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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −白及の巻−
170/192

二年季冬 雁北郷 1




 門番に取次を頼むと、理淑は改めて門を見上げた。意外にもここを訪れたのは初めてなのに気付く。

 理淑が今いるのは斉邸である。都省長官である斉公謹の邸宅であり、佑崔の実家だ。


「いらっしゃいませ。理淑様がうちになんて、どうされたんですか?」


 中から迎えに出て来たのは佑崔のすぐ上の姉の環里(かんり)だ。どことなく雰囲気が佑崔に似ている。

 環里は四人いる佑崔の姉の中でも唯一、役所勤めをしており、理淑とも顔見知りだ。嫁いではいるが、よく斉家に来ているらしい。


「えっと、純栄様をお迎えに来たんです」

「あら。どうして理淑様が?」

「……敬伯様に頼まれました」


 理淑がぺこりと頭を下げる。

 純栄が家出をした明くる日、早々に敬伯、つまり縹公自身が斉邸に迎えに来た。しかし、純栄は縹公に会ってもくれなかったらしい。

 それを聞いた梨泉は、「母上の気が済むようにすればいいんじゃない?」と言い、杏湖も斉家に足を運んだようだが、帰宅を説得した気配はない。

 そこで痺れを切らした縹公が理淑に純栄の迎えを頼んだのだ。純栄のお気に入りの理淑ならば説得に応じてくれるだろうという思惑である。


「そうなんですね。それはご苦労様。どうぞ。叔母上はこちらですわ」


 そう言って、ふふ、と笑いをこぼして理淑を迎え入れた。



 回廊を進み、案内をされた部屋に入ると、純栄は庭に面した窓際で本を読みながら優雅にお茶を飲んでいた。


「純栄様」


 理淑が声をかけると顔を上げた。


「あら。理淑じゃない。どうしたの?」


 純栄は嬉しそうに微笑み、手にしていた本を置く。


「一緒にお茶でもどう? そこ、良かったら座って」


 純栄は向かい側の椅子を示して、いそいそともう一つ茶を淹れ始めた。

 理淑が大人しく座ると、どうぞ、と茶をその前に置いた。

 いただきます、と一口、理淑が湯呑みに口をつける。そのままちらりと窺い見ると、茶を飲む理淑をにこにこと見ている純栄と目があった。


 機嫌は悪そうには見えない。


 理淑は湯呑みを置いた。


「純栄様」


 ほんの少し緊張しながら呼ぶと、なあに? と純栄が首を傾げた。


「純栄様が家出をしちゃったから、敬伯様がすごく落ち込んでます」

「そうなの?」


 純栄は笑顔を崩さない。


「だって、敬伯様が迎えに来たのに会ってもらえなかったっておっしゃるから……」


 理淑が純栄を覗き込む。


「……怒っているんですよね?」


 縹公の話では、純栄はものすごく怒っているということだった。

 でも、目の前の純栄は、いつものとおり、ほんわりとしたままにこやかだ。にこやかに怒る姿は英賢で見慣れているが、それとは違うように見える。


「そうねぇ。それは怒るわよねぇ」


 口調はまるで人ごとだ。

 どうやら思っていたのと違う。


 理淑が額を掻く。

 とりあえず基本的なことを確認してみることにした。


「……えっと……あの、純栄様は、訪ねて来た男の子が本当に敬伯様の……その、お子だと思ってるんです……か?」


 純栄が頬に手を当てて、うーん、と悩ましげに唸る。


「あの人がそんなことをするとは思えないのよねぇ。でも、万が一ということってあるじゃない? 人は意図せず過ちを犯すことだってあるもの。そう考えると、全く可能性がないとは言い切れないわよねぇ」


