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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
148/192

二年孟秋 寒蟬鳴 19



 壮哲たちが後にした蒼翠殿では、柱に残った黯禺の爪痕を眺めながら、受叔が玉座で神経質に肘掛けをこつことと指で叩いていた。

 その前に古利が立つと、受叔が不機嫌な目を向ける。その視線を受けても動じることなく古利が淡々とした声で言った。


「すみません。手を掴む前に逃げられてしまって」


 受叔は少しの間黙って見つめていたが、視線を外して短く息を吐いた。


「……まあ仕方ないですね。次はちゃんとお願いしますよ」


 それには返事をせずに古利が聞いた。


「まだやるのですか?」


 再び受叔が古利を見る。


「当たり前です。まだ蒼国の御璽を砕いていません」

「先ほどの様子だとあの黯禺も仕留められそうな感じがしますけど」


 古利が堂の隅で横たわる黒い(かたまり)を目線で示す。


「大丈夫ですよ。黯禺を倒すことなどできるはずがない」


 そう言って受叔は古利の視線を追った後に、ちらりと堂の隅に持ち込んだ荷車に視線を移した。


「まあそれに……」


 言いかけて止める。


「何ですか?」


 古利が聞くと不敵な笑みを浮かべて言った。


「いいえ何でも。まあ、もし万が一にでも不利になるようなことになったら、黯禺を制御をせずに放ってしまえばいいのです」

「……そんなことをしたら、沢山の人間が死ぬんじゃないですか?」


 我ながららしくない事を言う、と思いながら古利が聞くと、受叔は低く冷淡な声を返した。


「知ったことではありません。こちらの言うことをきかないあの無礼な王が悪いのですよ。せっかく民のことを考えて、私が穏便にコトを済ましてやろうとしているのに」


 寛大を装っているつもりなのだろうが、単に壮哲のことが気に入らないのは明らかだ。御璽の在処は壮哲しか知らないと言うから我慢をしているのだろう。


 そう考えていた古利の沈黙をどう受け止めたのか、受叔は古利へ少し和らげた表情を向けた。


「きっとあの青二才は黯禺を倒そうと戻って来ますからね。その時に御璽の在処を言わなかった場合には致し方ありませんよ。黄国の再興のためには犠牲を払うのはやむを得ませんからね。もしそれが気になるのなら、お前があの王からうまく聞き出せばいんですよ」


 諭すように言うとにこりと笑って続けた。


「黯禺であの若造の気を()らしてあげますから、見計らって近づきなさい」


 そう言う受叔の笑顔を古利は無表情に見つめた。そして聞いた。


「先生はこの後……蒼国の御璽を手に入れた後はどうするつもりですか?」


 すると受叔は、ふふ、と笑い、玉座の傍に座る大きな虎の頭を撫でる。


「私の御璽が本来の姿を取り戻したら、次は元の姿を取り戻すべく版図を広げていきます」

「……戦を起こすということですか?」

「まあ、そうですね。できるだけ穏便に済ませたいとは思っていますが、私に素直に従わない王の治める国とはそうなるでしょうね」


 そう言うと、受叔が念を推すように古利を見た。


「お前にはまだ活躍してもらう場が沢山ありますからね。頼みますよ」


 古利が受叔の言葉にも無表情を返すと、受叔が若干機嫌をとるかのように言った。


「……黄国再興の暁にはお前にも何か褒美をあげなくてはね。そうですね、どこかの領地をあげましょう」


 古利は虎を撫でる受叔の手を見つめながら聞いた。


「あの蒼国王に言っていたことは本当ですか?」

「蒼国王に言ったこと?」

「御璽を大人しく渡せば蒼国の領地を任せると言っていましたよね。蒼国は今のままということですか?」


 古利の言葉に受叔が、ああ、と納得したように頷く。


「心配しなくても大丈夫ですよ。そんなわけがないでしょう。蒼国はちゃんと潰しますから安心しなさい。玉皇大帝の加護を賜る国は一つですからね。大体、こんなに不快な思いをさせられたのです。あの生意気な若造も御璽の在処を聞き出したらもちろん始末します」


 受叔がさも愉快なことのように笑った。







 壮哲らが再び蒼翠殿の堂へ足を踏み入れると、待ち構えていたように受叔の声が響いた。


「御璽は持って来ましたか?」


 その声に平然と壮哲が答えた。


「生憎だがお前に渡すものは何一つとしてない」


 それに対して受叔が大袈裟に溜息を吐く。


「愚かな王を持つと民は苦労しますね」

「その言葉はそのままお前に返そう。申黄国がどうして滅んだのかよく考えてみるんだな」

「相変わらずまるで我が祖先に非があるような言い方ですね。まあ愚かな凡人にはわからないのでしょう」


 受叔が嘲るように言った後、さらに続けた。


「どうせ黯禺を倒せると思ってのこのことやって来たのでしょう?」

「そのつもりだが?」


 思わず、といったように受叔が鼻で笑う。


「無理ですよ。本当に無知というのは恐ろしいですね。本能で殺戮を行う黯禺に敵うはずがないでしょう。何か勘違いをしているようですが、前回は私が黯禺を抑えてやっていたから、お前の命は無事だっただけですよ」


