二年仲冬 水泉動 4
*
「そんなことが……」
話を聞き終わった壮哲が唸る。
「……一人にさせてくれと言っていたが……まさか家を出ていくとは」
縹公が傍で頭を抱えていた。
そんな縹公を壮哲が気の毒そうに見る。
縹公が非常に愛妻家であることは壮哲も承知している。他所で子どもを為すようなことをしたとは思えない。
「純栄は私を疑ってるということなのか」
縹公が抱えていた頭を上げ、否定してほしそうに壮哲に問う。
しかし壮哲が答えるよりも先に梨泉が容赦無く言い放った。
「出ていったということは、そういうことなのでしょうね」
それを聞いて縹公は厳つい顔を悲しげに歪めた。
「まあ、それはともかく……きっとすぐ帰って来ますよ。それに、もう暗くなってますし、そう遠くには行っていないはずです。となると、母上の行くところは限られてくるでしょう」
壮哲が縹公を慰めるように言う。
「そうね……」
梨泉もその意見には賛同して佑崔を見る。
「実家へ行ったんじゃないかしら」
純栄の実家は兄の斉公謹の家——つまり佑崔の家だ。
「迎えに行ってくる!」
縹公が慌てて門へ向かおうとするのを梨泉が止めた。
「父上が行くのは今日はやめた方がいいと思うわ。一人にさせてって言ってたじゃない」
「しかし……せめてどこにいるのか確認したい」
それもそうよね、と言いながら梨泉が佑崔を見ると、
「確認してきます」
佑崔が頭を下げた。
「いいのか?」
実家には帰り辛い、とつい最近佑崔から聞いたばかりだ。
壮哲が申し訳なさそうに言うと、佑崔は「大丈夫です」と頷き、早速出口へと向かった。
「すまん! 頼んだぞ! 佑崔!」
もどかしそうな顔で声をかけた縹公と共に佑崔を見送ると、壮哲が杏湖へと振り向いた。
「……で、その子どもは今どこにいるんだ?」
「応接室にそのまま待ってもらってる。いけない。きっと退屈してるわね」
慌てて部屋へ戻りかける杏湖に言う。
「……私も会ってみてもいいか?」
「え? いいの?」
「もちろんだ。両親の危機となれば放ってはおけないだろう」
そう言うと、壮哲は応接室へと向かった。
しかしその途中、秦家では見慣れない小さな姿が、回廊をうろうろとしているのが目に入った。
まさに今、会いに行こうとしている敬安に違いない。
一人部屋に残されて、不安になったのだろうか。人を探しに行こうとして迷ってしまったのかもしれない。
敬安は見られていることに気付いていないようで、壮哲が声をかける前に近くの部屋へ入っていってしまった。
壮哲は敬安が入った部屋へと向かった。
戸口から中を覗いてみると、敬安は部屋の中をきょろきょろとしながら棚を覗き込んでみたり、抽斗を開けたりしていた。
どう声をかけようかと迷い、壮哲は部屋へ入る前に咳払いを一つしてみた。すると、敬安がびくりとして動きを止めた。
「何か珍しいものでも見つけたか?」
入りながら壮哲が聞くと、振り向いた幼い顔が泣き出しそうなものになった。
「……ご……ごめんなさい……。厠に行こうとしたら迷って…」
俯いて身体の前でぎゅっと握りしめられた手は、壮哲が思った以上に小さかった。それはまだ年端もいかない子どもだということを壮哲に認識させた。
「……こんな大きな家ははじめてで……いろんな、見たことがないものがあったから……見てただけ……」
敬安が俯いたまま消えそうな声で言った。
あれこれ部屋の中のものを見ていたのは、子どもならではの好奇心ゆえの行動なのだろう。壮哲自身にも覚えがある。
だから壮哲としては咎めたつもりはなかったが、明らかに敬安は怯えている。
確かに初めて会う大人の男に咎められたとなれば、子どもにとっては恐ろしいことに違いない。
「そうか」
そう言いながら、失敗した、と壮哲が思っていると、後を追って来た杏湖が入って来た。
「どうしたの?」
向かい合っている二人を見て聞いた。
「厠に行こうとして迷ったようだ」
壮哲が若干ほっとしながら答えると、杏湖が、あら大変、と慌てて敬安を連れて行った。
*
「どう思う?」
梨泉が壮哲に聞いた。
厠から戻って来た敬安と、壮哲は改めて話をしてみた。
しかし、部屋の中を探っているのを見られた気まずさからなのか、敬安は壮哲と目を合わせようとしなかった。詳しいことを聞こうとしても、俯いたまま黙ってしまう。
結局、初めに純栄が聞き出した以上のことはほとんど判明しなかった。
壮哲は、うーん、と唸って困ったように首を摩る。
「わかりません。しかし出自についてはあの子が嘘を言っているようには見えませんでした」
「じゃあ、本当に私たちの弟ということ?」
「……それはどうでしょう……」
そう言って壮哲は縹公を見た。
純栄が出ていってしまった衝撃から立ち直ることができないでいるようで、壮哲たちから少し離れたところで大きな体をしょんぼりと丸めている。
勇猛で名を知られた縹公が見る影もない。
「やはり、父上がそんなことをするとは考えられません」
「……そう、……よね……」
梨泉も縹公の丸まった背中を見て頷く。
