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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
152/192

二年孟秋 寒蟬鳴 23



 月季は壮哲に触れていた手をそっと離した。

 壮哲が無事だとわかってほっとしたことだけで一杯一杯なのに、更に意図してなかった気持ちに突然気付いてしまい、頭の中が対応不可能な状態だ。


 あんなに壮哲のことが気に掛かったのは、好きだったからだ。


 認めてしまうと馬鹿みたいに単純な話だった。

 壮哲の顔を見ながら途方に暮れていたところに、声をかけて昊尚が入ってきた。


「すまん。入るぞ?」


 顔を合わせ辛くて月季は昊尚の方を見ずに言う。


「壮哲殿は眠ってるわよ」

「そうか」


 昊尚は枕元まで来ると、壮哲の顔を覗き込んで額に手を当てた。


「やっぱりまだ熱はあるな」

「そうでしょうね」


 月季が言うと、昊尚が月季を見た。


「……大雅たちがもう朱国へ発つと言ってるんだがどうする? 李将軍も待っておられるが……」

「行くわ」


 父上にお礼を言わないと。


 そう思い月季が腰を浮かせる。


「いいのか?」


 昊尚が壮哲にちらりと目線を遣って言う。

 どういうつもりで昊尚が聞いたのか月季にはわからなかったが、その真意を問う勇気もなかった。


 壮哲のことが気掛かりなのは確かだが、身内でもないし親しいわけでもない自分が居座るのもおかしい。


 昊尚には返事ができずにいると、ちょうどそこへ水を換えに行っていた医官が戻ってきたので、後ろ髪を引かれながらも月季は部屋を出た。




 前を歩く昊尚の背中を見ながら、月季は昊尚と顔を合わせても胸の奥がしくりと痛まなくなったことに気付いた。


 良いことなんだろうけど……。

 つい最近までずっと昊尚のことが好きだったはずなのに、もう別の人に気持ちを移してしまったなんて。

 しかも既にお妃候補がいる人。

 最悪じゃないの。


 月季は昊尚に気付かれないように溜息を吐いた。




 大雅が待っているという部屋へ入ると、中には見覚えのあるがっしりとした背中が見えた。


「父上」


 月季が声をかけると、外を眺めていた李将軍が振り向いた。


「ああ。月季か」


 李将軍の顔を見て、月季の気持ちが少し緩む。

 小走りで近付くと、李将軍が迎えるように目を細めた。


「大変だったみたいだな」


 畏れを込めて"伝説の将軍"と言われているが、物腰は柔らかく、声も口調も穏やかで温かい。


「お前の怪我は大丈夫なのか」


 月季の左腕を見て聞く。


「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫。やっぱり父上に貰った剣じゃないと駄目ね」


 月季が言うと、ふむ、と李将軍が頷いた。


「あの剣は月季のための剣だからな」

「あれを黯禺に使うといいって教えてくれてありがとう」

「役に立ったか」

「ええ。とても」

「そうか」


 月季の顔を見ながら李将軍が微笑んだ。


「あの剣は、細身だが切れ味は申し分ないし、返り血を浴びないように、という注文をつけて特別に作ってもらったものなんだ。だから黯禺には向いていると思ってな」

「そうだったのね。そんな注文を付けて作ってくれたなんて知らなかったわ」

