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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
141/192

二年孟秋 寒蟬鳴 12



 受叔が呪文を唱えると、むくりと起き上がった猴のようなもの——黯禺——は、次の瞬間、篝火に向かって移動した。そしてその火を次々と薙ぎ倒して消していった。

 蒼翠殿前の空間を照らすのが回廊の上に並ぶ兵の持つ松明だけになると、受叔の側についていた虎や土螻などが何頭か蒼翠殿へ向かって走り、荷車の影に隠れていた受叔が蒼翠殿へと進み出した。


「構わず続けて放て!」


 曹将軍の合図に矢の攻撃は続いている。

 しかし、射られる矢は、受叔を守るように脇に立つ黯禺に阻まれた。残っていた兵たちも、自分の身より盾と荷車で受叔を守るようにして進んだ。

 矢に当たった兵は、その瞬間、自分の置かれた状況に困惑した顔を見せ、悶絶しながら倒れていった。その倒れた兵を顧みることもなく、受叔は蒼翠殿へと逃げ込んだ





「申し訳ありません。受叔を仕留められませんでした」


 壮哲と縹公の前に曹将軍が膝をつく。壮哲らは、左滄明門の東に位置する門下省に仮の陣営を設けていた。


「気にするな。それより、こちらの被害は」


 壮哲が聞くと、曹将軍がいつもの生真面目な顔を上げた。


「数人が相手方の矢にやられましたが、概ね無事です」

「そうか。負傷者は速やかに手当を」


 壮哲の言葉に曹将軍が頭を下げる。


「門の閉鎖は?」


 縹公が蒼翠殿の方を見遣って聞く。


「蒼翠殿を囲む各門は全て内側からは開かないようにしてあります」


 よし、と縹公が頷くと、曹将軍が報告を続けた。


「わかる限りでは、受叔とその側近と見られる男、兵士が十人弱、あと虎と豹、土螻と諸懐二頭ずつ……そして黯禺が蒼翠殿へと逃げ込みました」


 壮哲が大きく息を吐いた。


「……やはり黯禺がいたか」


 縹公が苦虫を噛み潰したような顔をして腕を組む。


「どう見た」


 壮哲が左滄明門の上から指揮をとっていた曹将軍に見解を求める。


「……私も実物を見るのは初めてでしたが……驚くほど動きが早く、あの動きについていける者は禁軍の精鋭の中でも僅かかと。弩も歯が立ちませんでした」


 曹将軍が険しい顔で答える。

 昊尚から曹将軍も話は聞いていたが、弓よりも威力のある弩を以てしても黯禺にはまるで効かなかったのは衝撃だった。


「更に驚くべきは、黯禺が受叔を守っているように見えたことです」


 曹将軍が困惑ぎみに言う。


「ああ。信じたくはなかったが、受叔が黯禺を手懐けているのは間違いないな」


 壮哲が溜息交じりに言うと、回廊の上に登って蒼翠殿の様子を見ていた昊尚が下りてきて話に入った。


「全くです。一体どうやったのか検討がつきませんね」


 壮哲と縹公も険しい顔で唸る。それを窺いながら曹将軍が躊躇いがちに口を開いた。


