二年孟秋 寒蟬鳴 22
その異様な光景に周囲が躊躇う中、光を纏った虎が回廊の上から地面に降り立った。我に返った兵士たちが虎を囲んで剣を構える。
兵士たちには目もくれず、虎はゆっくりと受叔の方へと歩く。その姿に受叔が満足げに目を細め、虎を迎えるように一歩足を踏み出した。
その時、虎がつと立ち止まり、空気を震わせるような声で吠えた。
「ひっ!!」
受叔の身体がびくりと跳ね、その拍子に手にしていた金剛石を取り落とした。
すると、虎はしなやかな動きで受叔の前へ進み、その金剛石を咥えた。
「ああ……拾ってくれたのか……」
受叔は金剛石を受け取ろうと虎に手を差し出した。
しかし、虎は受叔に一瞥もくれず、天を仰ぐように鼻先を上げた。
そして次の瞬間、その鋭い歯で輝く金剛石を噛み砕いた。
「何をするっ!!」
石の砕ける音と共に受叔の驚愕の悲鳴があがる。
砕けた金剛石の破片は弾け飛び、きらきらと光を放ちながら地面に散らばった。しかしそれらの欠片はすぐに輝きを失い、元のくすんだ黄色に戻った。
それをじっと見ていた虎は、再び鼻先を天に向けて長く咆哮した。
すると虎を包んでいた光が強くなり、目を開けていられないほどになった。
爆発的な光が収まり、目を開けた人々の前に虎の姿はなかった。夜が明け始め、その薄明の光の中で目に入ったのは、ただ地面に散らばった金剛石の欠片だけだった。
目の前で起こったことに、その場にいた誰もが立ち尽くすしかなかった。
驚愕の表情のまま棒立ちになっていた受叔が、低く掠れた声で呻きながら膝から崩れ落ちた。地面に散らばった金剛石の欠片を呆然と見つめる。
「……私の御璽が……」
震える指で欠片を拾い上げて呟く。
月季は言葉を発することができないまま、受叔から手元にある琥珀に目を移した。
琥珀は元のとおり、月季と慧喬の瞳と同じ色で輝いている。
「何が起こったんだ……」
月季の手の中の琥珀を覗き込み、壮哲が月季の心中と同じ言葉をこぼす。
「……そうか……」
身じろぎできず一連の出来事を見守っていた昊尚が呟いた。
「"虎深き海に沈む。而して底より見る。如し正しくすること能わざれば、応に貴石を砕くべし"……」
文莉が持ってきた共山甫の詩集に綴じられていた紙片の言葉だ。
壮哲が驚きの色を交えて昊尚を見る。
「今の虎が……その文の虎だというのか……?」
「……それは……わかりませんが……」
昊尚が一旦言葉を切り、考えながら続けた。
「しかし、琥珀は虎の魂が石になったものとも言われます。そして……月季の琥珀……それは、玄海で採れたものだと譲ってくれた者が言っていました」
昊尚が月季の持つ琥珀に目を遣る。
その琥珀は、昊尚が慧喬から直々に依頼されて探し求めた。慧喬と月季の瞳の色と同じものを探すのに苦労し、ようやく手に入れたものだった。
「なるほど。深き海に沈む……。玄海か……。確かにそう言えるな……。この琥珀が実は申黄国の象徴であった虎の魂だったということか……?」
壮哲も考え込み、首を傾げた。
「だとしても、じゃあ、何のためにあの金剛石を噛み砕いたんだ?」
「ええ。……それですが、もしかしたらあの言葉の解釈が間違っていたのかも……」
昊尚が言いかけた時、呆然として座り込んでいた受叔がふらりと立ち上がり、壮哲の方へと足を踏み出した。
「捕えろ!」
それに気づいた兵士が取り押さえる。
「放せ」
受叔が兵士を振り解こうともがきながら壮哲に言った。
「話したいことがある」
壮哲が月季を背後に置いて受叔の視線から遮るように立ち、月季に少し離れるように合図をして聞いた。
「何だ」
兵士の拘束を解かれた受叔が壮哲の前へと一歩踏み出した。
受叔は壮哲の前に立つと、縛られたままの手を自分の首に当てた。
そして、笑った。
次の瞬間、受叔が自分の首に当てた手を勢いよく手前に引いた。その直後、受叔の首から血が吹き出した。
「受叔!!」
首から血を流し、壮哲の方へと倒れ込んだ受叔が壮哲の手を掴んだ。
「……っ!」
