二年孟秋 寒蟬鳴 14
門下省内に設けた陣営の奥で、月季が腰掛けに座らせた文莉の背中を落ち着かせるようにゆっくりとさすっていると名前を呼ばれた。
「月季殿」
さする手が思わず止まる。
月季が顔を上げると、怪我をした兵を連れた壮哲だった。
壮哲を見て、強張っていた琥珀色の瞳に安堵の色が浮かぶ。
「大丈夫か」
壮哲が兵を他の者にあずけて月季の元へ歩み寄った。
「ええ。貴方こそ大丈夫なの? ……黯禺は?」
「黯禺は戻って行った」
それを聞いて月季は、そう、と言いながらほっと息を吐いた。
壮哲が逃げ遅れた兵の元へ躊躇なく走って行った時は、その遠ざかる背中に焦った。しかし、加勢に行きたくとも玄亀の石を壮哲に渡してしまった月季にできることはない。足手纏いになるだけだ。範玲から借りた玄亀の石を持っている佑崔が壮哲の後を追ったのを見て、今できるのは壮哲に任された文莉を安全なところへ移動させることだと判断してその場を離れた。
文莉を建物の中に移動させて介抱しながらも、壮哲の顔を見るまで月季は気が気ではなかった。
しかし、心配していたのを知られるのは癪に触るので平静を装って聞く。
「でも、戻って行ったってどういうこと?」
「よくわからないんだ」
腑に落ちない顔で首を傾げる。
「……これから現場を確認して検討してみるが……」
そう言いながら文莉の前にしゃがむと声をかけた。
「文莉殿も大丈夫か」
声をかけられて、文莉がはっとしたように俯いていた顔を上げる。
「……はい。だ……大丈夫……です」
掠れた声を絞り出すと、震えてしまう手を押さえ込むように胸元でぎゅっとにぎった。顔は紙のように白い。
「……申し訳ありませんでした……。とんだ醜態を……」
文莉が再び俯く。
握りしめた手も強く力を入れすぎて白くなっている。まるで手の中に動揺を握り込んで抑えているようにも見えた。
「……月季様にも陛下にも……ご迷惑を……」
項垂れる文莉の背を、月季が軽くぽんぽんとたたく。
「流石にあれは衝撃が強かったからね」
努めてあっさりとした口調で言った。
百歩譲って黯禺のあの奇怪な姿だけならまだしも、狩った兵の首を下げていたのだ。月季とてあの異様な光景には正直恐怖を感じた。
月季自身は武人としての意地で持ち堪えたが、文莉が動けなくなるほど恐怖を感じたのは無理もないことだ。むしろよく耐えた、という気持ちで文莉の背中を撫でる。
壮哲がそれを眺めていると、そこへ忠全と理淑が飛び込んできた。
「月季様! ご無事ですか!?」
忠全が月季を見つけて泣きそうな顔で駆け寄って跪く。
「見てのとおり無事よ」
月季が素っ気なく答えると、忠全が月季の顔を見つめてその言葉に嘘が無さそうなのを確認した後、長く長く安堵の溜息を吐いた。
「……もう……本当に……どうか……お願いですから……撒くのは勘弁してください……。月季様がいらっしゃらないのに気付いた時は心臓が止まるかと思いました……」
がっくりと項垂れて地に手をつき、大きな体を縮めるようにして懇願する。
「今回は撒いたわけじゃないわよ。……でも悪かったわ。お前に言わずに来てしまって」
月季が言うと、理淑が眉を下げた。
「私が忠全殿に言うのが遅くなったから心配させちゃったんです。ごめんなさい」
文莉を連れて昊尚の元に行くと決めた際に、そのことを理淑には伝えた。しかし、その時忠全は女官たちを避難させるのを手伝って先頭で警護していたので、本人には言わずに来てしまった。それで忠全が月季の居なくなったことを知るのが後になってしまったのだ。
「……申し訳ありません。私のせいで……」
やり取りを聞いていた文莉が、忠全と月季を交互に見て心苦しそうに謝った。それに月季が首を振る。
「貴女のせいじゃないわ。私が貴女を連れていくと判断したんだから私の責任よ。それに昊尚殿たちも有益な情報だったって言ってたじゃない。連れて来た甲斐はあったのよ」
そう言ったが、月季は内心で文莉をここへ連れて来たことを後悔していた。
文莉のような兵士でもない者を、警戒体制が敷かれたこんなところへ連れてくるのが間違いなのはわかっていた。にもかかわらず、ここへ文莉を連れて来て危険な目に遭わせてしまったのだ。
その見つかったという紙片だけ預かってくればよかったのだ。しかし、月季はそうすることができなかった。
何故か。
……多分、文莉に対して後ろめたい感情があったからだ。壮哲との縁談に横槍を入れた形になってしまったことに引け目を感じていたのだ。だから、文莉の望みを受け入れてしまったのだろう。
文莉を危険な目に遭わせてしまったのは、そんな感情に左右されて判断を誤った自分の責任だ。
そう月季は思っていた。
「……でも、あそこで私が腰を抜かしてしまったから……私のせいで月季様が危険に……」
文莉はあの時の恐怖を思い出したのか、膝の上に移していた手を再びぎゅっと握った。
「私は武人よ。あの場面でああするのは当たり前のことなの。それに貴女を連れて来たのは私だわ。貴女をちゃんと安全に帰す義務があるのに、あんな目に遭わせてしまって私の方こそ申し訳ないと思ってる」
月季がそう言うと、文莉は月季をじっと見つめた。
文莉の思慮深い瞳は複雑な想いを含んでいるように見えた。
月季は自分の後ろめたさを見透かされているような気まずさを覚え、ふいと目を逸らす。
「今度こそちゃんと送るわ」
目を逸らしたのを誤魔化すように、そう言って文莉に手を差し伸べた。
文莉は「申し訳ありません」と再び口にして、恐る恐る月季に手を借りて立ち上がった。
