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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
156/192

二年孟秋 天地始粛 4



 昊尚の事務室横の応接室に戻ると、忠全が部屋の前でいつもの如く泣きそうになりながら月季を待っていた。

 それを宥めつつ壮哲への面会を再度事務官に頼むと、会議が入ってしまったと申し訳なさそうに伝えられた。


 しかし、少しすると佑崔がやってきて、良かったら涼美殿を使ってくれという壮哲からの伝言をもらった。

 もう夕方近くなっていたので滞在先を用意してくれたということなのだろう。

 月季はその申し出を受けることにした。



 月季は涼美殿でそわそわしながら壮哲を待った。

 初めは室内にじっと座っていたが、堪らず外に出た。しばらく庭に咲いた木槿(むくげ)などを見ながらうろうろとしていたが、やっぱり落ち着かなく、素振りをすることにした。

 黯禺を始末するのに使った剣は今直しに出している。だから予備の剣ではあるが、琥珀の飾りは鞘に付け替えてあった。琥珀を指で撫でると、月季は剣を鞘から抜いて静かに構えた。


 気を集中させ、何回か素振りをすると、少し気持ちが落ち着いた。

 ほっと息を吐いて見上げると、まだ青い空が眩しい。

 西陽に照らされたぬるい風が頬を撫でていく。

 空の青さに壮哲の姿が浮かんだ。


 ……素直な気持ちを伝える。

 ただそれだけのことだ。


 月季は自分に言い聞かせた。

 よし、と気合を入れて、月季はもう一度、剣を握り直した。


 雑念を払うように素振りをしていると、突然、背後に気配を感じた。月季は振り向きざま剣を振り下ろそうとしたのを、寸前で止めた。


「物騒だな」


 壮哲が笑みを浮かべて立っていた。


「……気配を消して近づかないでよ。驚くじゃない」


 剣を下ろしながら月季が言う。


「いや、それはこちらの台詞だろう。いきなり斬りかかろうとするのはどうなんだ」

「その割には避けもしていないわよね」

「月季殿を信頼しているから」


 そう言って笑うので月季は、ふん、と横を向いた。


「待たせて申し訳なかったな」


 壮哲の声を聞きながら月季はゆっくりと剣を鞘に仕舞う。

 落ち着きはしたけれど、全く告白するような雰囲気ではなくなってしまった。

 月季は複雑な気持ちになる。


「会議が長引いた」


 少し申し訳なさそうに言う壮哲を月季が改めて見る。

 先ほど姿を見かけたが、月季がちゃんと壮哲の顔を見るのは久しぶりだ。

 もう黯禺の毒も抜けたのだろう。手にはまだ包帯が巻かれているが、以前の通り快活で覇気に溢れていた。


「忙しいのね。もう身体は大丈夫なの?」

「ああ。お陰でな」


 壮哲が月季に笑いかけた。

 陽の光の中でのその笑顔は、落ち着いたはずの月季の鼓動を一気に騒がせた。


「共氏の件は昊尚から聞いた。色々と調べてもらってすまなかったな」

「どういたしまして」


