二年仲冬 水泉動 3
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「どうした、佑崔。浮かない顔をしているな」
愛馬をひらりと下りた壮哲が聞く。
「いえ、何でもありません……」
首を振ると佑崔も馬を下り、話題を変えた。
「それより、先触れをしていませんが、よろしかったんですか?」
たまたま時間ができたので、壮哲は秦邸へ来ていた。急に決めてお忍びで来たので供も佑崔だけだ。
「いいんじゃないか。こだわるような人たちでもないし」
壮哲が驚く門番の肩をぽんと叩いて、取次を頼まず勝手知ったる我が家に入っていくと、母親の純栄が侍女を連れてやってきた。
「あら? ……まあ、陛下! いらっしゃっていたのですね」
壮哲に気付いて驚きの声を上げる。
その様子はどうやら壮哲を迎えに出てきたわけではないようだ。
「母上、先日はわざわざ祝いの品をお届けいただきありがとうございました」
紫の青玉を持ってきてくれたことへの礼を言うと、純栄が微笑む。
「どういたしまして。芳公主が気に入ってくださるといいのだけど。芳公主のお好きなものにして差し上げてね」
そう言って、ふふ、と嬉しそうに笑う。
「今度月季殿に聞いてみます。……それよりおでかけでしたか」
純栄が話しながら外衣を羽織り始めたのを見て壮哲が尋ねた。
「そうなの。ごめんなさいね。せっかく来てくださったのに」
侍女に羽織った外衣を整えられながら純栄が残念そうな顔で小首をかしげる。
「私も急に来てしまったので、それは構いませんが……どちらへ?」
「ちょっとね。じゃあ、また」
そう言ってひらひらと手を振ると、純栄は荷物を持った侍女を従えて出て行ってしまった。
「どうされたのでしょう」
佑崔もどこか様子がおかしいと感じたのか、純栄の去った方向を見送りながら言った。
すると、
「純栄!」
奥から縹公の声が響いた。
「あ、壮哲!」
声に続いて飛び出してきた縹公が壮哲の顔を見て慌てて立ち止まる。
「父上。慌ててどうしたのですか」
「いや、その。……純栄を見なかったか?」
「母上なら、つい先ほど出掛けられましたよ」
「え!? 何処へ行くと言っていた?」
「行き先はおっしゃっていませんでした」
壮哲が言うと、佑崔も頷いて付け加える。
「大きめの荷物を持っていらっしゃいました」
それを聞いた縹公は、はああ、と大きく溜息を吐いてしゃがみこんだ。
すると、すぐ後に梨泉がやってきた。
「父上!」
美しい眉間に険しい皺を寄せて縹公を咎めるように見る。
「姉上まで。一体どうしたんですか」
壮哲が聞くと、続いて妹の杏湖までもが現れた。
目で杏湖に問うと、困った顔で壮哲に首を振って見せる。
壮哲は一番冷静に見える杏湖に何があったのかを聞くことにした。
*
事が起こったのは壮哲がやってくる半刻ほど前のことだ。
執務を終えて帰ってきた縹公が門の前で車から降りると、突然何かが走り寄って来た。
何事かと身構えると、まだ幼い少年のようだった。
縹公が警戒を解いて、どうした? と問うと、少年は縹公に抱きつき、高い声で叫んだ。
「父さん!!」
「ええっ!?」
縹公は厳つい顔に似合わない狼狽えた声を出した。
周りにいた帰宅途中の官吏や町人が振り返り、どうしたどうしたと集まってきた。
縹公はしがみついてくる少年の肩に手を置くが、少年はますますぎゅっと腕に力をいれる。
力ずくで引き剥がすことは可能だが、相手は子どもだ。手荒なこともできない。
「会いたかった! 父さん!」
抱きついて叫ぶ少年と縹公を囲む好奇の目はどんどん増えていく。
縹公は辺りを見回し咳払いを一つすると、少年ごと家の中へと避難することにした。
背中に人々の視線を感じながら門の中に入り、戸を閉めさせる。
縹公は溜息の後、しがみつき続ける少年の小さな背中をポンポンと叩いた。
「少年よ、何か勘違いをしているぞ。私は君の父親ではない」
そう諭しても離れない少年に途方に暮れていると、外の騒ぎの知らせを受けた純栄がやってきた。
