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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
135/192

二年孟秋 寒蟬鳴 6



 申黄(しんこう)国。

 千年ほど前、大陸一帯はこの国に治められていた。玉皇大帝の加護を得た辛氏が王を務めたと言われる。

 しかし、長く続きすぎた国は、役人の腐敗から始まり、王が仁を無くし義を捨て、民を圧するようになると玉皇大帝の加護を失った。そして沈むことはないと思われた黄国は、圧政を強いられて蜂起した民たちに王が討たれ、滅びた。

 君主を失った大きすぎる黄国の国土には、辛王を討つために各地で指導的役割を果たした者たちによる幾つもの国が乱立した。しかし、それらのいずれも、神から加護を得ているわけではなかった。

 神の加護のない王の治める国々はそのほとんどが非常に短命であった。それゆえ、黄国が滅びた後の約二百年は極めて不安定な戦乱の世となった。後世、”神無き時代”と称せられるようになった期間である。

 しかし、その中で唯一、黄国の滅亡時から国を存続させていた芳氏が元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊の三神の加護を得て改めて峯紅国を建国すると、周辺の国を幾つか併呑し、大陸一の大国へと育った。芳氏以外にも徐々に神々の加護を得る者が現れるようになり、ようやく神無き時代は終焉を迎えた。

 それ以降、加護を得た王の統治する国が興亡を経て今に至っている。







「受叔が玉皇大帝から賜ったという御璽は見たか?」


 昊尚が聞くと、月季がまだ困惑を残したまま言う。


「その御璽の話は今初めて聞いたのよ」

「黄国の御璽は黄色の金剛石だったはずだ。我が国のものと同様に妖璽だったと言われている」


 昊尚が目を(すが)めて月季を見る


「……黄色の石よね」


 月季は額に手を当てて目を瞑り、朱国の宮城で受叔を見た時の記憶を探った。


「……見た覚えは……ないわね……」


 手を額から下ろすと、残念そうに溜息とともに吐き出す。


「そうか……。演説を聞いていた喜招堂の者も、何かを掲げてはいたが、その実体が何なのかはわからないと言っていた。そもそも大きいものではないからな」


 昊尚が言う。


「黄翁は本当に玉皇大帝の加護を賜ったんだろうか」


 壮哲が腕を組んだまま渋い顔で呟き、昊尚を見る。


「玉皇大帝がご加護をくださるような相手とは思えないんだが……」


 そう付け足すと、昊尚が壮哲に頷き返す。


「同感です。しかし絶対にないかと言われるとちょっとわかりませんね。我々人には知り得ぬ大帝のご意志があるかもしれませんから」


 その場に割り切れない沈黙が降りる。


「もし受叔が加護を賜って朱国を治めようとしているのであれば、他国の我々が受叔を攻撃して大丈夫なのかしら」


 月季が不安を滲ませた声で言う。


「そうだな。受叔への加護が朱国の民を救うために玉皇大帝が下されたご判断なら、武恵殿には気の毒だが、武恵殿に勝ち目はない。それに他国の我々が加護を得ていない武恵殿に加勢するのは大帝のお怒りを買う可能性は十分にある。はっきりするまでは朱国へ送った援軍は手を出し辛いな」


 昊尚が顔を曇らせると、壮哲も、そうだな、と同意し、ふと思いついたように言った。


「黄翁……受叔が本当に黄国の再興を目指しているのだとしたら、どの程度を目標にしているんだろうな……。元のとおりの黄国をと考えているのならば、朱国だけで満足するとは思えない。領土を広げることを目論むだろう」

「そうなると、嫌でも隣国の我が国にも影響は出ますね」

「まあ規模的に言ってまず最初に我が国を狙うだろうな」


 うっかり苦いものを飲み込んでしまったように、壮哲が顔をしかめる。


「たとえ万が一玉皇大帝が受叔に加護をお与えになったのだとしても、蒼国を侵略させるのをお許しになったわけではないでしょう。蒼国は加護を失っていませんから。……まさかとは思いますが失ってませんよね?」