 恩着せがましく受叔が言った。

 しかしその台詞は、受叔が玄亀の石のことを知らないということを示していた。


「気遣いは無用だ。やってみればいい」


 壮哲があえて挑発するように笑いを付け足す。


「やれやれ。本当に蒙昧な若者は手に負えませんね」


 その声と同時に残っている僅かな兵士と獣が壮哲と昊尚の背後に周り、黯禺がのそりと立ち上がった。

 昊尚が兵士たちを牽制するように剣を構え、壮哲が静かに黯禺へと剣先を向けた。


「お前が動いたら、黯禺をあの回廊の塀の向こうに向かわせます」


 受叔の低い声が響いた。


 その時。


「ぎゃあっ!!」


 堂内に悲鳴が上がった。

 それはつい先ほどまで尊大な態度を見せていた受叔の余裕を失くした声だった。


「くそっ!! 何だ!?」


 苦しげな呻きと共に怒声が上がる。

 佑崔が受叔の頭に麻袋を被せて視界を奪い、無造作に床に引き倒したのだ。

 この二度目の蒼翠殿への潜入は二手に分かれて行われた。壮哲と昊尚は前回と同じく蒼翠殿の正面へ回り、佑崔は一人別れて東側の壮哲の執務室の窓から中へ入り込んだ。

 佑崔は執務室を経由して堂の中へと入ると、壮哲が注意を引いている間に、受叔へ背後から近づいていた。


「受叔様!」


 玉座の衝立の後ろに隠れていたとみえる画甫が慌てて剣を手に向かって来たが、およそ戦ったことのないような男が蒼国随一の腕を持つ佑崔に敵うはずもない。左手に持ち替えた剣の柄で強かに打たれて、すぐに持ち慣れない剣と共に床に転がされた。


「放せっ!! 無礼者!!」


 佑崔に押さえつけられたままの受叔が叫ぶ。


「こんな事をしてただで済むと思ってるのか! 黯禺の制御を解除したらどうなるか思い知るがいい!」


 視界を奪われ身動きの取れなくなった受叔はそう喚くと、怨嗟の言葉と共に低く呪文を唱えた。

 しかし受叔の耳には期待した壮哲の悲鳴は届かない。

 黯禺は元の場所に立ったまま、ゆらゆらと落ち着きなく揺れているだけだ。


「……どうした!! ……古利っ!」


 玄亀の石のことを知らない受叔は、自分の思った通りにならない事態に理性を失ったように喚き散らした。


「何をしてる!! 殺れ!」


 受叔の怒声で、壮哲らに剣を向けていた兵士と獣が二人に襲いかかった。

 しかし、それらの攻撃は壮哲に届くこともなく昊尚の剣によって阻まれた。


「無駄だ」


 壮哲は黯禺から目を離さないまま受叔に向けてよく通る声で言うと、羽織っている外衣の首の留め金に手をかけながら剣を握り直し、黯禺に近づいて行く。

 受叔は思うようにいかないことに悪態を吐きながら、再び低く呪文のようなものを唱えた。


 すると、それまでゆらゆらと揺れながら立ち尽くしていた黯禺が、突然鋭い爪のついた長い腕を振り回した。暗闇を切り裂く音が空気を震わせる。

 黯禺のすぐ前まで来ていた壮哲が、間一髪で黯禺の無差別な攻撃から逃れて後退した。しかし黯禺は壮哲を追うことなく、狂ったように跳ねながら鋭い爪で(くう)を引き裂いている。


「佑崔に視界を封じられて、受叔が闇雲に攻撃をさせているようですね」


 昊尚が壮哲に言う。

 不意に黯禺が壮哲たちの方へと向かってきた。しかし身構えた壮哲たちを素通りして行く。

 黯禺が進むその先に、受叔を押さえこんでいる佑崔がいるのに気付き壮哲が叫ぶ。


「佑崔!」


 それと同時に黯禺が跳躍し、受叔を抑え込んでいる佑崔に爪を立てようとした。

 その時。


「……!!」


 床に押さえ込んでいた受叔を放り出し、剣を構えた佑崔の前に影が割り込んできた。

 黯禺の鋭い爪はそのまま佑崔の前に立ち塞がったものに勢いよく振り下ろされた。

 金属音と身の内から搾り出すような絶叫が上がる。


 佑崔は自分の目を疑った。


 黯禺との間に立ち塞がったのは古利だった。手には先ほど画甫が落とした剣が握られている。

 しかし振り下ろされた暗愚の鋭い爪は、不格好に構えた古利の剣を真っ二つに折り、そのまま無防備になった肩から腹にかけて引き裂いていた。

 古利の口から漏れ続ける咆哮のような呻き声が蒼翠殿に響く。

 しかし古利は黯禺からの次の一撃を受けながらも黯禺に向かって手を伸ばしていた。苦悶の形相の中、目は獲物を狙うように一点を凝視する。そして伸ばした手が黯禺の剛い毛に覆われていない掌に届くと、がっしりとそれを掴んだ。


