二年孟秋 天地始粛 7
*
結局、慧喬たちは月季には会わず、すぐに帰った。
壮哲は執務に追われて月季になかなか会えなかったので、夕餉を一緒にとるために、明日帰るという月季に会いに涼美殿を訪れた。
ちょうど来ていた理淑も同席することになり、賑やかな場となった。
食事を終え、佑崔に送らせることにした理淑を見送ると、壮哲が聞いた。
「どうした? 元気がないな」
食事の最中も、ふと考え込む様子が時折見えた。
月季が壮哲を見上げる。琥珀色の瞳が何かを言いたげに揺れた。
「座るか」
壮哲が中庭に置いてある石椅を目で示すと、おとなしく月季がそれに腰を下ろした。壮哲もその横に座る。
月季は膝の上に揃えた手をじっと見つめた。長い睫毛を夜風が震わせる。
「どうした?」
壮哲が再度聞くと、月季がぽつりと言った。
「母上と父上がいらしたのよね……」
「ああ。月季殿を呼びに行かせようと思ったんだが、いい、とおっしゃったから使いをださなかった。そうか。会いたかったか?」
「ううん。それはいいの。どうせ私も明日帰るし……」
そう言いながらも月季の長い睫毛は寂しげに伏せたままだ。
「じゃあ?」
壮哲が首を傾げて顔を覗くと、月季が膝の上の手を見つめたまま言った。
「……私ね、普段、母上の護衛をしてるの。お忍びで出かける時もいつも護衛としてお供してた。……今日、母上がお出かけになって……今回は私はここにいたから仕方ないのだけど、この先、蒼国に……嫁いでしまったら……もう母上の護衛はできないんだな、と思って……」
ひどく沈んだ声になる。
「そう思ったら何だか……」
「来たくなくなったか?」
壮哲が優しく聞く。
月季はふるふると首をふる。
「そんなことはない……。勿論、寂しいのもあるのだけど……」
膝の上の手がきゅっと握られる。
壮哲は俯く月季をしばらく見つめると、穏やかな声で言った。
「李将軍に聞いたんだが、将軍と一緒に慧喬陛下を守ると約束したんだって?」
月季が驚いた顔で壮哲を見る。
「父上とそんな話もしたの?」
微笑みながら、ああ、と壮哲が頷いた。
壮哲は昼間、李将軍が幼い月季とした約束のことを聞いていた。
*
ある日、月季が李将軍に聞いた。
「ははうえはどうして、いつも、ほかのひととばかりおはなしをしているの? わたしももっと、ははうえとおはなしをしたいのに」
大国の王として多忙を極める母親と過ごす時間があまりとれないことに、月季が頬を膨らませる。
李将軍はしゃがむと、月季に目線を合わせて聞いた。
「お前の母上が紅国の王様だということは知っているね?」
月季がこくりと頷く。
「こうこくでいちばんえらいひとなんでしょう?」
少し誇らしげに言う月季につい李将軍の頬が緩む。
「ああ。そうだよ。でも、偉い人、というのは、その分、その国の人たちの命と生活を守る責任があるんだ。沢山仕事をしなければならない。母上は一番偉いから、一番忙しいんだよ」
月季が目を丸くして李将軍を見る。
「そうなの?」
不思議だという顔で聞く。
「ああ。母上が仕事をしないと、たくさんの人がご飯が食べられなくなったりして困ってしまうんだ」
「えっ!?」
李将軍の言葉に月季が驚き、そしてしみじみと言った。
「……ははうえはたいへんなのね」
月季は小首を傾げて考え込んだ。そして、李将軍をまっすぐに見て言った。
「わたしもなにか、おてつだいできる?」
李将軍は思わず笑みをこぼして月季の小さな頭を撫でた。
「沢山色々と勉強をすれば、いつか母上のお手伝いができるようになるぞ」
そっか、と月季は呟いた後、李将軍をじっと見た。
「ちちうえも、おてつだいをしてるの?」
「ああ。勿論」
「ちちうえは、なにをしてるの?」
「母上は紅国の人たちを一生懸命守っているからね。私はその母上を守っているんだよ」
李将軍がそう言うと、月季は宝石のような瞳を大きくして更にきらきらと輝かせた。
「ちちうえ、すごい! じゃあわたしも! わたしもははうえをまもってあげる!」
月季が大真面目な顔で宣言した。
「よし。じゃあ一緒に母上を守ろうか」
李将軍が言うと、月季は大きく頷いた。
「やくそくよ」
