているでしょう」
「そんなことないよ?」
睨んでも明るい碧色の瞳は好奇心でますます輝きを増す。
「ほら、稽古をつけるんでしょう? 行きますよ」
佑崔は顔をしかめて見せると、待って! と焦って支度をする理淑を置いてすたすたと鍛錬場へと行ってしまった。
*
その日、佑崔に手合わせを申し込む輩はいつにも増して多かった。
しかし、剥き出しの嫉妬と邪念で満ちた手合いに佑崔が負けるはずもない。
打ちのめされた同僚兵士たちを尻目に、稽古が終わると、佑崔はさっさと壮哲の護衛へと戻っていった。剣でも勝てない兵士たちは更に恨めしそうに、いつもどおりの姿勢の良い後ろ姿を見送った。
「先に行くぞー」
髭の兵士が鍛錬場の隅で念入りに剣の手入れをしている理淑に声をかける。
「はーい」
剣を磨きながら返事を返す。
ようやく剣を磨き終え、よし、と呟いて顔を上げると、周りにいたはずの同僚たちは詰所へ戻っていっていた後で誰もいなかった。
慌てて広げていた手入れの道具を片付けると、理淑も詰所へと向かった。
その途中、理淑は呼び止められて足を止めた。
「夏県主様」
そう声をかけたのは礼晶だった。その後ろにはガタイの良い侍従が忠犬よろしく控えている。
「私ですか?」
呼ばれ慣れない呼称に驚いて、理淑が念のため辺りを見回す。
「はい。理淑様。お忙しいところ申し訳ありません」
「えっと、孫礼晶殿、でしたよね?」
理淑が聞くと、礼晶が可愛らしく拱手する。
「覚えていてくださったのですね」
理淑よりも小柄な礼晶が嬉しそうに顔を上げる。
「斉丞相のお宅でお会いしましたよね」
「はい」
形の良い目がきらきらときらめき、愛らしさがこれでもかと溢れ出す。
「どうしたんですか?」
理淑が首を傾けると、礼晶が胸の前で手をあわせて俯いた。
「あの、理淑様にお願いしたいことがあって」
「何でしょう」
理淑がぱちぱちと瞬きをしながら姿勢を正す。それをちらりと窺ってから礼晶が神妙な顔で話し始めた。
「あの、私の家は代々文官で……家に訪ねてくる方も皆、文官の方ばかりで、武官の方とはなかなかお知り合いになれないんです」
「うん?」
意図が読めず理淑が再び首を傾げる。
すると、礼晶はしばし黙り込んだ後、意を決して顔を上げて言った。
「私に……剣術をお教えいただけないでしょうか!」
「え?」
理淑は我が耳を疑い礼晶をまじまじと見る。礼晶は真っ直ぐ理淑の視線を受け止める。
「だめでしょうか」
「えっ!?」
理淑が慌てて自分を指差す。
「私がですか?」
「はい。理淑様です」
「礼晶殿に?」
「そうです」
礼晶が右手を自分の胸に当てた。
「なぜっ!?」
理淑が改めて驚いて一歩下がると、礼晶は逆に一歩分、前へ出て少し上目遣いに理淑を見た。
「理淑様はとってもお強いとお聞きしましたし、やっぱり教わるのならば女性の方がいいと思って……」
この華奢な、絶対に剣など握ったことのないご令嬢が、自分に剣を教えて欲しいと言っているのは間違いないらしい。
理淑は、えーと、と額を掻く。
「そもそもどうして剣術を習おうと思ったんですか?」
孫氏の礼晶と言えば、王妃候補にもなった良家の息女だ。一族に蝶よ花よと育てられたとも聞いた。深窓の令嬢とはまさしく礼晶に相応しい言葉だろう。しかも見るからに逞しい侍従が付き従っており、自分の身を守るためということでもないだろう。
そんな礼晶が何故剣術を習おうと思い立ったのか。
「……それは……」
礼晶が頬を染めて俯く。
「実は……先日、佑崔様にお聞きしたいことがあって、こちらにお伺いしたんです。その時、佑崔様の剣術のお稽古を拝見したのですが、剣を振り回すなんて恐ろしいことのはずなのに、なんて美しいんだろうと見惚れてしまったのです。あのお姿が忘れられず……私も、あんなふうになりたいって思いましたの」
理淑がぽかんと口を開けて瞬きする。
それに気付いて礼晶が慌てて手を振る。
「あ、もちろん、私なんかが佑崔様のようになれるとは思っていません」
そう言った後、でも、と瞳をうっとりとさせて手を合わせる。
「あのお姿を見て、私も剣術を学びたいと思ったんです。それに、剣術を知れば、少しでも佑崔様に近付くことができるのでは、と……」
礼晶の言葉が恥ずかしそうに小さく窄んでいった。すると。
「わかります!」
理淑が礼晶の手を取った。
「すっごくわかります! 佑崔殿に追いつきたい! 追い越したい! 私もその想いで毎日訓練してます!」
「やっぱり!」
礼晶が理淑の手をぎゅっと握り返す。
「本日のお稽古も、実はこっそりと見学させていただいていたんです。私、剣術のことは全くわからないのですが、理淑様の剣は佑崔様に通じるところがあると思っていました!」
「ええっ? ほんとですか?」
理淑が照れてつい頬を緩ませる。礼晶はこくこくと熱心に頷く。
気を良くした理淑は満面の笑みだ。
「いやぁ。そんなこと言われたら、お力になりたいって思っちゃいます」
しかし、うーん、と唸って理淑が考えこんだ。
「でも、執務時間中はさすがに無理だなぁ……」
「理淑様さえよろしければ、何処へでもお伺いいたします!」
礼晶が期待に満ちた目で理淑をみつめる。
「そうですか? んー、じゃあ、お休みの日に、うちに来ますか?」
「よろしいのですか?」
「いいですよ」
理淑が屈託なく笑うと、礼晶の柔らかい華奢な手が、ありがとうございます! と理淑の手を再び握った。