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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
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余話13 昊尚と範玲




 範玲を先導していた昌健が目的の部屋までたどり着くと、中へ声を掛けた。

 しかし返事がない。

 あれ? と言いながら昌健が部屋を覗いた。その振り向いた顔は少し焦ったものになっていた。


「……すみません。眠っているみたいです」


 そう言って申し訳なさそうに頭を掻いた。



 範玲が今いるのは、昊尚の私室の前だ。

 一昨日の黯禺の騒動で宮城に出向いて以来、範玲は昊尚に会っていない。昨日は昼間、皇城で遠くに後ろ姿を見かけたが、その忙しそうな様子に声をかけるのは憚られた。

 範玲がそわそわしているのを知った昌健が、昊尚が帰ってきたのをわざわざ夏邸に知らせに来てくれたのだ。

 帰ってきたのを知ったらどうしても顔を見たくて、迎えにきてくれた昌健に着いてのこのことやって来てしまった。



 昌健が部屋の中を指差す。

 促されて範玲も、「失礼します……」と小さく言いながら部屋の中へと視線を彷徨わせると、寝台の上に横たわる姿が目に入った。

 額の上に手首を乗せた仰向けの状態のまま動かない。


「起こします」


 昌健が寝台に向かいかけたが、範玲が慌てて止めた。


「……大丈夫。このまま寝かせてあげて。疲れているはずだもの」


 範玲が小声で言った。


「……でも……」


 せっかく来てもらったのに、と昌健が眉を下げると、範玲は部屋の中へと視線を遣り、


「それで……あの……もしよかったら……お部屋に少し居させてもらってもいいかしら」


 範玲が遠慮がちに聞いた。


「寝てますけどいいんですか?」

「ええ」


 範玲が恥ずかしそうに頷くと、昌健は部屋の中を振り返って見る。そして、


「もちろん居ていただくのは構いません。何なら叔父上を起こしてもいいと思います。絶対に喜びますから」


 と、昊尚に似た青みがかった黒い瞳でにっこり笑って立ち去った。


 範玲は部屋へ入ると、昊尚の眠っている——正確には倒れ込んでいる——寝台へと音を立てないように近付いた。

 昊尚は仰向けで寝台に斜めに横たわっていた。恐らく寝台に腰掛けて、そのまま後ろに倒れ込んで眠ってしまったのだろう。

 慎重にそおっと昊尚の顔を覗き込む。

 額に置かれた右手に顔が半分隠されているが、左目は閉じて下向きになった長い睫毛が見える。整った寝顔は規則正しく息をしていた。

 流石に疲れているのだろう。顔色は良くはなかった。


 顔色は良くないが、無事な姿を間近に見ることができて、範玲はようやく胸の(つか)えが取れた気がした。

 理淑が範玲の耳飾りを取りに来て壮哲と佑崔の三人で黯禺を倒すことになったと聞いた時は、黯禺の対策のために朱国へ行くとは聞いていたにもかかわらず、心臓が止まるかと思った。