 昊尚が淡々と、念の為、と聞くと壮哲が苦笑する。


「失った覚えはない。お前こそ大丈夫だろうな」

「その筈ですが」


 昊尚も笑うと椅子から立ち上がった。


「もう朱国へ行くの?」


 月季が昊尚を見上げる。


「いや、朱国へ行く前に黄国のことをもう少し調べてくる」


 そう言うと昊尚は壮哲を見た。


「そういうわけなので、朱国へは明日の朝出かけることにしたいと思います」


 壮哲が頷くのを確認すると月季には、「しばらくおとなしくしてるんだぞ」と念を押して昊尚は部屋を出ていった。

 月季はその背中を見送った後、剣に付けた琥珀をじっと見つめた。







 昊尚が黄国のことを調べるために史館を訪れると、業務が終わろうかという時刻になっていた。


「こんな時間に申し訳ないんだが、少し書庫を見せてもらえないだろうか」


 昊尚が執務室へ声をかけると、正宗、文莉と話をしていた範玲が振り向いた。文莉も昊尚に気付いて会釈する。

 範玲が文莉たちに、ごめんなさい、と断って昊尚の元へとやってきた。


「どうしたんですか?」

「いや、急ぎで調べたいことがあって」

「何をお探しですか? お手伝いします」


 範玲がそう言いながら、書庫への立ち入りの管理簿を昊尚に渡す。


「すまない。もうすぐ終わりの時間なのに。だけど助かる」


 管理簿に必要事項を書き入れながら昊尚が言う。

 生き字引のような範玲が手伝ってくれれば、時間の短縮になることは間違いない。

 昊尚が管理簿から顔を上げると、やる気満々といった眼差しの範玲と目が合う。

 史館にすっかり馴染んで、こうして人の役に立てることが嬉しくて仕方がないらしい範玲に、昊尚のやや強張っていた気持ちと目元が緩む。


「申黄国について調べたい。特に黄国の滅亡の時のことが書かれているものと、王家の辛氏の末裔について何か手がかりを探しているんだが」


 昊尚が言うと、範玲は顎の下に手を当てて考えるように首を傾げた。


「申黄国のことを調べるには、紅国の研究者たちが作った『申黄書』がいいと思います。系統立てて網羅的に書かれていて、信憑性もあると言われています。でも、逆に言うと、きちんと作られているもので、ここにあるのはそれくらいになってしまいます……。後は断片的なものばかりで、しかもいずれも結局そのほとんどが『申黄書』を元にしてるようですし」

「そうなるか……」


 昊尚が呟くと、範玲が頷いて残念そうに言う。


「黄国についての原資料は辛氏が討たれた時に焼き払われたようで、残ったものも神無き時代のうちに消失してしまったと言われています。神無き時代からずっと続いている唯一の国の紅国には、『申黄書』を編纂した際の資料はあるみたいですが……」


 資料は多くはないだろうとは思っていたが、範玲がそう言うということは、ここには本当にほとんど無いのだろう。しかし今から紅国に行くだけの時間の余裕はない。


「では、辛という姓の一族の来歴について調べられるような資料が……随分曖昧ですまない……あれば有難いんだが」

「姓氏についての本はいくつかありますよ」


 そう言った後、範玲の碧色の瞳が憂鬱に沈んだ。


「……ただ、ご存知だと思いますが、申黄国の王家の辛氏は悉く処刑されたと『申黄書』には書かれています。申黄国が滅ぼされた時の王家狩りは相当苛烈だったようで、公主の降嫁先の末孫まで処刑されたそうです……。処刑を逃れた人たちも、捕えられるのを怖れて黄国王の末裔だということは隠して暮らすうちに時が過ぎて、血筋も忘れられ曖昧になったらしいです」


 昊尚が範玲の話を聞いて、ふむ、と考え込む。

 会話が途切れると、範玲の後ろからこっそりと遠慮がちな声がした。


「……範玲殿、また来ますね」


 文莉が帰ろうとしているところだった。


「はい。是非」


 範玲が振り返って言うと、文莉は範玲に微笑み、昊尚にも会釈をした。


「ああ、文莉殿。お話中を邪魔して申し訳ありませんでした」

「あ、いいえ。こちらこそ」


 昊尚が謝ると、文莉は恐縮し、もう一度頭を下げて戸口へと向かおうとした。そこで、ふと迷ったように足を止めて振り返った。


「……あの、そういえば、全く見当違いかもしれないのですが、詩人に自分は黄国の末裔だ、と言っている人がいました。……あ、お話を勝手に聞いてしまってて申し訳ありません」