受叔のその血まみれの手には、先ほど虎により砕かれた金剛石の欠片が握られていた。その金剛石の欠片で受叔は自らの首を掻き切り、そして壮哲の腕を掴むふりをして切り付けた。
「壮哲様!」
血相を変えて飛んできた佑崔が壮哲から受叔を引き離す。
「……大丈夫だ」
壮哲はそう言って顔にかかってしまった受叔の血を袖で拭い、ぺっ、と僅かに口に入ってしまった血を吐き出す。
そして受叔に切り付けられた手の甲の傷を見た。血まみれの手で掴まれたため酷い状態に見えたが、傷自体は大したものではなかった。
しかしやけにどす黒い血だ。
そう思った時。
壮哲から引き離された受叔が、首から血を流しながら憎々しげに叫んだ。
「はははは……! 道連れにしてやる……! 毒を帯びた私の血でお前もな!」
*
太医署の前庭では月季が一人佇んでいた。
受叔はあの後、首から大量の血を流して息絶えた。
昊尚がそばで呆然と見ていた画甫の胸ぐらを乱暴に掴んで問い詰めると、受叔の身体には積年の実験により黯禺の毒が蓄積されていたらしいとの証言を得た。
つまり信じ難い話だが、受叔の血には黯禺の毒が含まれているということなのだ。
壮哲はその血を浴びた。手の甲に付けられた傷にも血が塗りたくられた。おまけに口にも僅かだが入ったようだ。
壮哲は腰につけた荷包の毒消しを飲むと、受叔の血を他の者に広げないようにと自身で太医署へ向かった。
現在、壮哲は太医署にいるはずだ。
けれども先に見た血に塗れた壮哲の姿が、月季の目の前にちらついた。
大丈夫だ、と言っていたが壮哲の額には脂汗が浮いていた。無理をしているのは明白だった。やはり受叔の血には本当に毒が含まれているのだと推測できた。
黯禺本体の血よりも恐らく毒性は弱いだろう、と昊尚は言っていた。
月季は自分の時はどうだったのかを考えた。朱国で黯禺に殺されたと思しき遺体をつついた土螻の角に腕を傷つけられた時のことだ。
体調が悪くなったのは、朱国を出てから少ししてからだった。毒消しを飲んでから一日半ほどで体調はほぼ回復している。傷自体はまだ痛みはするが大したことはない。
それに比べると、壮哲には随分早く症状が出た。となると、毒性も月季の時よりも強いのだろう。
再び辛そうな壮哲の姿が目に浮かび、月季の鳩尾はぎゅっと掴まれたように痛んだ。
「月季」
名前を呼ばれて月季が振り返ると、大雅がいつもと同じ人懐こい顔で歩いてくるところだった。
夜が明けて開門された白雁門から采陽に入ってやって来たのだろう。
大雅がいるのを見てようやく、月季はすっかり陽が昇っていることに気付いた。
「こんなところで何してるんだい? 怪我はもういいの?」
大雅が月季に聞いた。
「壮哲殿が受叔に……」
いつになく頼りない声に、大雅が思わず足を止めて月季を見つめる。しかも大雅が聞いたのは、月季の怪我のことだということに気付いていないようだ。
大雅は太医署へと視線を向けた。話を月季に合わせることにした。
「ああ。聞いたよ。心配でここで待ってるのかい?」
「そんなんじゃないけど……」
月季はいつものように強く否定ができなかった。そんな月季に歩み寄ると大雅が言った。
「文始先生の作った黯禺専用の毒消しを昊尚に渡した。だから壮哲殿は大丈夫だよ」
「黯禺専用?」
「そう。玄海の奥で見つけた小屋に黯禺の内臓とかがあったって言ってただろう? それを元にして先生が新たに作ったんだ」
「本当に?」
「本当だよ。前の万能毒消しよりも格段によく効くはずだって先生が言ってた。調べたら色々と黯禺の毒を研究した痕跡があったって。きっとあの小屋は受叔のだったんだろうね」
月季の膝から力が抜けた。
「そうなのね」
そう言ってしゃがみ込んだ月季の背中を大雅が撫でる。
「うん」
大雅は膝のところでぎゅっと握った月季の手が震えているのを見て、しばらく黙って背中を摩った。
「落ち着いた?」
手の震えが収まった頃合いを見計らって大雅が月季を覗き込む。
月季がバツが悪そうに頷くと、大雅が少し笑った。