この会話をきっかけに、月季は剣を習い始め、鍛錬を続けて慧喬の護衛を務めるようになったということだった。
*
「李将軍は、月季殿が慧喬陛下の護衛をする約束を守れなくなることを気にするかもしれない、と言っておられた」
壮哲が月季を見つめた。月季の瞳が揺れる。
「もしそういう話になったら、慧喬陛下は自分がしっかり守るから大丈夫だ、と言っておいてくれとおっしゃっていた」
壮哲が言うと、月季は泣きそうな顔で笑った。
「……父上は何でもお見通しなのね……」
「ああ。……李将軍と話して、月季殿を紅国から連れてきてしまうのが申し訳なくなった」
月季の瞳が穏やかになり、壮哲に首を傾げて言った。
「……じゃあ……取り止める?」
「……それは困るな」
壮哲が苦笑しながら月季の手に触れた。しかし月季がびくりとして触れられた手をぎゅっと握りしめた。
「……もしかして触れるのは嫌か?」
壮哲が手を離す。
「……あ、違うの……。嫌じゃないのよ。全然嫌じゃない」
月季が慌てて首を振る。
「えっと、むしろ……その逆……。でも、その……慣れなくて……すごく心臓に悪いのよ……」
そして俯き、真っ赤な顔でごにょごにょ言う。
普段の凛々しさがすっかり鳴りを潜めたその様子に壮哲が思わず目を細める。
「……それは、慣れてもらわないと困るな」
そう言って壮哲は、ほら、と月季の目の前に手を差し出した。
月季は壮哲をちらりと見た後、差し出された手にそうっと自分の手を乗せた。
すると壮哲は月季の手を指を絡めて握り直した。
固まった月季が、うう、と唸りながら真っ赤な顔で動揺しているのを壮哲は楽しそうに見る。
「私、きっと凄く面倒くさいのよ」
月季が溜息混じりに言う。
「知ってる」
壮哲が笑うと、月季が頬を赤らめたまま不満そうに壮哲を睨む。
「何よ。そこは嘘でも否定するところじゃないの?」
「そうか?」
壮哲がとぼけると、月季が、そうよ、と不貞腐れたように呟く。
「でも、そういうところも好きだぞ」
その言葉に月季の顔は更に赤くなる。
「そういうこと臆面もなく言うのやめて」
「嫌なのか?」
「……嫌じゃないけど……」
「じゃあ問題ないな」
そう言って嬉しそうに改めて月季の手を握る。
ますます顔を赤くして俯く月季を愛おしそうに見て壮哲が言った。
「実は、私は誰かをちゃんと好きになることはできないのじゃないかと思っていたんだ。……でも、そうじゃなかった」
月季がそろそろと壮哲を見上げる。
「最初は月季殿のことは気の強い面白い公主だな、くらいに思っていただけだったんだ。でも、口が悪いのに妙に人に気を使ったり、勝手かと思ったら真面目だったり、冷たく見えて情に厚いし、何でも器用にこなしそうなのに不器用だし、色々と一人で解決しようとして無茶したり……目が離せなかった」
優しい口調で壮哲が自分のことを語るのを聞いて、月季の瞼がじわりと湿る。
「怪我をしたと聞いた時は焦った。無茶をするなと言ったら関係ないと言われたのが、なかなか堪えた」
「あ、ごめ……」
月季が謝りかけると、壮哲が首を振った。
「いや、すまん。責めてるわけじゃないんだ」
そう言ってつないでいた月季の手をぎゅっと握りなおす。
「月季殿には無茶するなと言ったが、自分がその立場だったら、同じようにしたと思う。それなのに無茶をするなと言ったんだ。要らぬ世話だと思われても尤もだったし、心配だからと説教されるような間柄でもないと言われればそうだ。……だから、心配だからと言う代わりに、紅国の公主なんだからと誤魔化した」
壮哲が自問するように続けた。
「……どうしてあんなに腹が立ったのか……」
そして静かに言った。
「月季殿が大切なんだ」
壮哲の深く響く声に月季の胸は震えた。
「月季殿に何かあったらと思うと恐ろしいんだ」
月季の瞳は壮哲の瞳に繋がれたように動かすことができなかった。
「頼みがある。これからは一人で抱え込まずに私を頼ってくれ。……守られるのが苦手なんだろうが、守られることもちゃんと覚えてほしい。そして私にも守らせてくれ」
壮哲の縹色の瞳に見つめられて月季は泣きたくなった。
愛しい、という感情はこういうものなのか。