 そこまで言うと、少し俯きがちに固まった。


「……純栄様?」


 理淑が黙ってしまった純栄を再び覗き込む。


「……あの子……敬安さん、あの人の幼い頃に似てるのよ」


 ほお、と純栄が溜息をついた。


「……やっぱり疑ってるってことですか……」


 恐る恐る聞くと、純栄が顔を上げた。


「ん? ああ、そうじゃないのよ。ちがうのよ。そうじゃなくって……あの人に似てるのよ? 可愛くない?」

「え? どういうことですか?」


 話が見えない。


「ほら、うちの三人って、みんなあの人の顔にはあまり似てないじゃない?」


 純栄がしみじみと言う。


 ”うちの三人”とは梨泉、壮哲、杏湖のことだろう。理淑は三人の顔を思い浮かべた。

 梨泉は純栄にそっくりだ。壮哲は体格だけ見れば縹公に似ているが、顔は違う。純栄の美しい容貌に、いい具合に縹公の剛健な要素が加わり精悍な感じになっている。その壮哲の容貌が柔らかく女性的になったのが杏湖だ。

 いずれにしても、三人とも顔は純栄似の傾向が強い。


「何だかねぇ、あの人に似た敬安さんを見たら……うちに来てほしくなってしまったのよ。お母様も亡くなってしまったと言うし……血のつながりがあればもちろん引き取る責任というものがあるけど、そうでなくても……って思ってしまって。だから兄上に相談しに来たの」