「よかった。顔色が戻ったね。ひどい顔をしてたよ」
顔を隠すように頬に手をやって月季が誤魔化すように聞いた。
「どうしてここにいるの?」
大雅は、よいしょ、と立ち上がると、手を引いて月季も立たせた。
「月季が朱国に黯禺がいるって教えてくれたから朱国へ向かってたんだけどね、途中で、受叔が蒼国に入ったと聞いて、急遽行き先を変えたんだ。そうそう。父上も一緒だよ」
「え? そうなの?」
「夜雨に届けてもらった玄亀の石は父上のだよ」
「そうだったのね……」
首にかけた玄亀の石を衣服の上から握る。
「秀太子もいるの?」
「うん。騎駿殿はね、ちょうど紅国に来てて、父上と私で出かけようとしていたら、一緒に行くと言ってついて来たんだ」
そこで大雅が何故か口を開けたまま一旦固まったが、気を取り直したように続けた。
「お陰で夜雨を借りて月季に連絡できて助かったけど」
そこへ昊尚がやって来た。
「ここにいたのか」
月季を探していたようだ。月季がはっとして振り向く。
「壮哲殿は?」
昊尚へ返事をする前に聞く。
文始先生の新しい薬は効いたのだろうか。
月季の強張った顔を見て昊尚が安心させるように言った。
「大丈夫だ。すぐに毒消しを飲んだことに加えて文始先生の黯禺専用の毒消しがよく効いた。もう全く心配ない」
それを聞いて月季は大きく息を吐いた。
昊尚は月季を目を細めて見ながら聞いた。
「会うだろ?」
「いいの?」
「当たり前だ」
他国の人間である自分は壮哲に付き添うような立場にない。
月季はそう思い、せめてもと太医署が見えるところにいたのだ。
「お前がくれた毒消しのお陰で軽く済んだんだ。恩人だって大きな顔をしていいんだぞ」
昊尚が言った。
部屋に入ると、壮哲は寝台に横たわり目を閉じていた。
眠っているのか、と近付いてみると壮哲の目が開いて月季の方を向いた。
「月季殿か」
壮哲が呼びかけた。しかしその声は少し嗄れていた。
やはり毒の影響があるのだろう。
「……大丈夫なの?」
「ああ」
壮哲の様子はいつもよりも覇気がなく気だるく見えた。
部屋には医官が一人いたが、月季に気を遣ったのか、水を換えてきます、と手桶を持って部屋を出ていった。
医官を見送ると、月季は壮哲に近寄ってみて目を見開いた。
目元にも受叔の血がかかったようで、赤く炎症を起こしているのがわかる。
「……目には入らなかった?」
声が思わず緊張する。
「ああ。大丈夫だ。月季殿の顔もちゃんと見えるぞ」
「そう。よかった……」
ほっとしてうっかり泣きそうになるのを眉間に力を入れて堪える。すると壮哲が首を傾げて言った。
「……いや……目か……。おかしいのかな……」
「え……?」
月季がぎくりとして固まると、壮哲が目を眇めて月季の顔を見た。
「月季殿の顔が泣きそうな顔に見えるな……」
月季は慌てて大袈裟に顔をしかめて見せた。
「泣くわけないでしょ。馬鹿ね」
「そうか。そうだな」
そう言うと壮哲が少し笑った。細められた目から覗く縹色は変わらず空と同じ色だった。
再び泣きそうになるのを不機嫌な顔で誤魔化す。
しかし壮哲はそれを気にした様子もなく言った。
「月季殿にもらった毒消しをすぐ飲んだのが良かったらしい。助かった。それにさっき文始先生の黯禺専用の毒消しも飲んだしな。すぐに良くなると思う。……ただ、やたらと眠いな……。これは毒消しが効いてるということなんだよな?」
段々と話す速度がゆっくりになってくる。
「そうよ。もう喋らなくていいから寝なさいよ」
月季が言うと、壮哲がうとうととしながら苦笑した。
「すまんな……」
そう断って壮哲はまもなく眠りに落ちた。
眠る壮哲の顔をしばらくぼんやりと見ていたが、あまりに静かで月季はふと不安になった。月季は夜具の外に出ていた包帯の巻かれた手に恐る恐る触れてみた。
包帯越しにほんのりと伝わってきた温かさにほっとしたと同時に、胸の奥に何かがじわりと溢れそうになり、また泣きそうになった。
月季は認めざるを得なかった。
壮哲を好きだということを。