「歩けるか」
壮哲が聞くと、文莉が頷く。
「はい……。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「いや。役にたつ情報、有り難かった。しかし怖い思いをさせてしまってすまなかった。ここは危ないから早く避難した方が良い」
壮哲が言うと、文莉は深くお辞儀をした。
そして歩き出そうとしたが、膝が萎えて転びそうになる。
「危ない」
月季が手を差し出す前に、壮哲の手が文莉を受け止めた。
「大丈夫か」
「申し訳ありません……」
文莉が壮哲の腕から慌てて身を起こそうとするが、再びつまずいて咄嗟に壮哲に掴まる。
「……本当に……申し訳ありません……」
文莉が慌てて手を離そうとしてまたよろけると、理淑が駆け寄って来て文莉の手を取る。
「しっかり掴まって大丈夫ですよ」
理淑が言うと、文莉は、すみません、と情けなさそうに謝った。
「じゃあ、気をつけてな」
壮哲が心配そうに文莉から手を離して言うと、文莉が壮哲を見上げた。
「……陛下も……くれぐれも……お気をつけてください……」
「ああ。大丈夫だ」
壮哲が安心させるように微笑む。文莉は気遣わしげに壮哲を見つめたが、それ以上は何も言わずにお辞儀をすると、理淑に付き添われて歩き出した。
壮哲は歩き出した文莉たちから月季に視線を移すと、文莉を送ると言っていたその当人はぼんやりと立ち尽くしていた。
「どうした? 月季殿は行かないのか?」
壮哲が近づいて月季を覗き込むと、はっとして目を泳がせた。そして壮哲を見ずに言った。
「行くわよ」
「……どこか痛むのか? まだ具合が悪いんじゃないか?」
「大丈夫だってば」
不機嫌に言う月季に壮哲が苦笑する。そして月季を少し見つめると、目を逸らして首をさすりながら溜息と共に言った。
「……しかし……相変わらず無茶をするな。月季殿は」
玄亀の石を持っていないのに、文莉を庇って黯禺に向かって剣を抜いたことを言っているのだろう。
「だって……。あの場合は仕方ないでしょう」
「それはそうかもしれんが……」
壮哲が言葉を切る。そして、少しの沈黙の後言った。
「……肝が冷えた」
月季がどきりとして思わず壮哲を仰ぎ見る。
しかし、壮哲が月季の方を向く前に、慌てて視線を壮哲とは反対方向に移した。
動揺する必要はないじゃない。
月季は慌てた自分に腹を立てる。
心配するのはいつもの理由、私が紅国の公主だからなだけなんだから。
心の中で言うと、先刻脈打った胸に今度はもやもやとしたものが広がった。
まただ。
月季が顔をしかめる。
しかし、ふと別のことが頭に浮かび、図らずも胸がしくりと痛んだ。
そうか。そうよね。
壮哲が焦ったのは文莉が危ない目に遭ったからだ。
そう考えると胸のもやもやが増えたように感じた。
月季はそれを吐き出すように大きく息を吐くと、
「……未来のお妃だしね」
自分に言って聞かせるように小さく呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
壮哲が月季を覗き込む。
「何も」
月季はそう言うと、忠全を連れて理淑と文莉を追った。
壮哲は月季を見送った後、昊尚と左滄明門に戻った。黯禺から避難していた兵たちも曹将軍の指示により、元の持ち場に戻って厳重な警戒を敷いていた。
黯禺の犠牲になった兵は、回廊の上で松明を持っていた者と、その隣の弓を持っていた者の二人だった。
突然現れた黯禺に、それぞれ左右の手の爪で首を切り離されたようだ。
壮哲は苦い顔で被害状況についての報告を受けると、その時に左滄明門の上で見張りをしていた兵に聞いた。
「黯禺が来るのには全く気がつかなかったのか」
「申し訳ありません。回廊の上に現れるまで全く気付きませんでした。……急に下から現れたのです」
兵が青い顔で答えた。
「完全に自分の失態です……。今思うと、まるで、こちらに見つからないように隠れて回廊を伝ってきたかのようでした」
それを聞いて昊尚が考え込む。そこへ曹将軍が補足の説明を入れた。
「向かいの右滄明門から見張りをしていた者にも確認をしました。回廊の奥側は、ちょうど屋根の上の松明の光は届かず影になります。そこを何か黒い影が走ったような気がする、と思ったら間もなく屋根の上に黯禺が現れたと言っていました。連絡の合図をする暇もなかったとのことです」
「それを聞くと、見張りから目が届かないように隠れて移動したという感じだな」
壮哲が言うと、昊尚が口元に手をやって考えながら頷く。
「そもそも黯禺には目がないのですから、隠れて、という概念はないはずです。しかし、監視の目を意識した行動だったと言わざるを得ませんね」
壮哲が腕を組んで、そうだな、と同意すると、昊尚が続けた。
「そうなると、やはり受叔からの指示なのでしょう。黯禺が篝火を消して回ったのも不思議でしたが、受叔はかなり正確に黯禺を操ることができるということのようですね」
「だとすると益々腹立たしいな」
昊尚の言葉に壮哲が不快そうに顔をしかめる。
「あの黯禺、いとも簡単に二人の首を取ったくせに、それ以上はウロウロするばかりで襲ってこなかった。まるでいつでもこちらを攻撃できるんだぞとでも言いたげな挑発に思える」
壮哲が言うと、昊尚が厳しい顔で同意する。
「そうですね。恐らく受叔の狙いはそれでしょう」
「ああ。悔しかったらこっちに来てみろと私を焚き付けに来たのかもな」
壮哲が言った。




