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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
147/192

二年孟秋 寒蟬鳴 18



 青輝門には別の戸から出て来た佑崔が先に着いていた。


「壮哲様」


 思わず呼んだ声に応えるように壮哲が片手を上げたのを見て、佑崔はほっと息を吐いた。

 門外で待ち構えていた曹将軍が開けた扉から外へ出ると、壮哲が佑崔に聞いた。


「大丈夫か、佑崔」


 佑崔が、はい、と返事をすると頭を下げた。


「申し訳ありません。一太刀も入れられませんでした」

「いや。……不用意に傷を負わせるよりも今回は受叔と黯禺の状態を把握するのが優先だ」


 壮哲が佑崔に怪我がないの確認すると歩きながら聞いた。


「どうだった? 黯禺は」

「……そうですね。(かわ)すことはできますが、動いていると、動きが早いので急所に正確に一撃を入れるとなるとかなり注意を要します」


 壮哲が、ふむ、と頷く。


「……それと、暗愚の爪を受けて払った時に剣が欠けました」


 そう言って佑崔が剣を腰から抜いて見せた。二度目に黯禺と対した時に襲って来た爪をいなした結果、剣の刃が(こぼ)れた。壮哲がそれを見て眉を顰める。


「お前の剣はそう簡単に刃毀れするようなものじゃないはずなのにな……」

「触らないでくださいよ」


 思わず刃に指を触れようとしたのを昊尚が止める。


「毒が付いたかもしれませんから」


 そうか、と壮哲が手を引く。


「なかなか厄介だな」


 壮哲が言うと、


「でも、お任せくだされば必ず仕留めます」


 佑崔が悔しげに薄い唇を噛む。


「ああ。お前なら仕留められるとは思ってはいるが……返り血が心配だな……」

「動いていると急所を狙いにくいのは確かですが、動かないのであれば避けられると思います」


 そう言ったあと、佑崔が躊躇いがちに続ける。


「三度とも背後に近寄った途端気付かれていました。玄亀の石が効いていないのでしょうか」

「いや、玄亀の石が効いていないはずはないだろう」


 壮哲が首にかけた月季から借りた玄亀の石に手をやる。


「ええ。蒼翠殿から出てすぐの檐廊(えんがわ)の影に隠れただけなのに気付かれませんでしたからね。近くまで黯禺が来てたのにです」


 昊尚も壮哲に同意して言うと、佑崔が首を傾げた。


「では最も攻撃に効果的な間合いで急に振り向いて来たのは……」

「黯禺はそんなふうに駆け引きをするように間合いを計算などできないはずなんだ」


 昊尚の言葉に、壮哲が黯禺の様子を思い浮かべながら言う。


「しかし確かに佑崔の言うとおり、全方向が見えているかのような動きだったな」

「……それなんですが、受叔が何処かから見ていて、黯禺への指示をその都度、即時的に出しているのではないかと」


 壮哲が頷くのを確認して昊尚が続ける。


「と言うのも、黯禺は実際にはあまり広範囲には動いていませんでした。佑崔に反撃をしても深追いはしていません」


 確かに、と佑崔が呟く。


「つまり、受叔が見える範囲に黯禺を置いて操っているということだな」

「はい。滄明門に黯禺が現れた時も、回廊を越えてまで追ってこなかったのはそういうことなのでしょう」


 あの時犠牲になったのは二人だけだ。屋根を降りればまだ兵はいたのにそこに留まっていたというのは、黯禺本来の行動とは思えない。


「何処で指示を出しているのか特定すべきですね」

「ああ。黯禺を仕留めるにはまず受叔を捕まえて指示を遮断してからの方が良さそうだな」


 そう話しながら門下省の仮陣営に着いた。




 建物に入ると、昊尚がぎくりとしたように足を止めた。

 昊尚の視線の先で、椅子から立ち上がったのは範玲だった。


「どうしてこんなところにいるんだ。宮城には近付かないようにと理淑殿に言われなかったのか」


 止めた足を再び早める昊尚の声が思わず尖る。

 首をすくめた範玲のすぐ後ろから声がした。


「ごめん。昊尚」


 昊尚の目には範玲の姿しか入っていなかったが、声をかけられて気付く。英賢までいる。


「……何やってるんですか。まさか英賢殿がついていながら」