 昊尚が適任であることは間違いない。でも、やっぱり心配でたまらなかった。

 黯禺を始末してくるから家に帰ってて、と宮城で言われた時も不安で仕方なかった。

 だから話ができなくても、無事な姿をちゃんと確認したかったのだ。


 良かった。本当に。


 うっかり目が湿っぽくなったのを慌てて手でぱたぱたと仰いで乾かす。

 そして改めてその寝顔を見た。


 昊尚は常に忙しそうだ。執務時間の始まる前から登城して、遅くまで働いている。

 それは碧公である兄の英賢もそうではあるが、喜招堂の仕事を合わせたら、英賢よりも間違いなく業務量は多いだろう。

 それでも昊尚はいつも疲れた様子は見せない。

 範玲は一体いつ昊尚が眠っているのか不思議に思っていた。

 もしかして仙人の修行で眠らなくてもよい技を会得したのだろうか、とも勘繰っていた。


 でも。


 眠ってる……。


 じっとその寝顔を見つめているうちに、範玲からつい微笑みが溢れた。


 どういう訳か嬉しくなる。


 範玲はつい漏れそうになる忍び笑いを押さえるように、両手を合わせて口元に当てる。

 眠っている昊尚は無防備に見えた。いつもの隙のない昊尚ではない。


 すごい。これは思った以上に貴重な姿だわ。いつまででも見ていられる。


 範玲は昊尚の寝顔を指でつついてみたい衝動に駆られた。

 しかし、そんなことをすればせっかく眠っているのに起こしてしまう。

 だからその子どもっぽい欲望をぐっと抑え、見るだけで我慢をすることにする。


 しかし、昊尚は倒れ込んでそのまま眠ったからだろう、夜具をかけていないことが気になった。


 これでは風邪を引いてしまうわよね。何か掛けるものを……。


 上掛けは眠る昊尚の身体の下だ。取り出そうと引っ張ったりしたら起こしてしまう。

 何かないかと昊尚の部屋を見回すと、椅子に昊尚が着て帰ってきたと思われる外衣がかかっていた。

 それをそおっと持ち上げると、そろりそろりと再び寝台に近付いて、足元から慎重にゆっくりと外衣を掛けた。

 外衣を胸元のあたりまで持っていった時、突然、範玲の手首が掴まれた。


「あっ」


 範玲が思わず声を上げる。

 範玲の手首を掴んだのは、眠っていたはずの昊尚だった。

 慌てて昊尚の顔を見ると、長い睫毛はしっかりと上がっていた。そこから見える青みがかった黒い瞳は、細められて範玲の方に向いていた。


「え、えっと、おはようございます」


 焦った挙句、範玲から出たのは朝の挨拶だ。もう夕方なのに。


「おはよう」


 範玲の狼狽えぶりに笑いを堪えた昊尚が挨拶を合わせる。


「……ごめんなさい。起こしてしまって」

「いや。寝るつもりはなかったんだ。早く起こしてくれればよかったのに」


 そう言って、昊尚が身体を起こす。


「まだ休んでてください。少ししか眠っていないですよね?」

「大丈夫。とにかく寝たから」

「でも」


 範玲が言いかけると、昊尚は掴んだままの範玲の手を引いて、自分の隣に座らせた。

 昊尚は申し訳なさそうな顔で落ち着かない範玲に目を和ませる。


「君にこれを返しに行こうと思って帰ってきたんだ」


 そう言うと、昊尚は腰の荷包から深い青色の耳飾りを取り出した。

 黯禺に対抗するために預けたままだった玄亀の耳飾りだ。


「あ……いつでもよかったのに」

「そうはいかないよ。すまん。遅くなって」


 昊尚が微笑んで範玲の前に掲げたので、範玲が、ありがとうございます、と両手を差し出した。

 しかし昊尚は差し出された範玲の手に耳飾りを返さず、そのまま範玲の耳に触れた。

 驚いて首をすくめた範玲に、昊尚が楽しそうに笑う。


「動いたら着けられない。じっとして」


 そう言うと、昊尚は顔を真っ赤にしたまま我慢している範玲の右の耳に再び触れた。そして今ついている耳飾りをそっと外すと、持ってきた耳飾りに付け替えた。


 範玲が昊尚に耳飾りをつけてもらうのはこれが初めてではない。でもそれは意識がなかったり、気分が悪くなって倒れていたり、混乱していた時だ。

 こうして改まって着けて貰うのはこの上なく気恥ずかしかった。耳に触れる指もくすぐったい。


「よし。着いた」

「……あ……りがとうございます」


 俯いたまま範玲が小さな声で言うのを昊尚が愛しそうに見る。


「これを貸してくれて助かったよ。でなかったら流石に厳しかった」

「……元々昊尚殿がくださったものですから、いつでも」

「あんなことが度々あっては困るな」


 そう言って笑う。


「壮哲様のお怪我はどうですか?」


 昊尚の笑い声を聞いて、照れくささから復活した範玲が聞く。


「ああ。文始先生の薬と陛下の脅威的な回復力のおかげでもう大丈夫だ」

「よかった」


 範玲が笑顔で言うと、昊尚が名残惜しそうに範玲の手をとる。


「すまない。せっかく来てくれたのに、また宮城に行かないと」


 範玲が置かれた昊尚の大きな手の上に自分の手を重ねる。


「大丈夫です。昊尚殿の眠る貴重な姿が見られたので」

「そんなの、これからいくらだって見られる」

「そうなんですか?」


 首を傾げて範玲が昊尚を見上げる。

 すると、昊尚が悪戯っぽく見返して言った。


「結婚したら毎日」


 見るまに再び赤くなった範玲に、昊尚が楽しそうに笑った。





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