 壮哲の礼にも返事をそっけなくしてこれまでどおりを装ったが、そのまま次の言葉が出てこない。


「……中へ入ろうか」


 月季が黙ったまま立っていると、壮哲が建物へと歩き出した。


「あのね……」


 その背中に月季が呼びかける。


「ん?」


 振り向いた壮哲と目が合い、月季は思わず俯いて左の手のひらを右手の親指で擦る。


「……あの……輿入れの打診の件、だけど……」


 月季が切り出すと、少し間があった後、壮哲が言った。


「……すまんな。輿入れの話は受けさせてもらうことにした。月季殿の思いどおりにならなくて申し訳ないが」


 月季が壮哲をちらりと窺い見ると気まずそうな顔をしている。


「返事は待ってって言ったでしょう?」

「……そうだったか?」

「……そうよ。……どうして返事をしたの。しかも……」

「私が月季殿に蒼国の王妃になってほしいと思ったからだ」


 月季が言い淀むと壮哲がきっぱりと言った。


「どういう意味?」


 やっぱり紅国の公主が必要だからだろうか。


 月季は思わずきゅっと唇を噛んだ。そして次に口を開くと、言わなくてもいいことを口にしていた。


「……文莉殿がお妃候補だったんでしょう?」

「知ってたのか」

「……偶然聞いてしまったの。文莉殿なら……私よりも王妃には向いてるんじゃないの?」


 馬鹿だわ。私。

 素直な気持ちではあるが、これを言いたいわけじゃない。


 月季は会話の方向を間違えたのを後悔したが、後戻りは難しい。

 壮哲が月季をじっと見ている。月季は引くに引けなくなってその縹色の瞳を睨むように見返す。


 どうしたらいいの。


 月季が内心で焦っていると、壮哲が口を開いた。


「そうだとしても……」

「私のこと、好きになってよ」


 月季が咄嗟に壮哲の言葉を遮った。

 壮哲の縹色の瞳が見開かれ、月季の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 睨むように壮哲へ向けられた瞳は、西陽を受けて鞘につけた琥珀よりも煌めいていた。しかしいつもの強気な光は少し弱まり、どこか自信なさそうにゆらゆらと微かに揺れている。


「……それは……どういう意味だ?」


 壮哲が聞くと、月季は壮哲から目を逸らした。

 そして、再び左の手のひらを右の親指で擦る。


 ……もう駄目だ。台無しだ。


 月季は自分に絶望的になりながら言った。


「……腹が立つことに……貴方のこと、好きなのよ」


 月季の口から出た言葉に、壮哲が驚いたように目を瞬かせた。そして俯いて手を擦っている月季を見つめる。


「どんな言い方だ」


 そう言って笑うと、壮哲は擦り続けている月季の手をとった。

 月季が固まる。


「強く擦りすぎだ」


 壮哲が月季の手を片方ずつ持って擦るのを止めさせる。壮哲の手の中にある月季の左の手のひらは赤くなっていた。

 壮哲がその赤くなった部分を持った手の親指で撫でた。

 ばくばくと打っていた月季の心臓が、更に速くなる。


 これは何? 話をはぐらかそうとしているの?