 昊尚が呆れたように溜息を吐く。

 すると英賢が美しい眉間に皺を寄せた。


「私だって連れて来たくなんてなかったよ。でも範玲の話を聞いたら連れて来ざるを得なかったんだ」


 美しい顔が憮然として歪み、そして心配そうに範玲を見る。


「……ごめんなさい……。理淑にも絶対に宮城には来ないように、ってちゃんと言われました。……でも右の耳飾りを外してから何だかおかしくて……」


 そう切り出した範玲は心なしかいつもよりも顔が白い。


「……顔色が悪いな。大丈夫か?」


 昊尚が範玲の顔を覗き込む。


「……はい。ちょっと……さっき気分が悪くなってしまって……。でももう大丈夫です」

「……そうか」


 昊尚は少し考えると、近くにいた兵に席を外させた。範玲の耳関連の話ならば、関係者以外に聞かれたくない。

 顔色の悪い範玲を椅子に座らせると、昊尚もそのそばの椅子に腰掛けながら改めて聞いた。


「……おかしい、とはどういうふうに?」


 昊尚が話を聞いてくれる姿勢になったことに、範玲が僅かにほっと息を吐く。


「理淑に耳飾りを渡した後、何だか全身がぞわぞわとして……何かが送りこまれているような感覚がして……。ちゃんとした言葉ではないのだけど……意思のようなものが感じられて、耳飾りをしないで誰かに触れてしまった時の感じに似ていました」


 伝わっているだろうか、と範玲が昊尚を窺うように見る。範玲自身も上手く言葉にできていないことがもどかしい。

 昊尚は、大丈夫だ、と頷くと、落ち着かせるようにゆっくりと聞いた。


「意思のようなものというのはどんなものだった?」

「あの、何て言うか……とても悪意がこもってて、攻撃的な思考のようなものです。あと……何か……景色……というか、場面というか画のようなものが見えて……」


 要領を得ない言い方にも昊尚が頷きながら耳を傾けると、範玲も何とか伝えようと続ける。


「耳飾りを外した途端、というわけではなくて、暫くは特に何もなかったのですけれど、突然そうなって……。それがどこから出ているのかとたどってみたら、宮城の方向から感じられたので……」

「それで来たということか」


 昊尚が聞くと範玲がこくりと頷く。


「兄上にお願いしてここまで連れて来てもらいました。そうしたら、やっぱりぞわぞわする感覚の出どころは蒼翠殿の方からでした」


 範玲が自分の腕を抱くようにして摩りながら、そこからは見えはしない蒼翠殿の方向を不安げに見る。


「耳飾りを外した範玲が、蒼翠殿の方から何かを感じるって言うんだから、それは捨ておけないだろう? 今の事態に何らかの関係があるんじゃないかって範玲はきかないし」


 黙って見守っていた英賢が眉を顰めたまま言う。


「もしかして……」


 少し離れたところで聞いていた壮哲が、昊尚の横に来て声をかける。昊尚が壮哲に視線を送り頷いた後、範玲に向き直る。


「それは何刻(いつ)ごろのことだった?」

「……最初は一刻ほど前、だったと思います……」


 一刻ほど前ならば、受叔たちが蒼翠殿前の広場に入った頃だ。


「あ、でも、ついさっきの方が強く感じました。気分が悪くなったのはそのせいです」


 なるほど、と昊尚が頷き、範玲に聞いた。


「場面のようなものが見えて来たと言ったが、どんなだったか思い出せるか?」

「ぼんやりとしていてはっきりとはわからないのですが、何か、複数の人か動物が室内で激しく動いているような感じでした。……それに、その……言葉じゃないのだけど、始末しろ……とか……我慢しろ、みたいな思考が入り混じって」


 範玲の言葉を聞いて昊尚が考え込む。


「……それはつい先ほど感じたもの?」

「はい」

「今は?」

「今は特には感じません」


 腕を組んだ壮哲が眉間に皺を寄せてぼそりと言う。


「蒼翠殿での受叔の指示を、範玲殿が感じ取ったということか……」


 それに対して昊尚が声を潜めて返す。


「恐らく……。場面、画のようなもの、というのは、きっと受叔の視界です。それを黯禺に送っているのでしょう。視力のない黯禺がどうそれを捉えるのかはわかりませんが……。全貌を把握させた上で遠隔で操作してるような感じでしょうか。だから黯禺の背後に来た佑崔のこともわかっていて攻撃することができたのかと」