「あなた? 門のところが騒がしいと聞いたのですが、一体何があったのですか?」
そう言いながら縹公にひっついたままの少年に気付く。
純栄が問うように縹公に首をかしげて見せる。
すると、縹公の後ろに控えていた侍従がかなり端折った説明をした。
「こちらの子は旦那様の子どものようです」
縹公が「違う!」と慌てる。
しがみついている少年がちらりと純栄を見た。
「あら」
目が合った純栄は、手を頬に当てて少年をじっと見つめた。
「純栄、違うから!」
縹公が黙ってしまった純栄に、じりじりと少年ごとにじり寄る。
純栄は、近寄ってきた縹公の焦り顔には目もくれず、しがみつく少年を横から覗き込んで「こんにちは」と声をかけた。
しかし顔を縹公の袍に押し付けたまま動かない。
純栄が少年の横にしゃがむと、少年は再び純栄をちらりと見たが、
「父さん」
そう言って再び縹公にしがみついた。
「いや! 本当に違うから!」
縹公の訴えを聞き流し、純栄は努めて穏やかな声で少年に聞いた。
「あなた、お名前は?」
「……」
少年はぎゅっと縹公にしがみつく手に力を入れる。しかし、
「……方敬安……」
抱きついたままくぐもった声で答えた。
「敬安さんというのね」
名前を確認して純栄が質問を続ける。
「ここへは一人で来たの?」
少年が顔を擦り付けるようにして首を振る。
「お母様と?」
再び首を振る。
「じゃあ、誰と一緒に来たのか教えてくれる?」
純栄が優しく問いかけると、ぽつりと言った。
「……しゅ……秋玉姉さん……」
"姉さん"と聞いて新たな隠し子疑惑かと縹公がぎょっとする。純栄が心当たりを問うように縹公を見上げると、縹公がぶんぶんと首を振る。
「……あなたのお姉さん?」
純栄が再び視線を少年に戻して聞いた。
「ちがう」
少年の返事に、縹公が、ほおお、と大きく息をつく。
「秋玉さんはどこにいるのかしら」
「はぐれちゃった……」
「あら、まあ……」
純栄が途方に暮れたように頬に手をやる。
「それは、困ったわねぇ……」
少し考えて純栄が侍従に言った。
「もしかして外にいるかもしれないから見てきてくれる?」
侍従は慌てて門の外へと駆けて行ったが、いないようです、と手ぶらで戻ってきた。
「そう……」
純栄は縹公にしがみついたまま離れない敬安をしばらくのあいだ見つめると、
「……暗くなってきましたし、ここでこのままいるのも何ですから、とりあえず中へ入りましょうか」
困りきった顔で立つ縹公に言った。
縹公はしがみつく敬安をぶら下げたまま純栄に従って応接室へと移動した。
「美味しいお菓子があるのよ。座って食べない?」
純栄が侍女に持って来させた菓子を敬安に見せた。
それをちらりと見ると、敬安は縹公から手を離して促された椅子に座った。
純栄はその向かい側に縹公と並んで腰掛ける。その少し離れたところで話を聞きつけてやってきた梨泉と杏湖が見守った。
純栄はゆっくりと茶を淹れて敬安の前に置くと言った。
「どうぞ召し上がってね」
少年は純栄を窺い見ると、恐る恐る卓の上の菓子に手を伸ばした。
手に取った菓子を頬張る少年を純栄がまじまじと見る。そして穏やかな声で言った。
「私はこの大きい人の妻の斉純栄と言います」
自己紹介して続ける。
「食べながらでいいからお話をしてもいい?」
純栄が優しい声で聞くと、敬安が頷いた。
「この人はあなたのお父さんなのね?」
縹公に目をやって聞くと、敬安はもぐもぐしながら頷いた。
それを見てそわそわしていた縹公が口を開いて腰を浮かせた。その膝に純栄が手を置く。
「あなたはちょっと黙っていらしてね」
純栄がやんわりと言うと、縹公は口を閉じて姿勢を戻した。
それを確認して純栄は敬安に向き直った。
「この人が誰か知ってる?」
すると敬安は食べかけの菓子を手に持ったまま答えた。
「ひょうこう」
そして付け加えた。
「"ひょうこう"が父さんだって母さんが言った」
断定的な言葉に縹公があんぐりと口を開けた。それを横目で見ながら純栄が聞いた。
「……そうなのね……。……お母様は一緒にいらしていないのよね?」
