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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
134/192

二年孟秋 寒蟬鳴 5



 ぼんやりと月季が格子窓の外を見ていると、また誰かが隣の執務室に来た気配がした。


「芳公主様がお待ちです」


 事務官の声が微かに聞こえた後、足早に応接室に入って来たのは昊尚だった。


「もう起きて大丈夫なのか」


 椅子に座る月季を見て青味がかった黒い瞳が安心したように和らいだ後、心配そうに細められる。


「ええ」

「その腕、土螻(どろう)にやられたと聞いたぞ」

「ちょっとね」

「どういうことか説明してくれるんだろうな」


 一転、昊尚の口調が咎めるものになる。

 月季は、まあそうね、と言った後、座ったまま昊尚を見上げると、その後ろに視線を泳がせる。


「一人?」

「そうだが……どうした?」


 先ほど、昊尚を探してくる、と言って出て行った壮哲は一緒ではない。


 考えてみればそもそも、王自身がわざわざ探しに行くことが不自然だ。

 部屋を出る口実だったのだろうか。だとしたら自分の態度が不快にさせたのかも知れない。


 月季がそう考えていると、その当人が部屋に入って来た。


「ああ、昊尚、戻っていたのか」


 壮哲が昊尚に気付いて言う。

 その顔をちらりと見て、月季がそっと視線を逸らした。気まずさが胸の中に湧き出る。


「すまんな。待たせた。体調は悪くなってないか」


 しかし壮哲はいつものとおり(こだわ)りのない態度で月季を気遣う言葉をかけた。 


「……変わりないわ」


 答えながらほっとした反面。

 気まずさを感じているのが自分だけなのを知り、自意識過剰で滑稽だ、と少し月季の気が滅入る。

 そんな月季に気付いていないように、壮哲は月季の斜め前に腰を下ろして言った。


「じゃあ朱国で何があったのか聞かせてもらってもいいか」


 昊尚も、そうですね、と月季の向かいに座る。

 月季は胸の中に残っていた気まずさを大きく息と一緒に吐き出すと、顔を上げて淡々と朱国でのことを話し始めた。


 まず、一昨日蒼国に来たその足で朱国へ行ったこと。陽豊門前の広場にいた民から聞きとったこと。

 そして、内廷に入ろうとした時に、立ち入り禁止だと農民には見えない男に見咎められたこと。内廷に入ってその男の後をつけると黄翁がいたこと。覗き見た黄翁は聞いていた受叔の風貌と様子に合致していたこと。

 内廷に入ろうとした、という辺りから昊尚の眉間に皺が寄ってきたのに月季は気付かない振りをする。意識的に壮哲の顔も見ないように続ける。


「内廷には狍鴞(ほうきょう)土螻(どろう)がいた。狍鴞一頭と土螻二頭は倒してきたけど、他にももっといるかもしれない。もしかしたら他の怪物も。何の目的かわからないけど、虎とか熊なんかの死体みたいなのもあった。……あと、内廷の状況から黯禺がいるだろうということがわかった」


 月季は先ほどの壮哲の反応を思い出し、永賀殿の状況の具体的な説明を省いた。今月季の視界の端に映る壮哲は、視線を卓の上に置いたまま眉間に深い溝を刻んでいる。

 話が途切れた月季に昊尚が聞いた。


「どうして黯禺がいるとわかったんだ?」


 当然の質問だ。根拠を示さない証言に納得するわけがない。

 月季は小さく息を吐くと、努めて感情を表さず、何でもないことのように言った。


「永賀殿に首のない遺体が沢山あった。私の具合が急に悪くなったのは、その遺体をつついた土螻の角に黯禺の毒が付いてて、それで傷がつけられたせいだと考えると説明がつく」


 しかしそれを聞いて昊尚が一瞬言葉を失くす。そして呆れと非難の混じった口調で言った。


「そんなとこに一人で行ったのか」


 やっぱりこういう反応になるものなのか、と思いながら、月季は壮哲の方へと視線が流れそうになるのを堪える。


「忠全もいたわよ」

「そういう意味じゃなくてだな……」

「必要があったから行ったの。おかげで黯禺がいることも、黄翁が受叔だったってことも事前に分かったでしょ」


 自分の行動の成果を提示し、月季は可能な限り冷静に言った。


 壮哲にもこう言えばよかったのだ。


 咄嗟に感情的になってしまった先刻の自分に月季は内心で舌打ちをする。


「大雅や慧喬陛下は承知してたのか」


 昊尚は尚も月季に聞く。


「そんな時間はなかったから言わなかったわよ」

「じゃあせめて、朱国に行く前にここにいたんだから、私なりうちの陛下になり相談すればよかったじゃないか」

「……」


 昊尚が溜息混じりに溢すと、月季が黙った。

 その考えはあの時の月季には浮かばなかった。自分が解決すべき問題だと思っていたからだ。


「……でも、私だって別に勝算なく闇雲(やみくも)に行動したわけではないわ」


 一瞬、なるほど、と納得しかけたのを打ち消すように月季が反論する。


「黄翁は受叔だろうと思ってたから、黯禺がいるかもしれないということは警戒してた。それに私、玄亀の石を持たされてるの。持っていなかったら流石に内廷にまで入ろうとは思わなかったわ。とにかく黄翁が受叔かどうかを確認する必要があった。狍鴞にしろ土螻にしろ、数頭なら始末できるわ。怪我をしてしまったのは剣が折れてしまったからで不測の事態だっただけ」


