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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
155/192

二年孟秋 天地始粛 3



 昊尚が事務官に言って壮哲へ取り次いでくれたが、壮哲は不在だということだった。

 月季はじっと待っているのも落ち着かないので、こっそりと忠全を置いて理淑の顔を見に行くことにした。


 気持ちを落ち着かせるため、ゆっくりと羽林軍の詰所へと歩いていると、紫薇(さるすべり)の木が花をつけているのが目に入った。よく見る紅色ではなく、涼やかな白色の優しげな花に気持ちが和む。

 ふとその紫薇の木の向こうに、背が高く体格の良い人物が目に入った。


 月季の鼓動が跳ねる。


 壮哲だ。


 声をかけてもいいだろうか。


 そう思いながら一歩踏み出した月季の足はすぐに止まった。

 壮哲は一人ではなかった。

 文莉が一緒だった。


 二人は何かを話しているようだ。

 白い花の間から見える柔和な雰囲気を纏った文莉は、精悍な壮哲と並ぶと対になっているかのように絵になった。

 それを見て月季は思った。


 きっと文莉ならば、王としての重責を負う壮哲を支え、癒すことができるだろう。

 それに比べて自分は。

 いつも突っかかる言い方をして、よく壮哲を呆れさせる。とてもではないが癒しなどにはなれない。

 壮哲は文莉と一緒にいた方が幸せになれるのではないか。


 その疑問への答えを見てしまったようで、月季の気持ちは沈んだ。




 月季はその場から急いで離れると、漠然と心の中に広がった惨めな気分を抱えたまま歩いた。

 壮哲たちからは見えないところまでくると立ち止まり、空を見上げた。

 空は見事に縹色(あお)かった。

 壮哲の瞳を思い出し溜息を吐く。


「どうするのがいいのかしら」


 空を眺めながらぼんやりとしていると、背後から声をかけられた。


「月季様でいらっしゃいますか?」


 振り返ると、少し驚いた顔をした文莉がいた。


「ご無沙汰をしております。蒼国へいらしてたのですね」

「ええ……」


 文莉に聞かれて歯切れ悪く月季が答える。先ほど見た光景を思い出し目が泳ぐ。

 文莉は月季に穏やかに微笑むと少し首を傾げた。


「何処かへ行かれるところでしたか?」

「え? ああ、いや」


 壮哲が不在だったのは文莉との予定のためだったのだろう。だとしたらもう時間を潰す必要はなくなっていることに気付いて返事が曖昧になる。


「範玲殿のところですか?」

「いや、そうではないけど……」

「そうでしたか。失礼しました。私は史館へ行くところでしたので、ご一緒かと思ってしまって……」


 月季が立ち止まっていたのは、門下省の建物のそばだった。範玲のいる史館は門下省の管轄でこの近くにある。


「……文莉殿は範玲殿と仲が良いのね」

「はい。仲良くしていただいています。時々、西内苑などお散歩にご一緒させていただくのですよ」


 文莉が穏やかに言う。

 そういえば初めて文莉に会った時も、範玲と西内苑に行ってきたところのようだった。

 月季がその時のことを思い出していると、不意に文莉が改まって言った。


「先日は、本当にありがとうございました」

「何のこと?」


 壮哲との縁談を邪魔したことになってしまった文莉に詰られることはあっても、礼を言われる覚えは月季にはなかった。

 どきりと打った鼓動を抑えつつ、表面上は平静のまま月季が聞くと、文莉が言った。


「例のあの魔物から守っていただいたことです」


 ああ、と月季の気が抜ける。


「別に大したことはしていないわ」


 月季が言うと、文莉がその凪いだ水面のような瞳をさらに和やかにした。

 月季は不思議に思った。


 どうしてこうも文莉は自分に対して平静でいられるのか。

 初めて会った時に、月季が紅国の公主と知って文莉の凪いだ水面のような瞳が揺れた。

 あれは恐らく、紅国が月季の輿入れの打診をしてきたのを知っていたからだろう。

 ……それに。紅国への返事のことは聞いていないのだろうか。


 月季が窺うように文莉を見ると、文莉は柔らかな微笑みを返した。

 しかし、少し迷ったように視線を落とすと、深呼吸するように大きく息を吸って言った。


「……実は私、壮哲様のお妃候補にしていただいていたんです」


 月季は思わず文莉を見つめる。


「壮哲様のことは……ずっとお慕いしておりました。でも、壮哲様はそのようなことにはご興味がないようで……」


 そこまで言って、文莉がくすりと笑う。


「私としては決死の覚悟で贈り物をしたり、お手紙を差し上げたり……何とか気持ちをお伝えしようとしました。なのに、それはあまり意味がなかったことはお妃候補の面接の時にわかりました」


 ふふ、と思い出したように更に笑った。そして、あ、と声をあげて慌てて言う。


「これは不満を申し上げているわけではありませんのよ。そんな無頓着なところも壮哲様らしくていらっしゃるから、それはそれで魅力だと思っています」


 文莉は月季に微笑むと続けた。


「ですから、候補選びの面接で、初めて直接お話ができてとても嬉しかった……。その後に内定したという話を漏れ聞いて……壮哲様のお妃様候補になることができたとわかった時は、本当に……天にも昇る心地でした」