 その二人のやりとりを不安げに見たあと、範玲が昊尚に躊躇いがちに言った。


「私が感じ取ったものが何なのか、知っているのなら教えてほしいです」


 昊尚は範玲を改めて見ると、申し訳なさそうに言った。


「すまなかった。耳飾りを借りたばかりに怖い目に合わせた」


 その言葉に範玲が首を振る。


「いえ。それはいいんです。……それより、私に役に立てるようなことがあればと思って来たんです」


 不安の中にも決意を固めた碧色の瞳が真っ直ぐに昊尚を見た。

 引かない視線を向けられ、昊尚は気を取り直すために一つ息を吐くと言った。


「聞いたかもしれないが、今、蒼翠殿に朱国を占拠した辛受叔という者がいる。その受叔は玄海の獣や土螻などの怪物、それに黯禺を連れていて、しかもそれらを操ることができるんだ。黯禺に対抗するために、君から玄亀の耳飾りを借りたんだが、どうもおかしくてね。今し方、陛下と佑崔と私とで蒼翠殿に行ってきたんだが、玄亀の石を持っていても黯禺に気付かれてしまったんだ。何故かと考えてみたところ、受叔が遠隔で黯禺に状況を教えて指示しているのだろうという結論になった。君はその受叔が出している指示を拾ってしまったんだと思う」


 昊尚の話を聞きながら範玲の顔が強張っていく。


「君がついさっき感じ取ったのは、蒼翠殿での黯禺と佑崔、陛下の立ち回りじゃないかと思う」


 自分が見たものはそんなものだったのか、と範玲が思わず息を呑んだ。その様子を少し心配そうに窺いながら昊尚が続ける。


「その時、受叔の姿は見当たらなかったんだが、蒼翠殿の中にいて、黯禺に指示を出していたはずだ。君の話を聞いてそれは間違いないだろうと思った。受叔を捕まえて黯禺への細かな指示を出せなくすれば、玄亀の石で黯禺に近づいて仕留めることができると思う。……そのために協力してもらえるか」


 昊尚が言うと、範玲が青ざめた顔でこくりと頷いた。


「勿論です。何をすればいいですか?」

「君が感じた画のようなものがどんな配置だったのか教えてほしい。それがわかれば受叔の居どころの見当が付く」


 昊尚の言葉に範玲が頷く。


「……蒼翠殿の中の構造は覚えているな?」

「はい。入ったことがあるのでわかります」

「先ほど君が感じ取った、何かが激しく動いているような画はどの角度から見たものだと思う?」


 範玲は口元に合わせた両手をやり、目を瞑って考え込んだ。


「……ぼんやりとした画だったのですが、左手に大きな扉があるような感じでした……。奥の方で動物か人が激しく動いていて……」


 昊尚や壮哲たちが見守る中、範玲が懸命に記憶を引き出す。


「……右の端に見えていたのは……多分……玉座の台座の一部……です……」


 範玲の言葉が途切れ、考え込む。

 そして、俯いていた範玲が顔を上げて昊尚を見た。


「玉座の東側の柱のあたりからだと思います」


 僅かに躊躇った後、それでもきっぱりと言った。

 それを聞いて壮哲が腕を組んで、そうか、と唸る。


「ということは、私と昊尚の斜め後方から見てたということか」

「そのようですね」

「次もそこに居てくれるといいんだがな……。まず受叔を捕まえてから黯禺を始末しよう」


 壮哲の言葉に昊尚が頷き同意すると、範玲に向き直った。


「ありがとう。とても参考になった」


 声をかけられた範玲は碧色の瞳を心配で揺らしながら昊尚を見上げた。


「……また蒼翠殿に行くのですか?」

「ああ。今度は黯禺を始末してくるから、家に帰ってて」


 青味がかった黒い瞳を穏やかにすると、安心させるように昊尚が言った。




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