 月季が混乱したまま壮哲の指を見つめていると、俯いた頭の上から壮哲の声が聞こえてきた。


「実はもうとっくに好きになってたから困ってたんだ」


 突然降ってきた予想外の言葉に月季の喉の奥がぎゅっと詰まる。


 今のは聞き違いだろうか。

 でなければ、国のために婚姻を円滑に進めようとする方便ではないのか。


 だって、自分のことを好きだなんて。


「……いい加減なことを言わないで」


 絞り出した月季の声は掠れた。


「いい加減になど言ってない」


 壮哲の穏やかな声は耳から胸に落ちていき、落ちた先を震わせた。

 瞼の裏がじわりと痛くなり、月季は泣きたくなるのを堪えて言う。


「……じゃあ、どうして困るの」

「月季殿にくれぐれも好きになるなと言われたからな」

「……だって」

「……それにはっきり好きじゃないと言われたしな。月季殿は好きな人との婚姻を望んでいたから、好きだと言って恭仁殿のように逃げられるのは避けたかった」

「……」

「紅国への返事は悩んだ。だけど、どうしても私が手放したくなかったんだ。月季殿は怒るだろうと思ったが……だから、取り下げをされる前に返事を出した」


 月季は自分の手を持ったままの壮哲の手を見つめた。


「……本当に?」

「ああ」

「あんな態度を取ってたのに好きになったって言うの?」

「だから困ってたんだ」


 壮哲が苦笑する。


「実は時間をかけて月季殿を(ほだ)していこうと思っていたんだが……」


 そう言って、ゆっくりと月季の手を引き、月季を抱き寄せた。

 月季は自分の心臓の音がこんなに大きく鳴るのを初めて聞いた。嫌ではないのに泣きたくなる。

 壮哲に抱き寄せられ、月季はどうしていいのかわからなかった。散々躊躇った挙句、恐る恐る壮哲の肩に頭を預ける。

 すると、壮哲が言った。


「よかった。逃げられるかと思った」

「……本当は逃げ出したいのを我慢してるの」


 月季がぽそりと言うと、壮哲が笑った。


「もう手遅れだな」


 そう言ってぎゅっと抱きしめ直した。ますます月季の鼓動が早くなる。


「月季殿は……もういいのか?」


 壮哲が肩にある月季の頭を見ながら言った。


「……何が?」


 気持ちの許容量が一杯一杯で、ぼうっとなりながら月季が聞く。


「もう昊尚は?」


 その言葉にぼうっとしていた月季の頭がすうっと冷えた。

 沈黙の後、月季から低い声が出る。


「……貴方って本当に無神経よね。……ずっとそうやって言うつもり?」


 壮哲が苦笑する。


「……すまん。もう言わない」


 月季は不機嫌なまま黙っていたが、まさかと思いつつ聞いてみた。


「……もしかして……妬いてる?」


 すると、少し間があり、溜息を一つ吐くと気まずそうに壮哲が言う。


「……ああ。そうだ」


 月季は壮哲の袍を掴むと言った。


「なら許すわ」


 壮哲は月季の機嫌が直った声を聞いて、「有難い」と再び苦笑した。

 そして壮哲が腕の中の月季を覗き込むようにして言った。


「さっきから顔を見てないんだが、顔を見せてくれないのか」


 しかし月季は壮哲の袍をぎゅっと掴んで俯いたまま顔を壮哲に押し付ける。


「嫌」


 壮哲が、ううむ、と唸りながら月季の頭を撫でていると、月季がおずおずと壮哲の背に手を回し、ぎゅっと手に力を入れた。そして。


「好き」


 月季が小さく呟いた。


 見たことのない素直な月季に虚をつかれ、壮哲が片手で目を覆う。

 更に、あー、と唸ると言った。


「……これは、卑怯だろう……」


 そのまましばらく固まっていたが、月季の背をとんとんと軽くたたきながら再び言う。


「やっぱり顔が見たい」

「嫌だってば」


 月季はますますぎゅうっと壮哲に顔を押し付ける。

 壮哲は、うーん、と再び唸ると、


「ちょっとごめんな」


 そう言って、月季に回していた手を解き、少し腰を落とした。

 そして、「え? 何?」と困惑する月季を、よいしょ、と抱え上げた。


「ちょっと、何するの……! やだ! 信じられない……!」


 不安定な体勢になって慌てて月季が壮哲につかまる。すると壮哲が目を細めてようやく現れた月季の顔を見上げた。

 はっと気付いた月季が両手で顔を隠す。


「手をどけてくれないか」

「嫌って言ってるでしょ」

「どうして」

「だって絶対変な顔してるもの」

「そんなことはなかったぞ」


 壮哲が嬉しそうに言うと、月季は足をじたばたさせて抵抗した。

 声を出して笑いながら月季を下ろすと、月季は顔を隠していた手を取って真っ赤な顔で壮哲を睨みつけた。

 しかし、壮哲は笑いながら言った。


「そんな顔で睨んでも可愛いだけだぞ」


 月季は更に顔を赤くして、声を出して笑う壮哲の腕を盛大な照れ隠しでばしばしと叩いた。

 壮哲が笑いを残しながら月季の腕を掴む。

 そして顔をしかめて見上げてきた月季を愛しそうに見て言った。


「改めて言うな。……月季殿、私の妃になってくれるか」


 月季は驚いてその縹色の瞳を見つめ返した。


 この人とずっと一緒にいたい。

 そう思える人が、自分に対しても同じように思ってくれている。

 半ば諦めていたことが自分の身に本当に起こったのだ。


「ん?」


 月季のゆらゆらと揺れる瞳を壮哲が覗き込むと、月季は泣きそうな顔でこくりと頷いた。


「……良い王妃になれるように努力するわ」


 その月季の言葉に壮哲が「真面目だな」とまた笑った。

 そして、


「そういうところも好きなんだ」


 壮哲は嬉しそうに月季を再び抱き上げた。


 