縹公が今だに純栄にベタ惚れなのは、梨泉が見ていて呆れるほど明らかだ。
「それに、仮にそういうことがあったとしても、その後全く放っておくというのも父上らしくないですよ」
「でも……子どもが生まれたのを知らなかったのかもしれないじゃない」
うーん、と壮哲が唸る。
「そういうことじゃなくて、例え何かの過ちとはいえ、そういうことがあった時点で早々に母上に白状しているような気が……」
「じゃあ、あの子の母親があの子に嘘を教えてたってこと?」
訝しげに言う梨泉に、壮哲が更に唸る。
「……母親の方に何か事情があったのかもしれませんよ」
そこへ杏湖が入って来た。それに気付いて梨泉が聞いた。
「あの子は?」
「夕餉を食べたら眠くなったみたい」
あとは侍女に任せて来たと言う。
「それにしても、秋玉って人はあの子のことを探していないのかしら」
杏湖が府に落ちないという顔で首を傾げる。
「はぐれたと言っても、目的地が秦邸だってことはわかってるはずよね」
敬安が言うには、秋玉とはぐれてしまったけれど、気がつくと秦邸の前にいたらしい。
「それと、あの子、父上の顔を知っていたのよね」
敬安は縹公に確かめることなく、「父さん」と言って抱きついた。つまり初めから誰が縹公かわかっていたということだ。
「武恵様のご婚儀以降も、父上は何度か朱国に行っているんでしょう? その時に見たとか?」
梨泉の推測に続けて壮哲が考え込みながらゆっくりと呟いた。
「もしくは、その田秋玉とやらがここまで来て教えたのかもしれないな」
「それだったら、少なくとも秦邸の近くまでは一緒に来たということじゃないの」
梨泉が顔をしかめると、杏湖が眉を下げて言った。
「でも、侍従が外に探しに出た時にはそれらしい人はいなかったって」
「あえて名乗り出なかったのかもしれないぞ」
「ここまで連れて来たから後はよろしく、ということかしら」
「そんな。じゃあ、あの子をここに置いて行ってしまったってこと?」
「こうなってみると、その可能性が高いんじゃないか」
杏湖が困惑した顔で敬安のいる部屋の方を見遣る。
「じゃあ、もしあの子が父上の子ではないとわかった時はどうなるの? 例え父上の子ではないとしても、あんな小さな子を一人で返すわけにはいかないわ」
「そうだな」
三人が溜息をついていると、出かける前よりも酷く疲れた顔をした佑崔が戻って来た。
「純栄はいたか!?」
壮哲が声をかける前に縹公が待ちかねたようにがたりと椅子から立ち上がった。
「はい。奥様は斉家にいらっしゃいました」
「何て言ってた!?」
縹公が詰め寄る。
しかし佑崔は申し訳なさそうに眉を下げた。
「……奥様はしばらくお帰りにならないそうです」
「し、しばらくって?」
「……まだわからないとおっしゃって……。とにかくこれから考えられるそうです」
「考えるって、何をだ……!?」
縹公の顔が青ざめる。
「まさか……離婚について、とかかしら」
呟いた梨泉に縹公が勢いよく振り返る。
梨泉の顔は目の色以外、純栄によく似ている。その顔で”離婚”という言葉を口にされたことは、縹公には予想以上に堪えたらしい。
「本当に何もしてないんだがなぁ……」
大きな手で顔を覆って呟く。そんな縹公に梨泉が聞いた。
「でも御酒を沢山飲んでいたのでしょう? もしかして覚えていないだけ、ということはないの?」
「例えどんな状態になったとしても、純栄を裏切るようなことは神に誓ってあり得ん」
そう断言した縹公に壮哲が尋ねた。
「……武恵殿の婚儀の祝いには王の名代で青公として行ったのでしたよね」
「ああ」
「随行した者で父上が潔白だと証言してくれる者はいないんですか?」
縹公が顔を上げる。
「……そう言われれば、あの時、洸良を連れていったな……」
洸良とは現在の右羽林軍の葛将軍のことだ。
縹公が腕を組んで必死に当時のことを思い出そうとする。
「……倒れていた舞人を助け起こした後、どうしたかな……」
壮哲と梨泉、杏湖が縹公の記憶が掘り起こされるのを待ち、じっと見つめる。
すると縹公が、がばっ、と顔を上げた。
「……そうだ、助けた後、舞人がどうしたのか覚えていないのは、洸良に後を任せたからだ」
「……父上、葛将軍に責任をなすり付ける気じゃないでしょうね」
梨泉が低い声を出す。
「そんなわけがないだろう!」
「では葛将軍に私から聞いてみましょう」
壮哲が言うと、梨泉が眉を顰める。
「こんな内輪の事情のために君主が臣下に尋ねるなんてみっともないわ」
「……でも、父上の潔白を証明しうるのが葛将軍であるなら、この際、致し方ないんじゃないですか?」
縹公が、私もそう思う、と遠慮がちに梨泉に言って返す。
「かと言って、父上ご自身が葛将軍に確かめた結果を父上から聞いても、客観的な証言とは言えないだろうし」
「それもそうね……」
壮哲の言葉に梨泉が細い指を頬に当てて悩むように目を瞑った。
「……じゃあ、私が聞きにいってくるわ」
目を開けると、純栄に似た顔をしかめて梨泉が言った。