 その途端、手を掴まれた黯禺は水をかけられた火のように勢いを無くして動きを止めた。


「古利!!」


 佑崔が叫ぶ。

 古利は動かなくなった黯禺に倒れかかった。倒れこんだ拍子に黯禺の剛い毛が古利の身体のあちこちに突き刺さり、更に呻き声が堂の中に響く。

 しかしそうまでなりながら、古利の手は、黯禺を離そうとしなかった。手のひらが触れた者を操ることができる能力で、黯禺が暴れるのを押さえ込んでいるのだ。

 呆然としてそれを見ていた佑崔に古利が言った。


「……今……のうち……に……黯禺を……」


 佑崔の目が見開かれる。


「……早く……」


 苦しげな声に急かされ、佑崔は唇を噛むと羽織っている外衣の留金を外した。

 そして素早くそれを脱いで古利ごと黯禺に被せ、黯禺の頭のない首あたりに剣先を当てると、剣を突き刺した。

 すると外衣の下で黯禺がびくびくと(うごめ)いた。

 動きは収まらない。


「まだ……だ……!」


 焦りを含んだ声が外衣の下から聞こえた。

 佑崔は黯禺の喉元に突き刺した剣を引き抜いた。

 外衣の裂けた隙間からどす黒い血が溢れた。抜いた剣にもべったりと黒い血が付着し、その刃は毀れていた。

 佑崔は一瞬躊躇したが、今度は黯禺の胸に狙いをつけた。ちょうど黯禺を押さえ込んでいる古利の脇近くだ。佑崔は大きく息を吸い込むと、両手で握った剣を高く振り上げ、一気に突き立てた。

 刃毀れしていた剣先は、それでも佑崔の渾身の一撃で黯禺を貫いた。外衣の切れ目から漏れて飛んだ黯禺の血を避け、佑崔は剣を突き刺すとそのままにして飛び退いた。

 剣を突き立てられた黯禺は、外衣の下で痙攣するように震えたが、間も無く動かなくなった。


「古利!!」


 佑崔が黯禺にかけた外衣を剥ぎ取ると、古利は血に塗れ、ぐったりと黯禺に覆い被さるように倒れていた。


「……触……るな……」


 思わず手を伸ばそうとした佑崔に、古利が掠れた声で言った。古利の全身を染めているのは自身の赤い血だけではなく、黯禺のどす黒い血も混ざっていた。

 駆けつけていた壮哲が外衣を脱いで古利を包み、黯禺から離す。


「毒消しだ、飲め」


 壮哲が腰の荷包(きんちゃく)から丸薬を取り出し、仰向けに寝かせた古利の口に入れようとする。

 しかし、古利は微かに首を振りそれを拒絶した。


「……もう……無駄……だ」


 佑崔がその傍に跪き、弓形の眉を歪めて呟く。


「どうして出て来た……」


 すると、古利は自嘲するように口元を歪めた。


「……あん……たには……あのとき……の……借り……あるし……」


 古利が母親と妹の姿を見に行った時のことだと佑崔が気付き、弓形の眉が更に歪む。


「……それに……」


 そして古利は朦朧とした瞳を壮哲の方へと彷徨わせた。


「……先生……より……信用でき……る……」


 焦点の合わなくなった目で壮哲をじっと見つめる。


「……かあ……さんと……菜深……」


 ぜいぜいと喉から漏れる音に邪魔されながら訴えるように声を絞り出した。


「……ああ。必ず二人がより安心して暮らせる国をつくる」


 壮哲が眉間に皺を寄せながらも力強く言うと、古利はほんの僅か目元を緩め、安心したように息を吐いた。その拍子に口から、ごぼっと音を立てて血が溢れる。


 そして。


「……よろ……く……おね……が……ま……」


 声にならない掠れた音が血まみれの口から零れると、不意に喘鳴が止んだ。

 そして同時に、微かに開いていた瞼が完全に降りた。


「……」


 息絶えた古利を壮哲たちが言葉なく見つめる。


 しかし、その静寂の中、闇の奥からがたがたと不吉な音が耳に届いた。


 昊尚が堂の隅に持ち込まれた荷車の方向を睨む。


「陛下……」


 昊尚が振り返ると壮哲もそれを凝視していた。

 暗闇の中、荷車から起き上がったそれは、今しがた佑崔が息の根を止めたものと同じ形をしていた。


「……もう一体いるのか……」


 黯禺だった。




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