「お前が血に(まみ)れる姿など見たくないからな」


 李将軍が言うと、月季が少し照れて笑った。

 二人の会話をにこにこしながら見ていた大雅が、思い出したように昊尚に振り向いて言った。


「そいえば、辛受叔と一緒にいた男からは話が聞けた?」

「ああ。今、英賢殿が取り調べ中だ。だからあまり詳しいことはまだ言えないんだが……ちょっと紅国で確認して欲しいことがあるんだ」

「何?」


 大雅が聞くと、昊尚がその向かいに腰を下ろして言った。


「あの男の名前は共画甫だそうだ。紅国の出身だ」

「……あー、そう来たかぁ……」


 大雅が大きく息を吐いて椅子の背にもたれ掛かった。

 朝、大雅が宮城に着いた時に蒼国で起きた一連のことをあらかた話していた。共山甫の詩集に綴じられていた紙片のことも伝えてある。


「これであの紙片に書かれた言葉と受叔の行動が繋がった。画甫が受叔に教えたんだ」

「その画甫とやらは共山甫の子孫なの?」

「ああ。祖父の部屋で詩集に綴じられた紙を見つけたそうだ。その時に自分が申黄国の公主の末裔だと父親から聞いたらしい」

「じゃあ、その詩集は元々画甫の家にあったものだったんだ」

「そのようだな」


 昊尚は頷くと、一拍置いて続けた。


「そこでだ。この画甫の親族……できれば祖父に、あの言葉がどういう意味で伝えられてきたのか聞いて欲しいんだ」


 そう言うと昊尚が紙と筆を出して、(くだん)の言葉を書きつけた。大雅はそれを見つめる。


「虎深き海に沈む。(しこう)して底より(あらわ)る。()し正しくすること(あた)わざれば、(まさ)に貴石を砕くべし、か」


 大雅が声を出して読むと、昊尚が言った。


「蒼国の御璽を破壊すれば申黄国の”御璽”が復活する、そう受叔が思っていたのは確かだ。そのことは陛下が受叔自身に認めさせてたしな」

「にもかかわらず、突如として現れた虎が砕いたのは蒼国の御璽ではなく、申黄国の”御璽”だった」


 大雅が言うと昊尚が頷く。


「あの虎がもし、この言葉の"虎"だとしたら、受叔の解釈が間違っていたことになる」


 昊尚が腕を組んで、(つくえ)に置いた紙の上の文字を睨む。


「ならば本当はどういう意味なのか。推測ならいくらでもできるが、ここでいくら議論を重ねても推論でしかない。当の共氏の子孫のはずの画甫も受叔と同じ解釈だから当てにならない。だったら、この言葉を伝えてきた画甫以外の共氏に聞くしかない」

「なるほど。……画甫の家は紅国にあるんだね。わかった。引き受けるよ」


 大雅が卓の上の紙を手に取って振った。

 すると、それまで窓際に立って黙って聞いていた月季が言った。


「それ、私が行くわ」


 大雅が振り向いて月季を見る。


「頼んでもいいのかい?」


 月季は頷くと、鞘につけた琥珀を手に乗せて親指で撫でた。


「勿論よ。あの石を噛み砕いた虎はこの琥珀と関係があるのよね」


 あの時、月季の琥珀から出た光は引き寄せられるように虎へと向かっていった。まるで主の元へ帰るように。


「だったら私が行くべきよ。それに兄上たちはこれから朱国に行くのでしょう? 後始末とかあるでしょうし」

「そうだけど、月季はいいの? ……えっと、もう帰っても」


 大雅は言葉を選んだが、壮哲のことが心配だろうに、という意味だ。

 月季は太医署の前庭で大雅を前に取り乱したことを今更ながら後悔した。しかも大雅は月季が昊尚のことを好きだったことも知っている。そのことは月季に益々気まずさを感じさせた。

