二年孟秋 寒蟬鳴 21
建物の影に置いて行かれた月季は、来るなと言われたが、ようやく腰から外すことができた剣を手に壮哲たちの後を追った。
走りながら月季は舌打ちをする。
剣を渡せなかった理由が、壮哲の無事な姿を見て気が緩んだことだということに余計に腹が立つ。
悲鳴が上がったのは滄明門より南へ行ったあたりだと見当をつけて向かった。
三人の姿が見えないことに不安になりながら建物を曲がると、すぐそこに壮哲らの後姿が見えた。
その先に黯禺がいた。足元には無惨な姿になった犠牲者が転がり、手には何かをぶら下げている。それでも飽き足らないのか、建物へと逃げていく兵士の後へと向かおうとしていた。
「あれは……!!」
月季は思わず声を上げた。逃げる兵士を誘導している理淑を見つけたのだ。月季が焦って足を踏み出したと同時に、佑崔が黯禺に向かって剣を投げた。
佑崔の投げた剣が当たって、黯禺が動きを止めた隙に逃げそびれていた兵士たちが建物の中に避難していった。
月季がほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、振り向いた黯禺がものすごい勢いで壮哲たちの方へと向かって来た。
壮哲たちが標的にされているのだ。
玄亀の石を持っているのに何故だ。
月季は駆け出そうとした。
しかし、予定どおりというように、丈の長い外衣を手にした昊尚の前に空間を開けて壮哲と佑崔が左右に分かれた。
黯禺が向かう先にいる昊尚は、動じる様子もなくただ立っている。むしろ迎えるように。
そうか。
囮だ。
昊尚は玄亀の石を持っていないのに黯禺の討伐に加わっている。何故なら、昊尚自身が、玄亀の石が無くとも自在に思考を漏らさないようにでき、黯禺にその気配を気付かれることがないからだ。
黯禺が今昊尚の元へ向かっているということは、昊尚が故意に思考を流しているのだ。
黯禺を誘き寄せるために。
そして昊尚より向こうに立った壮哲と佑崔が黯禺を迎えるように、静かに剣を構えていた。
「頼むぞ昊尚」
曹将軍と理淑が残っていた兵士を避難させたのを確認して壮哲が言うと、昊尚がその青味がかった黒い瞳を真っ直ぐに黯禺に向けたまま応えた。
「二人こそ」
黯禺が昊尚をめがけて走ってくる。
昊尚が囮になって黯禺を誘き寄せ、壮哲と佑崔が迎え打つ算段だ。
黯禺を誘き寄せるために昊尚が囮となることは、蒼翠殿から黯禺を追ってくる際に決めた。
悲鳴が上がった方へ来てみると、逃げ遅れていた兵士たちを襲う黯禺がいた。それを見た佑崔がすかさず持っていた剣を投げた。剣は黯禺に当たっただけで剛い毛に跳ね返されたが、黯禺の気が逸らされたその隙に兵士たちは建物の中へ避難した。
振り向いた黯禺は、そのまま思考の遮断をやめた昊尚へとその矛先を向けてやってきている。
剣を投げてしまった佑崔に昊尚が、これを、と自分の剣を放ってやった。佑崔が、すみません、と謝りながら剣を受け取ったのを確認すると、壮哲は手にした剣を握り直した。
勢いよく向かってきた黯禺は、昊尚に届く手前でふと急に失速し立ち止まった。
昊尚が思考の流れを遮断したのだ。目標を突然失った黯禺は、壮哲と佑崔の間でうろうろと何かを探し始めた。
壮哲と佑崔がそれを前後から挟むように近付き、昊尚も外衣を手にして黯禺の元へと向かう。
黯禺との距離を詰めると、壮哲が昊尚に合図を送った。そして、昊尚が手にしていた外衣を黯禺へと投げたと同時に壮哲と佑崔が黯禺に向かって剣を振り上げた。
佑崔の剣が正面から黯禺の喉元を狙った。
しかし、昊尚が投げた外衣がその身に被さるその瞬間に、黯禺が想定外の動きで体の向きを変えた。
返り血を避けるための方策が裏目に出た。外衣の下で図らずも起こった見えない動きで標的がずれてしまったのだ。
それに加えて、想像以上に黯禺を覆う毛は厚かった。
佑崔の剣身はその肉に突き刺さる前に剛い毛に阻まれ、更に黯禺が身を捻ったことで佑崔の剣は黯禺に剣先が刺さったまま折れてしまった。