「……それから、大変申し上げ難いご報告があります」


 曹将軍が苦い顔をして言い淀む。壮哲が曹将軍を目で促すと悔やむように目を伏せた。


「長古利が脱獄したと知らせがありました」

「何だと?」

「申し訳ありません。白虎門で受叔の手引きをした者が門を開放に行く前に古利を連れ出したようです。……牢番が一人犠牲になりました……」


 曹将軍が口惜しそうに奥歯を噛む。


「……そうか……」


 縹公が瞑目する。


「それで古利は」


 気を取り直して壮哲が聞いた。


「受叔と一緒にいたと思われます。矢に当たって斃れた者は兵士ばかりのようですので、受叔と共に蒼翠殿に逃げ込んだと考えて良いと思います」


 深く息を吐きながら壮哲が眉間を指で揉んだ。


「蒼国に恨みを持つ古利なら進んで受叔に手を貸すだろうな……」







「辛先生。これからどうされるおつもりですか?」


 古利の無表情な顔が暗闇に浮かぶ。蒼翠殿の中に火はなかったが、窓からぼんやりとした灯りが差し込んでいた。

 門を入って雨のように矢を射られた時は流石に古利も死ぬ覚悟をしたが、どういう訳か、従っていた兵たちは受叔と画甫、古利まで身を挺して守った。

 それに、首のない猴のような獣が降り注ぐ矢を虫を追うように払ってくれたお陰もあって、古利も何とか無事だった。


 そうして蒼翠殿に辿り着くと、ぴっちりと閉じられていた入り口の扉を叩き壊して中に入った。

 入った途端、生き残った兵たちは一様に黙り込んで座り込み、怪物たちも床に寝そべって動かない状態になった。

 それらを横目に、古利は格子窓の隙間から外を覗く。矢の雨は止んでいたが、蒼翠殿前の広場を囲む回廊の屋根の上には、松明を持った兵と弓や弩を構えた兵がこちらを見張っていた。


 尋ねた問いへの返事を催促するように古利が振り返ると、足を引き摺りながらがらんとした空間に鎮座する玉座へと向かう受叔の背中が見えた。その脇には大きな虎が付き従っている。受叔が玉座に着き、どさりと無造作に腰掛けると、虎はその脇にするりと座った。

 受叔は虎の首を一撫ですると、肘をついて大きく息を吐いた。


「……このまま計画を進めます」


 顔色は若干青ざめてはいたが、口調は淡々としていた。


「しかし囲まれていますよ」


 古利が受叔の座る玉座に向かって歩きながら言う。しんとした堂内に、思いのほか声は響いた。

 客観的に見て勝ち目はなさそうだと考えざるを得ない。

 しかし受叔は言った。


「若干の変更はありますが、目的は変わりません」

「目的……ですか。蒼国を陥すとおっしゃっていましたが、どうやって?」

「……あれがいれば今いる蒼国の軍一つくらいは潰すことができます」


 受叔が入口の辺りで死体のように横たわっている首のない猴を見遣って言う。古利も受叔の目線を追った。


 先ほど広場で見た光景が古利の脳裏に蘇った。

 恐ろしく動きが早く、あっという間に蒼翠殿に並ぶ篝火を消して受叔の元へ戻ってきた。全身は鎧のような硬い毛に覆われ、長く伸びる腕の先には見るからに凶暴な爪が付いている。