 斜め上の答えに、理淑は拍子抜けしたように椅子の背にもたれた。


「それでご実家に……」

「そう。兄上なら的確な判断をしてくれると思って来たのだけど、忙しいみたいでなかなかちゃんと話ができてないのよ」

「だったら敬伯様にそう言ってあげてください。すごく心配していらっしゃいます」

「そう?」

「昨日だって、会ってくれなかったって青い顔で嘆いていましたよ?」


 理淑が言うと、純栄が、あら、と姿勢を直した。


「あの子を引き取りたいという話と、不貞を許すというのは別の話よ。一応まだ、あの人の不貞疑惑は晴れていないくってよ?」


 つん、と顎を上げて芝居がかったように言う。

 しかし、ふふふ、と肩をすくめて笑い出した。そして前のめりぎみに理淑に向き直る。


「今の上手く言えたと思わない?」


 ぽかんと口を開けている理淑に構わず続ける。


「私としたことが失敗してしまったのよ。”実家に帰らせていただきます”って一度言ってみたかったのに、うっかり言わずに出て来てしまったのだもの」


 純栄が楽しそうに悔しがるのを見て、理淑は、ふう、と短く息を吐いた。


「……わかりました。帰ります」


 心配してやって来たが、その必要はなかったらしい。


「あら。もう帰ってしまうの?」


 立ち上がった理淑を、純栄が残念そうに見る。


 縹公はとても狼狽えているけれど、これは放っておいても全く大丈夫なやつだ。多分純栄も本気で縹公が不貞を働いたとは思っていない。

 だから杏湖も純栄の様子を見に来てそのままにしているのだ。


「……純栄様も早めに帰ってあげてください」

「大丈夫よ。杏湖に敬安さんのことは頼んでおいたし、もう少し兄上の時間ができるのをここで待たせてもらうわ」


 にこりと微笑む純栄に、理淑はぺこりと頭を下げた。



 部屋を出ると、環里が手に茶菓子を持ってやってくるところに出会った。


「話はもう終わったんですか?」

「はい。何だか心配は全くいりませんでした」

「そうみたいですね」


 環里が朗らかに笑った。

 その顔を見て理淑も、へへ、とつい笑う。


「せっかくだからもう少しゆっくりしていけばよろしいのに」


 環里が茶菓子を理淑の目の前に掲げる。


「うーん、でも……」


 理淑が迷っていると楽しそうに談笑しながら女性二人がやって来た。


「あら、環里。来てたのね」


 目元が環里に似た年配のご婦人が気付いて声をかけてきた。環里たちの母親の稀夕だ。

 稀夕は環里の横にいる武官姿のままの理淑を、少し驚いたように見た。


「もしかして、そちらの方は……」


 稀夕が言いかけた先を引き取るように、理淑が拱手をした。


「お邪魔しております。夏理淑です」

「やっぱり。まあまあ。いらっしゃいませ。初めてお目にかかります。斉公謹の妻でございます」


 稀夕が微笑んで恭しく挨拶を返した。


「今日はどうされたのですか?」

「叔母上にお話を聞きにいらしたのよ」


 稀夕の問いに、理淑に代わって環里が説明する。

 ああ、と納得したように頷きながら、稀夕は環里が手にしている菓子を見て聞いた。


「お話はこれからですか?」

「いえ、もう済みました」

「では、ご一緒にお茶でもいかがですか? ちょうど今、珍しい東方のお菓子をいただいたので、純栄様をお誘いしようと思っていましたのよ」


 ね、と傍の若い女性に言う。


「あ、こちらのお嬢さんは孫礼晶さん。その珍しいお菓子を持って来てくださったんですのよ」


 稀夕に紹介されて若い女性が頭を下げる。

 顔を上げると、愛らしく可憐に微笑んだ。形の良い大きな瞳が印象的な、美しい令嬢だ。

 理淑も思わずにこりとして礼晶に礼を返すと、稀夕に言った。


「ありがとうございます。でも、敬伯様が待っていますので、やっぱり今日は帰ります」


 稀夕が、そうですか、と残念そうに眉を下げる。


「理淑様は私がお送りするから、母上たちはお茶していらして」


 環里が持っていた茶菓子を渡しながら言うと、稀夕は「良かったらまたいらしてくださいね」と理淑に挨拶をして名残惜しそうに去って行った。


 二人の後ろ姿を目で追っていた理淑が環里を振り返った。


「今の方は孫尚書のご息女ですか?」

「ええ。そうです」


 環里が意味ありげに笑う。理淑が、ん? と首を傾げると、環里が内緒話をするように少し顔を寄せた。

 

「……私から聞いたって佑崔には言わないでくださいね。実は、孫尚書から礼晶殿との婚約の申し込みが来たんです」

「誰にですか?」

「もちろん佑崔にですわ」


 理淑の目が驚きで大きくなる。


「そうなんですか!」

「ええ。孫家と言えば、文官の名門でしょう? そのご息女との縁談なんて、って母上はすごく乗り気だったのですけど、佑崔に全くその気がなくて。父上も佑崔の意志に任せるっておっしゃったから、結局そのお話は無かったことになったのですけどね……」


 理淑が礼晶の後ろ姿を探すように去った方向へ目を遣る。


「母上が孫尚書のところへ直接お返事を持って伺った時に、初めて礼晶殿ご本人と会ったらしいの。母上はすっかり礼晶殿を気に入ってしまってね。婚約の話は無かったことになったのだけど、それ以来礼晶殿がよく遊びに来てくださるようになったんですよ」


 随分と稀夕と礼晶の仲が良さそうだったのはそういう経緯があったのか。

 理淑が視線を戻すと、環里は、ふう、と溜息のように息をついた。


「まあね、私たち娘は四人とも嫁いで家を出てしまったし、佑崔はなかなか家に帰ってこないし、おまけに父上はいつも忙しいから、母上も寂しいのでしょうね。礼晶殿は可愛くて良いお嬢さんだから、遊びに来てくださると母上も喜ぶのよ」


 理淑が、へえ、と感心していると、環里が続けた。


「……それにしても、佑崔……あの子、あんなに女性に関心がないっていうのもどうなのかしらね」

「佑崔殿は宮城でもモテモテですよ」

「でも本人は相変わらずでしょう?」

「壮哲様一筋ですもんね」


 理淑の言葉に、環里が、そうそう、と同意する。


「……そう言えば、ちょうど叔母上がうちに来たすぐ後だったわ。佑崔が叔母上を探しに来たんです。その時、母上に捕まって、礼晶殿がいかに可愛らしくて好いお嬢さんか、一度会ってみなさい、ってこんこんと言われてましたわ。佑崔は叔母上と話をしたら逃げるように帰っていったのですけど、どうやら母上はまだ孫氏とのご縁を諦めてないみたい」


 そう言って環里が笑った。




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