被せられた外衣と喉元に引っかかった剣を、虫を払うように不快げに振った黯禺の手を佑崔が辛うじて避ける。
背後から狙っていた壮哲の標的もずれてしまった。それに気付き壮哲は黯禺に至る僅かのところで剣を止めた。
そこへ外衣を払いのけた黯禺の腕の先に付いている禍々しい爪が壮哲に向かう。
咄嗟に剣で避けたがその爪をかすった刃が欠けた。びゅう、と音を立てて空を切る剥き出しになった腕をくぐって黯禺から退いた。
「……っ!!」
膝をついた壮哲が体勢を立て直そうとした、その時だった。
「壮哲殿!! これ使って!!」
その声に振り向いた壮哲は目を見張った。
こちらに駆けて来ながら月季の投げた剣が、壮哲目がけて飛んでくる。
壮哲は自分の刃の欠けた剣を手放し、飛んできた剣を掴み取ると、思い切り地面を蹴って跳んだ。そして高く振りかぶり、奥歯を噛み締めながら目の前に立つあらわになった標的に真上から剣を突き立てた。
壮哲の突き立てた剣は剛い黯禺の毛を断ちながら首の付け根にあたる部分から胸の中心へと一直線に沈み込んでいく。月季の細身の剣は、血を溢れ出させることなく黯禺を貫くように深く刺さった。
剣を刺したまま壮哲が跳び退くと、黯禺はぶるぶると痺れたように体を震わせ、刻が止まったように棒立ちになった後、ゆっくりと倒れた。
辺りに砂煙が上がり、黯禺が動かなくなるのを見極めるように静寂と緊張が広がった。
「壮哲様!」
「陛下!」
砂煙の中、昊尚と佑崔が壮哲の元へと駆け寄った。
「お怪我は!?」
青い顔で聞く佑崔に頷くと、壮哲が大きく息を吐いて黯禺を見ながら答えた。
「ああ。無事だ。お前たちも大丈夫か」
二人とも怪我がないのを確認すると、壮哲は少し離れたところに立つ月季へと歩を進めた。
「月季殿」
壮哲の声で、月季は自分が思わず息を止めていたことに気付き、大きく息を吐いた。
「怪我は?」
青い顔で立っている月季の頭からつま先にざっと視線を走らせると、厳しい面持ちのまま壮哲が聞いた。
「あるわけないでしょう。近寄ってないんだから」
安堵のあまり声が震えそうになるのを誤魔化そうとして、語気が少し強くなる。
しまった。
月季は後悔したが、そのいつもの口調に、却って壮哲の目元が緩む。
「ならよかった」
そして横を向いた月季に言った。
「……剣をありがとう。助かった」
壮哲の穏やかな声を聞いて月季の目の奥がじわりと痛くなる。
月季は、自分が思っていた以上に壮哲の無事にほっとしていることを思い知らされ狼狽した。
「……貴方が私の話を聞かずに行ってしまったから」
目を合わせられず、視線を辺りに泳がせながら月季が答える。
「どういうことだ?」
「貴方が勘違いして私を抱えて逃げたでしょ、あれは貴方に剣を届けにきたのよ。父上が黯禺には私の剣を使え、って言ってるって兄上から伝言があって」
「李将軍が?」
壮哲が地面に倒れた黯禺を振り返る。
深々と刺さっている月季の剣の周りに黯禺の血はほとんど散っていない。
細く鋭く丈夫な剣は黯禺の肉を余分に傷つけることなく、急所の喉と胸の中心に達したということなのだろう。
「……なるほど……」
壮哲は黯禺の元へ行くと、血が飛ばないように落ちていた外衣を被せ、刺さったままの月季の剣を慎重に引き抜いた。そして外衣を取り払って引き抜いた剣を掲げる。
「ほう……」
壮哲は月季の剣を驚きの目でまじまじと見た。
「血がほとんど飛んでないな……」
驚くべきことに黯禺の黒い血もほとんど刃に着いていなかった。刃毀れもほんの僅かだ。
壮哲の感心した声に、月季も覗き込んでそれを確かめる。
「そう言えばその剣を使うようになってから返り血を浴びたことがないわね」
月季が記憶を探るように首を傾げて呟く。
「そうか。すまん。大事な剣を刃毀れさせてしまったな……」
壮哲が申し訳なさそうに刃を見ながら言うので、月季はふるふると首を振った。
「いいのよ。役に立ったなら」
「本当に助かった。この剣を貸してもらえなかったらどうなっていたか」
壮哲は剣から月季に視線を移して言った。