 確かに小規模な軍ならば壊滅させられそうな兵器だ。


「しかし、陥すといってもそういう意味ではないのですよ」


 立ち止まって考え込む古利の注意を引くように受叔が言った。


「どういうことですか?」


 顔を上げた古利に、受叔は薄く笑った。


「我々の目的はあくまでも申黄国の再興です。侵略ではありません」

「辛先生のおっしゃる申黄国の再興とはどういうことなのでしょう」

「もちろん、私の祖先の名誉を回復させ、再び申黄国が支配する世の中を作ることです」


 そう言うと、受叔は古利を追い越して玉座へと歩いてきた画甫を見た。


「向こうに囲まれたのは誤算でしたが、こちらの本当の狙いには気付いていないでしょう」

「はい。恐らく」


 画甫がぼそぼそと陰気に答えると、受叔は玉座に座ったまま辺りを見回して言った。


「ここにあるかどうか、先ず調べてしまいましょう」

「はい。見つからなかったら、蒼国の王に尋ねましょう。あの年若い王は挑発をすれば無鉄砲にもきっと直ぐに自ら出てきます」


 画甫が言うと、受叔が鼻で笑って頷き、じっと二人を観察していた古利に視線を戻した。


「古利は少し休んでいなさい。後で手を貸してもらうことになるかもしれません」


 そう微笑んで立ち上がると、受叔は、ああそうだ、とふと気がついたように堂の入口に横たわる首の無い猴を指差した。


「その猴のような魔物は黯禺といいます。全身が猛毒ですからね。決して触れてはいけませんよ」


 そう言うと、画甫とともに大きな虎を従えて蒼翠殿の奥へと消えた。


 古利は二人を見送ると、溜息を吐いて座り込んだ。

 俯いて目に入った手首の黄色の布は血で濡れていた。矢に射られたときに掠ったらしく布は千切れかけていた。

 古利は舌打ちをすると、手首から黄色の布を剥ぎ取った。


 剥ぎ取った布を古利はまじまじと見た。

 これを付けていれば、受叔の手下の獣や怪物たちに襲われないと言っていたのを思い出す。……何か仕掛けがしてあるのだろう。

 古利は黯禺をちらりと見ると、黄色の布を広げてみた。

 手首に巻かれた時に感じた、ちくりとした痛みの原因を探す。

 すると、布の真ん中に小さな極短い黒い針のようなものがあった。ちょうど布を手に巻いたときに刺さるように仕込まれている。

 古利はそれを布から取ると、立ち上がって窓際まで行き、外からの灯りを頼りにそれをじっくりと見た。そして、ああ、と小さく息を漏らした。

 古利は横たわる黯禺にかがみ込み、うっかり触れてしまわないように注意しながら間近で観察した。そして、ふうん、と眉を上げた。

 古利が見る限り、黄色の布に仕込まれていた針は黯禺の毛と酷似していた。







「どうだ。様子は」


 壮哲が自ら左滄明門の上に登り、様子を窺っている兵に声をかけると、振り返った兵が恐縮して言った。


「はっ! 変わりありません。蒼翠殿に逃げ込んだまま出てきません」


 壮哲も目を(すが)めて蒼翠殿を見た。

 蒼翠殿の前に大量に焚いた篝火は薙ぎ倒されて火が消されている。回廊の上からの松明の明かりだけが辺りを照らしていた。

 壮哲は緊張している兵の肩を、ぽんぽんと叩くと、軽い身のこなしで下に降り立った。そして、腰に佩いた剣を確かめて言った。


「よし。行くか」


 いつものように壮哲の後ろに従っている佑崔が頭を下げ、昊尚も履き物の紐を結び直して立ち上がった。

 そこへその場にはそぐわない声が聞こえてきた。


「藍公にお取次をお願いいたします……!」


 一同がその声のした方へ視線を遣った。


「どうしてこんなところに」


 声の主が誰かということに気付き、壮哲が驚いて一歩前へ出る。

 そこにいたのは文莉だった。側に少しバツの悪そうな顔をした月季もいる。


「月季まで。どういうことだ」


 名を呼ばれた昊尚が眉を顰めて月季を咎めると、月季が珍しく申し訳なさそうに言った。


「女官たちを宮城の外に避難させていたら、ちょうど会ってね、用事があると言うから」

「だからと言って連れて来ては危ないだろう」


 昊尚が渋い顔をすると、文莉が慌てて頭を下げた。


「申し訳ありません。私がどうしてもとお願いしたのです」


 文莉が続ける。


「朝になってからと思っていたのですが、家の者が宮城の様子がおかしいと騒いでおりまして、宮城の方向を見たら明るくて……。……朱国のこともありますし、何かあったのかと……。もしかして藍公がお調べになっていた件と関係があるのかもしれないと思い来てしまいました……。申し訳ありません。芳公主には無理を申し上げて連れてきていただきました」


 ひどく恐縮していながらも、文莉は急ぐ足取りで昊尚の元へ向かい紙片を差し出した。


「これをお届けに来ました」

「これは……」


 昊尚がその紙片を受け取ると、文莉が強張ったままの顔で言った。


「詩集に綴じられていた紙片の破れていた部分です。一緒に買い取った他の本の間に挟まっていました」


 文莉が話すのを聞きながら、昊尚はその紙片を見た。


 ”能正 応砕貴石”


 紙片にはそう記されていた。


「何だ? それは」


 壮哲が昊尚の手元を覗き込む。

 昊尚は辛王の末裔だという共山甫の詩集のことをざっと説明すると、近くにいた兵に紙と筆を持って来させた。

 その紙に、先に見た詩集に挟まれていた紙片の文を記し、更に文莉が持ってきた紙片に書かれているもの書き足す。


 ”虎沈深海 而自底見 如不能正 応砕貴石”


 そう書き上がった文を昊尚が声に出して読んだ。


「……虎深き海に沈む。(しこう)して底より(あらわ)る。……()し正しくすること(あた)わざれば、(まさ)に貴石を砕くべし」


 そして、昊尚は文字を見つめると、ゆっくりと瞬きをした。


「……そうか」


 ぽつりと呟いた昊尚を壮哲が怪訝な顔で見る。


「もしかしたら受叔の狙いは、蒼国の印璽かもしれない……」


 昊尚は顔を上げると壮哲に言った。




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