 月季には、文莉がどういう意図をもってそんな告白をしているのか測りかねた。


 紅国からの輿入れの打診に対する返事を知っての抗議だろうか。


 月季はどう反応して良いのか分からず文莉を見つめることしかできなかった。しかし文莉は月季に何らかの言葉を求めているわけではないようで、話を続けた。


「……でも、すぐに月季様とのご縁談の話をお聞きしました」


 そう言った文莉の口調はあくまでも穏やかで、月季を責めているものには聞こえなかった。


「宮城の門のところで月季様に初めてお会いした時……直ぐに思いました。とても敵うはずがないな、と」


 あの時、文莉の穏やかな瞳が揺れたのは、やはり紅国からの打診を知っていたのだ、と月季が俯く。


「……でも、やっぱり壮哲様のことは諦められなくて……」


 文莉が苦笑いを交えた。


「それで、あの騒動の時、宮城にまで押しかけてしまったのです。私も少しくらいはお役に立てると壮哲様に示したかったのだと思います。だからあの時、連れて行ってほしいと月季様に無理を言ったのです。……浅はかでした」


 突然、話が思っていなかった方向に至り、月季はうまい言葉をかけられなかった。


 あれは自分の方こそ後ろめたくて文莉を連れて行ったのだ。配慮が足りなかったのは自分だ。


 そう考えていた月季に文莉が真っ直ぐに目を合わせた。


「なのに、月季様は私のことを身を挺して守ろうとしてくださいました。私の浅慮のせいで、月季様まで危ない目に遭わせてしまいました。……本当に申し訳ありませんでした」


 そして文莉が頭を静かに下げる。


「そんな……違うのよ」


 月季が慌てると、文莉が俯いたまま言った。


「あの時……月季様は私の盾になるようにして庇って、そして壮哲様と一緒に助けてくださいました。……そのお姿を見て、私などでは到底、壮哲様に並ぶことなどできない、と思い知らされました。対抗などしようとした自分が……本当に恥ずかしかった」


 月季は驚いて文莉を見る。


「なのに、月季様は迷惑をおかけした私のことを、一言も詰るようなことを仰らなかった」

「……あれは……私の責任だったからよ」


 月季が言うと、文莉が顔をあげた。その目は慈しむように月季に向けられた。


「そう。そのようにおっしゃって。月季様はご自分に厳しくていらっしゃると思います」


 文莉の言葉に月季の眉が曇る。


「……私は……貴女がそんなふうに思うような人間ではないわ」


 自分の想いを優先させて輿入れの申し入れの打診を取り消すことに躊躇していたのだ。

 その思いは消えない。


「いいえ。そんなことはないと思います」

「どうしてそんなことが言えるの? それに、私は貴女がお妃候補になったのを邪魔したのよ」


 月季が言うと、文莉が驚いたように目を見開いた。


「何をおっしゃっているのですか。月季様が邪魔をしたなんてことは決してありません。婚姻についてどうされるかは壮哲様ご自身がお決めになったことです」


 文莉は紅国へ輿入れを承諾する返事を出したことを知っているのだ。


 それに気付いて自嘲するように月季が言う。


「……壮哲殿は紅国の公主だから、縁組をしようと思っただけよ。私が紅国の公主だから、尊重してくれているの。それだけよ」


 壮哲に言われた”紅国の公主なんだから”が月季の頭に蘇る。

 文莉は困惑した顔で月季を見つめた。


「……月季様は……壮哲様のお気持ちをお聞きになったことはありますか?」

「ないけど……」


 月季の誰もが羨むような美しい顔が自信なげになる。そして俯いたまま沈んだ声で呟いた。


「正直なところを言うわ。貴女の方が壮哲殿には合ってると思った」


 その言葉に文莉の目が再び見開かれる。

 月季の美しい眉が歪んでいるのを見て、文莉が聞いた。


「……失礼を承知で申し上げます。月季様はもしかして私に罪悪感を感じてくださっているのでしょうか」


 文莉は黙ってしまった月季を困ったように見ると、穏やかな声で(なだ)めるように言った。


「もしもそうならば、その必要は全くありません」


 そして、続けた。


「私は月季様にこの国の王妃になっていただけたらとても嬉しいです」


 月季が思わず顔を上げると、文莉と目があった。

 その瞳は森の奥の湖のように優しかった。





 文莉と別れてしばらく平静を装っていたが、振り返って文莉の姿が見えないのを確認すると、月季は深く溜息をついてしゃがみこんだ。

 文莉が別れ際に遠慮がちに言った言葉を思い出す。


「月季様の壮哲様へのお気持ちを、ありのままにお話しされてみてはいかがでしょうか」


 そう言ってくれた文莉は壮哲のことをずっと好きだったはずだ。月季よりも間違いなく長く壮哲のことが好きだったのだ。

 それなのに文莉は背中を押してくれたのだ。


 月季は長い溜息を吐いた。


 本当に、文莉には全く敵わない。


 そんな文莉を差し置いてしまって良いのか、月季は益々わからなくなっていた。

 それに、壮哲に一体何と言えばいいのかさっぱり思い浮かばなかった。

 壮哲には「好きじゃない」ときっぱり言ったし、翠国の皇太子の恭仁からの求婚を断るために壮哲をダシにした時に「好きになるな」とも言い放った。

 今更どの顔で打ち明けろと言うのだ。


 思い出すにつけて言いたい放題だった自分を恨めしく思う。


 しかも。


 月季は再び溜息を吐いた。


 ……どうして昊尚のことを相談してしまったのか。

 壮哲には昊尚のことを色々と聞いてもらった。そのお陰で昊尚のことを諦めることができたのではあるが。


 しかし壮哲相手にうじうじと愚痴った自分が思い出される。

 それを考えてみるにつけて、壮哲はまだ月季が昊尚のことを好きだと思っているに違いないと確信できた。


 なのに壮哲のことが好きだなんて言ったら、移り気なやつだと呆れられるかもしれない。


 そう思うと月季の気持ちは折れそうになった。


 ……でも、やっぱりこのままでは文莉に申し訳ない。


 月季はのろのろと立ち上がった。





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