余話10 英賢と奏薫(後編)
「連れてきましたよ。母上」
いつの間にか部屋を出て行っていた恭仁が奏薫を連れて戻ってきた。
「ありがとうございます、恭仁様。さ、奏薫、こちらへきてお座りなさい」
菫香が言うと、恭仁がにこにこしながら英賢の前に座った。それを見て菫香が、ほほほ、と笑いながら立ち上がった。
「恭仁様。後は若い二人だけにして差し上げましょう」
恭仁の腕を取って立たせる。
「え? 私が一番若いですよ?」
きょとんとする恭仁に菫香が、あらあら、と更に笑う。
「恭仁様が今ひとつおもてにならない理由は、そういうところですよ?」
「ええっ!? それはどういうことですか? もう少し詳しく!!」
「後で教えて差し上げますから」
にこやかにいなすと、菫香は恭仁の背を押しつつ、英賢に「ごゆっくりね」と言い置いて侍女を引き連れ賑やかに去って行った。
賑やかだった部屋が静かになると、英賢が可笑しそうに言った。
「養妃様はとても朗らかな方ですね」
「はい。何度、養妃様のお人柄に助けていただいたか」
振り向いた奏薫の少し和んだ顔を見て目を細めると、英賢は自分の隣の椅子をとんとんと叩きながら言った。
「忙しいようですね」
奏薫が促されるまま英賢の示した椅子に几帳面に座る。
「それ程でもありません。……蒼国へ……行く、準備は、養妃様たちが全てしてくださっていますし……」
奏薫が”結婚”という言葉の代わりに、”蒼国へ行く”と言ったのに英賢が少し笑う。
「……養子縁組はうまくいきそうですか?」
奏薫の言う"準備"には、父親の統来と縁を切って、彼女の大叔父との養子縁組をする手続きも含まれるのだろう、と英賢が聞く。
「はい。……母の喪が明けて……王妃様たちが全て段取りをしてくださったので、もう数日中には手続きが済むとのことです」
そして言うべきか迷ったような間を置いて続けた。
「……その手続きを進める中で、柳家の当主と会う機会がありました」
現在の柳家の当主とは延士の兄だ。柳家の存続のために弟を庇うことをせず不正の証拠を捜索するのにも協力したと聞いている。
「……延士のことは申し訳なかった、と言ってくれました」
柳家の当主であるもう一人の従兄弟が理性的な人間であることはせめてもの救いだ。
「……それと……統来は……一家で逃げるように地方へ移ったと教えてくれました。とても虚栄心が強い人なのでもう都には居づらいのでしょう」
結局統来は、あんな目に遭わせた奏薫に対して謝罪の言葉すら口にすることなく去った。
そのことは非常に腹立たしいが、これまで奏薫を苦しめてきた統来とこれ以上関わりを持つ恐れがないのは奏薫にとっては最も望ましいことだ、と英賢は黙って聞いていた。
しかしそうなると、一つ気になっていたことが英賢の中で頭をもたげた。
英賢は俯く奏薫の青灰色の瞳を覗き込んで聞いた。
「……仕事は本当に辞めてしまっても良いのですか?」
奏薫の丁寧な仕事ぶりを間近に見て、優秀であることとは別に、仕事に対する愛着と誇りが感じられた。
それに気付いてしまうと、もしかしたら、仕事を辞めることは奏薫の本意ではないのかもしれない、という考えが改めて浮かんだのだ。
しかし奏薫は真っ直ぐに英賢を見ると言った。
「元々、母が亡くなった時点で辞めるつもりでしたから」
「もう貴女に不当な要求をする統来はいません。仕事を辞めることに未練は?」
奏薫がふるふると首を振る。
「確かに、仕事自体は好きでした。有難いことに、引き留めてもいただきました。……でも、私がいなくても、翠国に私の代わりはいくらでもいますから」
そう言う奏薫の青灰色の瞳は、強がっているわけでも、卑下しているわけでもなさそうだった。
英賢は、ふむ、と息をつくと、
「貴女の代わりはなかなかいないでしょうけど……。でも、そうですか……。貴女がそう言うのなら」
と、奏薫の手を取ってぽんぽんと優しくたたいた。その自分よりも大きな手をじっと見つめ、奏薫がぽそりと呟く。
「……仕事は…… 何処にもあります」
そして顔を伏せると更に小さな声で言った。
「でも、英賢様は……翠国にはいないので……」
英賢は俯いた奏薫を見つめた。