 だから月季は努めて淡々と言った。


「もう用事は済んだわ。それに母上に色々と報告しないと」


 壮哲のことが気にかかるのは事実だ。


 でも、特別に配慮されるような関係でもない。輿入れの打診の件も、月季が取り下げの方向で何とかするようなことを壮哲に言ってそのままだ。

 そう。今更どの顔で壮哲を好きだと言えるのだ。好きじゃない、ときっぱり言った相手に。

 少し頭を冷やすべきだ。壮哲の無事も確認できた。だからきっとちょうど良いのだ。


 そう自分に言い聞かせる。


「……じゃあ、お願いするね」


 月季の顔を探るように見て大雅が言った。





 話が終わると、大雅たちは朱国へと発つことになった。

 大雅は軍を率いてきたわけではなかった。ほんの数人でやってきており、朱国の方角に位置する青龍門の付近でそれらを待機させていた。

 門へ月季が見送りに行くと、黒ずくめの墨国の皇太子の騎駿もいた。


「これは芳公主」


 騎駿が月季に気付いて声をかけた。

 相変わらず騎駿の感情は全く読み取れない。この間の求婚のことは初めから無かったことのように以前と態度は変わらない。


「この度は夜雨を貸してくださってありがとうございました」


 苦手な相手ではあるが、夜雨を貸してくれたお陰で助かったのだ。月季も無礼な求婚の件については(おくび)にも出さずに礼を言う。


「芳太子に恩を売ることができたので礼には及びません」


 にこりともせず言うので、冗談か本気なのかわからない。


「そうですか」


 月季は取りあえず言うべきことを言ったので、それ以上は会話を続けることはせず早々に話を切り上げた。すると大雅が騎駿に言った。


「秀太子、もう黯禺はいないだろうから朱国に付き合っていただかなくても大丈夫ですよ」


 騎駿は大雅を切長の目でじろりと見たが、あっさりと同意した。


「そうですね。朱国から墨国には派兵の要請はきていませんでしたからね。では私はここで失礼することにします」

「すみませんでしたね。ありがとうございました」


 その会話を怪訝な顔で見ている月季に大雅が言った。


「……秀太子も黯禺に思考を読まれないようなんだよ」


 月季が驚いて騎駿を見る。


「そうなんですか。……秀太子もそういう訓練をされたのですか?」

「いいえ。そういった訓練はしていません。しかし私は黯禺に思考を読まれないようで、以前黯禺に出会った時も気付かれませんでした」


 月季はますます怪訝な顔で騎駿を見た。


 そんなことがあるのだろうか。

 もしかして、読まれるような感情の動きなどといったものが元々備わっていないのかもしれない。

 改めて見ても、切れ長の不機嫌な目元から見える黒い瞳からはおよそ温度が感じられない。氷点の黒太子と渾名されるのも頷ける。


 この男ならあり得る……。


 不思議なものを見るような月季の視線に気を止めることもなく、騎駿が何かを探すように辺りを見回しながら言った。


「では、失礼します」


 そして、ひゅうっ、と口笛を吹いた。

 すると、どこからか夜雨が飛んできて騎駿の肩に止まった。

 強面の横に愛嬌のある顔が並んだ。


「どこに行ったのかと思ってました」


 そう言って大雅がその絵面に微笑む。


「遊んできたようです」


 騎駿はしれっととぼけた顔で肩に止まっている夜雨を横目で見て、珍しく少し目元を緩めた。





 大雅たちが発つと、月季も紅国へ帰る準備をした。

 そのまま出発してしまおうとしたが、やっぱりそれはできなかった。

 月季は壮哲への面会を求めた。

 部屋に入ると、壮哲は寝台にはいたが、起きて座っていた。


「寝てなくていいの?」


 月季が驚いて聞くと壮哲が言った。


「ああ。もう寝てる必要はないくらいだ」


 顔色は若干悪いが、壮哲が言うように覇気は戻っているように見えた。

 月季は文始先生の黯禺専用の毒消しの効果と壮哲の回復力に驚嘆する。

 これならば心残りなく帰ることができる、と内心でほっと息を吐く。


 しかし月季は心配していた素振りを隠した。


 今までの自分を考えると、そんな態度を見せられても壮哲が困るだろう。


 月季はわざと素っ気なく言った。


「だとしても、もう少し大人しくしてたら」

「月季殿に言われたくないな」


 壮哲が可笑しそうに笑った。楽しげな縹色の瞳を向けられて思わずどきりとする。

 そこにふと文莉の柔らかで優しい顔が浮かぶ。

 転びかけた文莉を抱き止めた壮哲を見て、お似合いだ、と感じたことを思い出し、しく、と胸の奥が疼いた。

 黙り込んだ月季を覗き込むように首を傾げて壮哲が聞いた。


「もう帰るのか」


 月季は覗き込まれたのに気付いていないように視線を流して言った。


「ええ。紅国(うち)の陛下に報告しなきゃいけないことも沢山あるし、昊尚殿に頼まれたことも確認したいし」

「そうか……。共氏のことか。すまんな」

「別に。自分のすべきことをするだけよ」


 生真面目に言う月季を見つめると、壮哲がしみじみと言った。


「……月季殿には礼をしないとな」

「何それ」

「黄翁が受叔なのも、黯禺がいることも、蒼国(うち)に受叔が来たことを教えてくれたは月季殿だ。それに剣を貸してくれたり、毒消しを持たせてくれたり、私が今こうしていられるのも月季殿のお陰だ」


 心のこもった壮哲の深い声に、月季の目の奥がじわりと痛くなる。

 壮哲がちゃんと無事で、しかもそんなふうに思ってくれただけで十分だ、と月季は思った。


「ま、無事でよかったわ」


 ふい、と横を向いて無愛想に言ったが、それは月季の心からの言葉だった。




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