敬安は俯くと小さな声でぼそりと言つた。
「死んだ」
「……まあ……」
純栄が言葉を失う。
悲しそうな顔になった純栄をちらちらと見て敬安がぼそぼそと続ける。
「母さんは、前に"たいがく"にいた。その時に父さんと会ったって」
「たいがく?」
「踊りとか、音楽、をするところだって」
敬安が自信なげにとつとつと言う。
「もしかして朱国から来たの? 朱国の宮廷の太楽かしら?」
朱国のいわゆる宮廷舞楽団のことを太楽といったはずだ、と思い出した純栄が聞く。
「うん。そう。母さんはきゅうていで踊りを踊ってたって」
太楽で間違いないようだ。
「あなたはいくつ?」
「八つ」
敬安が八本立てた自分の指を見ながら答える。
「お母様のお名前を教えてもらってもいい?」
「方暁明」
純栄が縹公を見る。縹公はすごい勢いで首を振る。
「そう……」
純栄が考え込むように首をかしげる。
敬安は手に持っていた菓子の残りを口に入れて、俯いたままもそもそと口を動かしていた。
「お母様が亡くなったから、ここに会いにきたのね」
敬安が頷く。
「大変だったわねぇ……」
しみじみと言って純栄は敬安をしばらく見つめていたが、敬安が口の中のものを飲み込むのを待ってから聞いた。
「秋玉お姉さんというのは、どういう方?」
「……ぎじょうの人」
「ぎじょう?」
「母さんがいたところ。お芝居をするとこ」
「ああ、戯場……。お母様はお芝居をしていたの?」
「ううん。たいがくをやめたあとにそこで踊りをしてた」
「そうなのね。朱国の戯場?」
「うん」
頷くとそのまま敬安はもじもじとしながら黙ってしまった。
純栄は何かを言いたげな縹公をちらりと見ると、再び敬安をじっくりと見つめながら言った。
「じゃあ、今日はこのままうちにいらっしゃい。きっと秋玉さんも探しているだろうから、訪ねてくるかもしれないし」
敬安がほっとしたように頷くのを見届けると、純栄は「少し待っててね」と言って、縹公と部屋を出た。
「……母親が亡くなったから、知り合いの方が父親のところへ連れてきたというところかしら」
応接室から少し離れると、純栄が縹公を真っ直ぐに見た。
「お心当たりは?」
「あるわけがない!」
ようやく純栄に発言を求められて縹公が断言した。
純栄が真っ直ぐ向けられた縹色の瞳をじっと見つめる。
「……でも、あの子の瞳、あなたと同じ色だったわ」
そうなのだ。
縹公にしがみついていた敬安がちらりと純栄の方を向いた時に垣間見た瞳が、秦家特有の瞳の色と同じだった。
だから純栄はちゃんと話を聞いてみることにしたのだ。
「縹色の瞳は、確かに蒼国青公の秦家に特徴的と言えるものだが、だからと言って縹色の瞳の人間が全て秦家だということではないぞ」
慌てて縹公が言う。その顔を純栄がじっと見る。
「それに、あなたの幼い頃になんだか似てるのよね……」
「そうなの?」
二人の後を追ってきた梨泉が話に入ってきた。
「そうなのよ」
純栄は縹公と幼馴染だ。幼い頃の縹公も当然よく知っている。
梨泉が眉を顰めて縹公を見る。
「父上、あの子、八つって言っていたわよね。じゃあ、その……その頃に朱国に行った?」
縹公が渋い顔になって答えた。
「……九年前、当時太子だった武恵様の婚儀の祝いに行った覚えはある」
聞いた梨泉の顔がこわばる。
「……それで?」
「その祝いの宴席で確かに舞楽は披露されていた」
厳つい顔を更にしかめた縹公に、梨泉が刺々しい目で先を促す。
「……宴席が終わって、具合の悪そうな舞人を介抱した……」
梨泉の形の良い目が大きく見開かれる。
「父上……やっぱり……!」
「いや! 違う違う! 介抱しただけだって! 人が倒れていたら助けるのは普通だろうが!」
焦る縹公が、な? と純栄に同意を求める。
純栄は縹公を小首をかしげて見つめ返した。
「……お話はわかりました」
そう言った純栄は、うーん、と小さく唸ると、「ちょっと一人にさせてくださる? 考えてみるわ」と縹公たちを置いて別室へ行ってしまった。