「……貴女という人は……しばらく会わないうちに、何処でそんな台詞を覚えてきたのですか」
そう言うと立ち上がり、ひょいと奏薫を抱き上げて自身の膝の上に座らせた。
「あ……あの」
戸惑う奏薫をそのまま抱きしめると、これ以上ない甘い声で囁いた。
「嬉しいです。私ばかり会いたいと思っているのかと少し心配していました」
「そんなこと……。とてもお会いしたかったです……」
奏薫の言葉に英賢が細い身体に回した腕に力を入れる。
「このまま連れて帰りたいな」
英賢が奏薫の髪に頬をつけて呟く。
「……もう少し待ってくだされば……」
奏薫が少しはにかみながら小さく言うと、英賢が囁いた。
「……じゃあ。我慢して一人で帰る私にご褒美をください」
「ご褒美、ですか?」
英賢の子どもっぽい言い分に奏薫が顔を上げた。
英賢は抱きしめていた腕を緩め、青灰色の理知的な瞳が戸惑うのを目を細めて見る。
「はい。そうです」
「何を差し上げたらよいのでしょう」
奏薫が薄い唇に細い指を当てて考え始めた。
「ご褒美になるようなもの……」
真剣に考え込む奏薫に英賢が堪らず笑いを漏らす。
「大丈夫です。ここにあります」
「……?」
思わず英賢を見た奏薫の少し開いたままの唇に、英賢が口付けをした。
英賢が唇を離すと、奏薫は切れ長の目を丸くして見る間に顔を赤くした。
それを見て英賢は嬉しそうに微笑むと、奏薫の頬に手を添えた。
「もう少しください」
そう言って英賢は再び奏薫の唇に唇を重ねた。
一度唇を離して、愛おしむように長い睫毛に縁取られた揺れる瞳を見つめる。そして更に啄むように何度も口付けをすると、細い身体を優しく抱きしめた。
「このご褒美は私以外にあげてはいけませんよ」
「……もちろん……当たり前です……」
消え入りそうな声の奏薫をきつく抱きしめる。
「……本気で連れて帰りたい……」
英賢は長い長い溜息を吐くと言った。
「貴女に久しぶりに会って、実は養妃様たちを少し恨みました」
「え……?」
奏薫が驚いて身を離すと、英賢がその美しい眉間に皺を寄せて奏薫の瞳を覗き込んだ。
「知っていますか? 自覚がないようですが、貴女はもともと美しいんです。ただでさえ目を引くのに、養妃様たちから手をかけられて化粧なんてしたから余計に……。ああ……貴女に懸想する輩が増えるかと思うと、本当に気が気ではありません」
更に続ける。
「久しぶりに貴女に会えて、嬉しくてつい皆の前で抱きしめてしまったというのは本当ですが、余りにも綺麗になっていたので周りの人間を牽制するつもりもあったんですよ。貴女を気遣ってくださる養妃様に感謝はしていますが、少々余計なことをしてくれたとも思っています。私の居ないところでずるいですよ。そうそう。さっきだって何人も貴女を振り返って見ていたじゃないですか。ああ、本当に心配だ」
次々と英賢から繰り出される愚痴を、奏薫は固まったまま聞いていた。
しかし。
「何をおっしゃるかと思えば……そんな心配なんて……」
奏薫が思わずくすりと笑った。
尚も吐き出しかけていた英賢の愚痴が止まる。
「……笑ったね……?」
嬉しさを噛み締めるように微笑み、英賢が奏薫の顔を覗き込む。
「……え?」
奏薫が英賢を見返す。
英賢は碧色の瞳に溢れそうな喜びを湛えて愛おしそうに奏薫を見つめると、その少し色づいた頬を長い指で撫でた。
「最高のご褒美をもらいました」
戸惑う奏薫に英賢が極上の微笑みを向ける。
しかし、突然その美しい眉間に苦悶の溝ができた。
「ああ、やっぱり駄目だ。これは無理だ。もう待てない。帰ったら即刻、速やかに、婚姻の申し込みの正式な文書を送ってしまおう。そんな笑顔を見たらきっと貴女に求婚する輩が出てくるに違いないですからね。駄目ですよ。不用意に他の者にそんな可愛い顔を見せては」
英賢はそう言ってから、あ、と声を上げ、悩ましげに唸り始めた。
「むむ……いや……そうだった。むうう‥…仕方ないな。さっき約束してしまったから養妃様にはお見せしてもいいです。でも他は駄目です。桐太子も駄目ですからね?」
言い聞かせるように見つめる英賢に、奏薫はきょとんとして目を瞬かせた後、蕾が開くように再び笑みをこぼした。
……ベタですみません。