「あの黯禺を倒せたのは月季殿のお陰だ。月季殿は命の恩人、いや、蒼国の恩人だな」
そう言って壮哲は月季に笑みを向けた。
その細められた目から覗く縹色を見て、月季はふと思った。
空の色だ。
しかし場違いに思いもよらないことを考えた自分に、月季は内心で酷く動揺した。
動揺を表に出さないように辛うじて、別に、と横を向いて答えた時、後ろから名前を呼ばれた。
「月季様!」
振り向くと忠全がもの凄い勢いで駆けてくるところだった。騒がしい忠全の登場のおかげで壮哲の目が自分から逸れたことに、月季はこっそりと安堵の息を吐いた。
「ご無事で……!」
泣きそうになりながら到着した忠全に月季が言う。
「私は別に危険ではなかったわよ。黯禺を始末したのはあの三人だから」
「そうは言いますが……!」
忠全が鼻を啜りながら訴える。玄亀の石を持たない身で出て行っては黯禺討伐の邪魔になる、と必死で我慢していたようだ。
そこへ理淑も曹将軍と一緒にやって来た。
理淑は、月季を追いかけて来たところで黯禺から避難する仲間たちに出くわし、そのまま誘導をすることになったのだと言う。
月季が見た限り、かなり危ない状況にいたのはずだ。あの光景を思い出すと頭の奥がひやりと冷たくなる。
にもかかわらず、理淑はいつものとおり屈託なく笑っていた。
その顔を見て、月季もようやく笑みをこぼした。
黯禺の死骸の始末をどうするか壮哲と昊尚が相談していると、蒼翠殿に縛ったまま置いて来た受叔と画甫が兵士に引き連れられてきた。
「無礼者! 放せ!」
壮哲の顔を見るや、受叔は怒鳴りながら腕を掴む兵士を振り解いた。
受叔は倒れている黯禺を見ると顔をしかめ、改めて壮哲を睨んだ。
壮哲が受叔に歩み寄り、厳しい顔で言った。
「お前には色々と聞かないといけないことがある」
それには応えず、受叔は無言のまま憎悪に満ちた目で壮哲を見る。
その時、恐怖の色を含んだ騒めきが起こった。剣を構えた兵士たちの視線は回廊の屋根の上に向かっている。
回廊の屋根には大きな虎がいた。
それを見た受叔は一瞬目を疑うように見開き、何度も瞬きをした。
そしてその顔はすぐに悦びの表情に変わった。
屋根の上に現れたのは、いつも受叔の傍にいた大きな虎だった。
受叔は、他の獣や怪物たちは使い捨ての駒のように扱ったが、その虎にだけは何かを命じるということがなかった。壮哲たちが蒼翠殿に潜入した際にも、その虎が戦線に出てきた記憶はない。
受叔は虎に向かって呼びかけた。
「よしよし。迎えに来たのだな。御璽はここにあるぞ」
受叔が縛られた手で袖を探り、黄色の絹の小さな包みを取り出した。
それに応えるかのように、虎は屋根の上に立ったまま咆哮を上げた。
虎の哮りがびりびりと空気を震わす。
その光景を怪訝な顔で見ていた月季は、突然右手がほんのりと温かくなったのを感じた。
驚いて右手に目を遣ると、手に持っていた鞘につけた琥珀が、突然光を放ちはじめた。
「……え……?」
月季が躊躇う間にも、琥珀は光を増していった。
「月季殿!」
異変に気付いた壮哲が月季の元へ走る。しかし壮哲が辿り着く前に、その光は月季の琥珀を離れて上へと昇っていった。
「……どうなってるの……?」
呆然と月季が見送った光は回廊の屋根に向かい、そこに立つ大きな虎の頭上で止まった。そこでさらに光が強くなると、虎の全身は眩い光に包まれた。
すると、その様子を呆けたように見ていた受叔の手の中の包みがほんのりと輝き始めた。
それに気付いた受叔は目を見開き、恐る恐る絹の包みを開けた。
中から現れた金剛石は光を放っていた。
「……は……はは……」
金剛石から放たれる光を凝視する目に映し、受叔の開いた口から切れ切れの笑い声が漏れた。徐々にその笑い声は歓喜で満ち、大きくなった。
「はははははははっ……!」
受叔は高らかに笑うと、天を仰いで叫んだ。
「やはり申黄国は復活するのだ……! 玉皇大帝もそれをお望みなのだ!!」
更に狂ったように笑いながら、受叔は輝く金剛石を掲げた。