 離れたところから二人の様子をそっと見守っていた佑崔が、ほっ、と息を吐いた。


「さっきから何をされているんでしょう……。でも上手くいったんですよね? 月季様も嬉しそうに見えます」


 一緒にいた忠全が満面の笑みで佑崔を振り返る。


「ええ。大丈夫そうです。本当に良かったです」


 思わず相好を崩して佑崔が答えた。

 佑崔はずっと、壮哲には自らが、この人、と思った女性と結婚してほしいと願っていた。

 その願いが叶ったようで佑崔は心から嬉しかった。

 これまで、どれだけ佑崔が勧めても、壮哲は好意を寄せてくれた女性に興味を示そうとしなかった。

 今となってはそれも要らぬお世話だったな、と佑崔は苦笑する。

 縁というのは本当に不思議なものだ、としみじみと思いながら、佑崔は二人の姿に目を細めた。

 しかし、ふと、今日の文莉の姿を思い出し、胸がちくりと痛んだ。







「文莉殿」


 門下省の建物脇で月季を見送った文莉に佑崔が声をかけた。

 振り向いた文莉に佑崔が頭を下げた。


「ありがとうございました」

「何でしたでしょう?」


 戸惑いを瞳に浮かべて文莉が聞く。


「いえ……。壮哲様と月季様のことです。……申し訳ありません。月季様を探しに来てお二人が一緒なのを見つけて話を聞いてしまいました。無作法をしました」


 ああ、と合点が言ったように文莉が微笑む。しかし、ふふ、と笑うと悪戯っぽく言った。


「あら。私が月季様に意地悪でもすると思われましたか?」

「まさか」


 佑崔が苦笑すると、文莉が口元に手を当てて言った。


「でも少し意地悪をしてしまいました」

「え?」


 佑崔が聞いていた限り、文莉がそのようなことをした様子はなかった。

 弓形の眉を上げて驚いた顔になった佑崔を見て、文莉がくすりと笑う。


「壮哲様が月季様をお好きなことを月季様には教えて差し上げなかったのです。だって、月季様ったら壮哲様にあんなに想われていらっしゃるのに、自分は紅国の公主だから尊重されているだけ、なんておっしゃるのですもの」


 ふふふ、と楽しそうに笑う。


「あのようにお美しくて、お強いのに、本当に不器用な方」


 文莉が何かを見つめながら言った。

 佑崔がその視線の先をたどると、史館の脇の植え込みだった。花の時期を終えている木香茨(もっこうばら)の横に、一本だけ赤い花をつけている薔薇(しょうび)がある。


 月季花だった。


 その木は不器用に一人強がりを言う月季の姿のようにも見えた。


「そのようですね……。それに我が(あるじ)もどうも変なところで頑なというか……」

「お二人とも、お互い好かれていないと思っているのですものね」


 そう言って笑う文莉の笑顔は少し寂しそうに佑崔の目に映った。

 佑崔は姿勢を正し、あらためて頭を下げた。


「……色々と申し訳ありませんでした」


 文莉は微笑んだまま首を振った。


「月季様は王妃には相応しい方です。私が月季様に王妃になってほしいと思っているのは本心です。……それに、私のは元々叶う想いではなかったのです。壮哲様にも先ほど謝られてしまいました。ご心配をおかけして申し訳ないのはこちらです」


 文莉は肩をすくめた。

 そして大きく深呼吸するように息をすると、佑崔を見た。


「私は学問の道を極めますわ。そうですね……。こうなったら、太師を目指します。そしてお二人を支えます」


 そう言って寄越した笑顔は、白い紫薇(さるすべり)の花のように清々しかった。




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