そう自覚した時、月季は自然と壮哲の肩に頭をもたせかけていた。
「……ありがとう。……好き。好きよ。貴方に出会えてよかった」
胸の中に溢れる想いは口にしないではいられなかった。
「……私も同じ。貴方が大切なの。……だから、私にも貴方を守らせて」
月季が言うと、壮哲は長く息を吐き、つないでいない方の手でもたせかけられた頭を撫でた。
「……月季殿には敵わないな」
愛しさが混じった苦笑いをこぼした。
しばらくそのまま座っていたが、壮哲が名残惜しそうに言った。
「……そろそろ戻らないとな」
「戻る? 仕事に?」
壮哲が立ち上がると、月季も一緒に立った。
「ああ。まだ今日中にやることが残ってるんだ」
「なのに来たの?」
「明日帰ると言うから、ちゃんと顔を見ておきたかった」
そう言って壮哲が月季の頬に触れた。月季の肩がびくりと振れる。
「やっぱり駄目か」
俯いた月季に壮哲が笑って言う。
「だから……急なことにはまだ対応できないんだってば」
「でも、しばらく会えないからよく顔を見せてくれ」
甘い声で言われて、月季が意を決して顔を上げた。
しかし恥ずかしいのを押し込めるとどうしても眉間が強張る。
「どんな顔だ」
壮哲が笑いながら、添えた指で月季の滑らかな頬を撫でた。
そしてその眉間に口付けをして月季を抱きしめた。
月季の心臓は心配になるほど早く打った。
でも。
その腕の中がどこよりも幸せな場所であることをもう知っている。
月季は目を閉じて身を預けた。
「……また来ていい?」
月季が聞くと、ふ、と壮哲が相好を崩したのが頬に伝わる振動で分かった。
「勿論。何ならこのままずっといてほしい」
月季の胸がときめく。
どうしてこの人はこんな言葉を惜しげもなくくれるのか。
幸せに溺れそうで頭がぼんやりとしてくる。そんな状態でも言っていた。
「……そうもいかないわ。本当ならば今日帰るはずだったんだもの」
言った後に、なんて可愛げがないのかと月季は自分に呆れる。しかし。
「真面目だな」
そう言って壮哲は笑うと、ぎゅっと月季を抱きしめた。
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翌日。月季は紅国へと帰って行った。
「藍公」
皇城の回廊で呼び止められて振り向くと、昊尚の元へ宗正卿が嬉しそうな顔でやってきた。
「どうされました?」
昊尚が聞くと手巾を取り出して汗を拭きながら言った。
「いや、芳公主に初めてお会いしました。何とお美しい方ですね」
月季が発つのを見送ったと言う。
「お妃様が決まってほっとしました」
人の好さそうな顔が、蒸したての饅頭のようにほくほくしている。しかし、ふとその顔が心配そうになった。
「……でも、今更こんなことを言っては何ですが……本当に紅国の公主様をお迎えすることにしてしまって陛下はよろしいのでしょうかね……。きっと国のためと決断されたのですよね。……陛下は無理をしておられないでしょうか……」
それを聞いて昊尚が笑った。
「大丈夫ですよ」
昊尚は、紅国へ輿入れの打診の返事を出すことにした時の壮哲を思い出していた。
執務室で昊尚が書類に目を通していると、突然壮哲がやってきて言った。
「お前にはっきり言っておくが、私は月季殿が好きだ。異性としてだからな。他に譲るつもりはないからな」
出し抜けに言われて昊尚が呆気に取られる。
「あ……ああ……。わかった」
かろうじて昊尚が答えると、壮哲は、よし、と確認するように頷き、晴々とした顔で出て行った。
その直後に行われた青公の会議で、紅国からの打診を受けることを改めて聞かされた。
思い出して昊尚は思わず笑いを漏らす。
「それに関しては何の心配もいりませんよ」
笑いを堪えながら言う昊尚を宗正卿が不思議そうに見る。
「そうなのですか?」
「ええ」
そして昊尚が珍しく満面の笑みを向けて言った。
「恐らく、べた惚れです」
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宗鳳二年十月朔日、秦壮哲王、紅国公主と婚娶の約を結ぶ。
(瓊玉の巻 了)