「いえいえ。それで、末裔だというのは何という人ですか?」


 昊尚が聞くと、文莉が記憶の底を(さら)うように少し目を伏せた。


「有名な方ではないのですが、確か、共山甫という人です。黄国を題材にした詩をいくつか書いていました。私家版の詩集に、黄国王の末裔としてこの詩を作って残す、と書かれたものを読んだ記憶があります」


 文莉の言葉に、範玲が、あ、と小さく声を上げた。


「共氏、って降嫁した公主の嫁ぎ先のうちの一つです」


 黄国王の系図を思い浮かべながら範玲が言うと、昊尚が文莉に続けて尋ねる。


「その共山甫という詩人はいつの人ですか?」

「もう百年以上昔の人です」

「その詩集は見ることができますか?」

「うちの書庫にあると思います。整理していない棚で見たような気がするので……」


 杜家の膨大な蔵書の中の未整理の棚にあるとしたら探すのには手間がかかりそうだ。


「なるほど。よかったらその共山甫のことが書いてある本を見せていただけますか? 無理を言って申し訳ありませんが、できれば早いと有難い」

「承知いたしました。藍公のお部屋にお持ちします。見込みはずれだったら申し訳ありません」


 文莉はそう言うと、範玲に再度別れの挨拶をして急いで帰って行った。


「では、申黄国についての本のあるところへご案内しますね」


 範玲が書庫へと昊尚を先導した。

 書庫の他国の歴史が書かれている資料の書架へと進む。


「このあたりです」


 そう言って昊尚に示すと、昊尚が書架から『申黄書』を抜き取ってぱらぱらと()る。更に数冊、中を確認する。

 範玲は何本か奥の書架へ行くと、少し悩んでいくつか手に取り、「姓氏のことはこれがいいかもしれません」と昊尚に渡した。


「何冊か借りていってもいいか?」


 昊尚が手にした本を見せて聞くと、範玲が「では手続きを」と事務室に戻ろうと背を向けた。

 その華奢な背中に昊尚が声をかけた。


「……朱国に行くことになった。明日の朝に発つつもりだ」


 立ち止まって振り向いた範玲の瞳は、突然のことに困惑の色を宿していた。


「朱国に……ですか?」

「ああ。……朱国の宮城が占領されたのは知っているか?」


 昊尚が範玲の前に立って真っ直ぐ見つめる。


「……葛将軍が援軍を率いて行かれたと聞いています」


 昊尚を見つめ返す範玲の瞳に表れた色が、次第に困惑から不安に変わる。


「私もその応援に行くことになった。黯禺がいるみたいなんだ」


 範玲の碧色の瞳が酷く揺れた。昊尚が行くというその意味を理解したからだ。


 ……こんな顔はさせたくなかったな。


 昊尚は手にしていた本を棚に置くと、範玲を引き寄せた。


「驚かせてすまない。だけど言わずに行くわけにはいかないから」


 昊尚がそう言うと、範玲が黙ったまま昊尚の袍をぎゅっと掴んだ。

 範玲の気持ちが落ち着くまで昊尚はそのまま待った。


「……怪我を、しないでくださいね……」


 ようやく聞こえた範玲の掠れた声は震えていた。


「大丈夫だ。君からもらった不撓の梅のお守りも持って行く」


 範玲が昊尚の腕の中でこくりと頷く。昊尚が範玲の背中を落ち着かせるようにとんとんと優しく叩く。


「……こんなとこでこんなことしてたら怒られるな」


 悪戯っぽく昊尚が言うと、範玲は、はい、と小さく言って額を昊尚の胸に押し付けた。

 範玲が袍から手を離すと、昊尚が腕を解いて範玲の顔を見た。

 不安を隠そうとする碧色の瞳を覗き込んで頬に触れる。


「ちゃんと無事に帰ってくるから心配せずに待ってて」


 昊尚がそう言うと、範玲は頬を包む暖かい手に自分の手を重ねてもう一度頷いた。



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