 顔は昊尚に向けていたが、月季は壮哲が聞いていることを意識する。さっき仕損なった言い訳だ。


「あの剣が折れたのか?」


 すると昊尚が剣が折れたことに反応した。


「いいえ。私の剣は無事。土螻を刺して抜けなくなったから別のを使ったらそれが折れたの」

「それで怪我をしたのか」

「まあ、そういうことよ」

「月季殿のその剣は特別なのか?」


 それまで黙って聞いていた壮哲が口を開いた。月季は腰に差したままの剣に触れて少し自慢げに微笑む。


「父上からいただいたの。父上が魔物を討伐に行った時の剣を作った職人に作ってもらったものよ」


 月季らの父親は紅国の李将軍だ。単身で凄まじい武功を立てたことから紅国の伝説の将軍と言われている。


「だからそこいらの怪物なんかにやられる訳がないわ。それにこの剣には陛下がくださった琥珀の飾りも付いてるし」


 月季が我が身を守ってくれると絶対的に信頼するお守りのような剣を大事そうに撫でる。しかしそれを苦い顔で見ながら昊尚が言う。


「だが、怪我をしたのは事実だ。月季は公主としてもっとよく考えて行動するべきだぞ」


 月季はむっとして昊尚を睨む。しかしこれ以上この件で話を長引かせるのは得策ではない、と思い直し折れることにした。


「……わかったわよ」


 そう言ってふいっと横を向いた。その拍子に一瞬壮哲と目が合う。その縹色の目は咎めているようなものではなかったが、月季はつい目を逸らした。

 目を逸らした後に、月季は先刻から壮哲の顔色を気にしすぎていることに気付き、眉を顰めた。

 こんな余計なことに気を遣っている場合ではない。それにまだ話そうと思っていたこともある。

 月季はそう自分を窘めると、大きく息を吐き背筋を伸ばして気持ちを切り替えた。


「黄翁のことを確かめようとして覗いた時に聞いたことが気になってるの」


 昊尚と敢えて壮哲をきちんと交互に見て言った。


 よし。いつものとおり。


 月季は気にしていたのをなかったことにした。


「何を話してたんだ?」


 壮哲が聞いた。


「それがよく聞き取れなかったのだけど……紅国のことを話していたみたいなの」

「紅国のこと?」

「そうなの。ずっと何て言ってたのか考えてたんだけど……」


 月季は何度もあの時のことを思い返してみていた。


「……紅国の最後をどうとか言っていたと思う」


 それを聞いて、壮哲は顎に手を当てて唸る。


「紅国の最後とは、えらく不穏だな……」


 昊尚が険しい顔をして、「紅国の最後……」と呟く。


「そう。だから、黄翁が朱国を手に入れた後に紅国に何かを仕掛けてくるのではないかと思って」

「そのことは国元へは知らせたのか」


 壮哲が聞くと月季が頷く。


「勿論。忠全に持たせた書状に書いたわ」


 すると、身じろぎせず何かを考えていた昊尚が顔を上げて壮哲を見た。


「……喜招堂からの報告によると、黄翁が演説の中で、玉皇大帝から御璽を賜ったと言っていたとのことでしたよね」

「ああ。そう言っていたな」


 壮哲が相槌を打つ。朱国喜招堂からの第二報で、黄翁が民に向けておこなった演説の内容が報告されていた。


「複数の国が同一の神から加護を賜っているという話は聞いたことがありませんでした。ですから、黄翁が玉皇大帝から御璽を賜ったと言っていると聞いても、それは虚言だと判断しました」


 沈思して話す昊尚の瞳の青味が深くなる。


「……しかし、月季の今の話を聞いて、我が国の太祖が玉皇大帝から加護を賜る遥か昔、玉皇大帝が守護していた国を思い出しました」


 そこまで言うと、壮哲と月季の眉が同時に上がった。


「……まさか、コウコクって……」


 月季が呟くと、その後を壮哲が引き継いだ。


「申黄国のことだと言いたいのか?」


 昊尚は壮哲に、ええ、と頷いた後、月季に視線を移した。


「……黄翁が"コウコクノサイコウ”と言っているようには聞こえなかったか?」

「……コウコクノサイコウ……黄国の再興……ってこと?」


 月季の琥珀色の瞳が困惑する。


「そうだとすると、納得できる」


 昊尚が静かに言う。

 腕を組んだ壮哲から低い声の呟きが漏れた。


「そうか……。黄国の王は受叔の姓と同じ辛氏だったな」


 昊尚が苦い顔で頷いた。



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