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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
133/192

二年孟秋 寒蟬鳴 4



「もう大丈夫なのか?」


 月季が目覚めたと理淑から知らせを受けて壮哲が一人太医署へ向かうと、ちょうどその本人が部屋から出てきたところだった。

 もう夕方に近い。月季は随分眠っていたことになる。

 月季はちらりと壮哲を窺うと、きまりが悪そうに目を逸らす。


「ええ。文始先生の薬が効いたのだと思うわ」


 そうは言うが顔色はまだ良くはない。


「熱は」


 壮哲が無意識に月季に手を伸ばす。

 しかし。

 月季が咄嗟に身を引いた。結果、壮哲の手は宙に浮いた状態になる。


「……大丈夫よ」


 月季が気まずさを誤魔化すように言う。

 そうか、と壮哲は、やり場を失った手を下ろした。


「腕の傷はどうだ?」


 壮哲が聞くと、月季は確かめるように左腕にそっと手をやる。


「平気よ。まだ熱を持っているみたいだけど、大して痛くないわ」


 そう月季は言ったが、腕を触った時に若干その美しい眉が歪んだ。

 月季は視線を下の方に向けて彷徨わせ、口を開いた。


「……あの……ありがとう。迷惑をかけて申し訳なかったと思ってる。理淑殿にも迷惑をかけたし……」


 月季がもぞもぞと言う。


「いや。無事そうでよかった。……そういえば、理淑はもう帰ったのか」


 言いにくそうに礼の言葉を口にする姿に壮哲が少し和みながら、夜通し月季に付いていたはずの理淑の姿がないことを尋ねる。


「一度家に帰ってってお願いしたの。私が粥を食べたのを確認してようやく、ついさっき……」

「そうか。……で? 月季殿はどこに行くつもりなんだ」


 壮哲が聞くと月季の眉根が寄る。


「……迷惑をかけたままで申し訳ないけど、余りゆっくりしていられないの。帰らないと。……だから貴方にお礼と朱国の状態を話したら……と思って出て来たんだけど……」

「……夕べ教えてくれた朱国の状況は我が軍に伝令を出した。合流した紅国の軍にももう伝わってる」


 それを聞いて月季が一瞬固まる。そして顔を上げてようやく壮哲を真っ直ぐ見た。


「どういうこと? 軍って、朱国に? 派兵の要請が来てたの? 武恵殿は生きてるの?」


 月季が立て続けに疑問を口にした。


「ああ。やっぱり知らなかったのか」


 琥珀色の瞳が困惑して壮哲を見上げる。


「だって……てっきり……」


 その先の言葉を濁す。武恵の私室のある永賀殿の惨状から、月季はもう彼らの命が無いものと思っていた。


「武恵殿と王妃は無事に脱出して、寧豊を出ていた徐将軍と合流したそうだ。派兵の要請は昨日の朝のうちにきて、月季殿が来る前にうちの軍は出発した。今は紅国の軍と合流して寧豊付近で待機中だ」


 壮哲が月季の問いに答える。


「……そう。よかった……」


 安堵の溜息と同時に気が抜けたように呟く。

 朱国へ向かっていた紅国の援軍とは行き違ったのだ。


「なんだ。じゃあ寧豊で待っててもよかったのね」

「でも、お陰でこちらも早くその情報を得ることができて助かった」


 壮哲のその言葉を慰めととったのか、月季が複雑な顔で目を逸らした。そこへ壮哲が続ける。


「それから、忠全が戻ってきた。別室に待たせてある。ちゃんと紅国へ書状は届けたようだぞ。大雅殿から私宛の親書も預かってきてくれた」

「え? 兄上は何て?」


 再び月季が緊張を宿した瞳を上げた。


「連絡をくれた件は承知したから月季殿には安心しろと伝えてくれということだった」

「そう……」


 月季がほっとして息を吐く。とりあえず月季が持っていた荷物を大雅が引き受けてくれたことに安堵する。


「それと、物凄く怪我のことを心配してるみたいだ。直ぐに飛んで来そうな勢いの書きぶりだった。慧喬陛下も心配してるそうだ。体調が戻るまでしばらく月季殿を預かってほしいと頼まれた」

「陛下も……」

「紅国にはこちらからも連絡しておいた」

「ありがとう……」


 月季の緊張が解れたのを確認して壮哲が言う。


「だからもう少し休んでた方がいい。まだ顔色が悪いぞ」


 しかし月季は首を振った。


「もう大丈夫だってば」

「駄目だ。せめて明日までは寝ていろ」

「もう体も動くのに、黙って何もせず寝てるなんて無理よ。性分に合わない。本当に病気になりそう」


 月季が心底嫌そうに壮哲を見る。壮哲は困った顔で首に手をやる。


「じゃあ、寝てなくてもいいからここで大人しくしててくれ」


 しかし月季は不満そうな目で無言の抗議をする。壮哲は首を軽くぽんぽんと叩く。


「……じゃあ朱国のことを詳しく教えてくれるか。昊尚も朱国に行くことになったんだ。実を言うと月季殿が目を覚ますのを待ってた」


 壮哲が言うと、月季は、そうなのね、と何かを考えているような顔で呟く。その顔に少し引っかかるが、


「部屋に戻っててくれ。昊尚も連れてくる」


 そう言って壮哲が太医署の部屋へ月季を戻そうとすると、月季がきっぱりとそれを拒否した。


「いいえ、私の方が行くわ」

「しかし」

「嫌なのよ。ここ。……私、医者が苦手なの」


 壮哲の目を見ないでぼそりと言う。言い訳が不自然だ。


 何かを企んでいるのかもしれない。

 疑わしいが、無理にここに押し込めておいても大人しくしている月季ではないだろう。


「……なら、とりあえず昊尚のところへ行くか」 


 壮哲は太医署の職員に理淑への伝言を残し、月季を連れて昊尚の執務室へ向かった。




 向かう途中で、待機させていた忠全のところへ寄った。神妙な顔で待っていた忠全は、月季の姿を見るなり泣きそうになった。

 執務室に昊尚はいなかった。事務官に聞くと、すぐに戻ってくるはずだと言うので、忠全は室外で待機させて隣の応接室で待つことにした。

 椅子に腰掛けると、月季が、ほっと息を吐く。

 聞いたところで素直には言わないが、やはりまだ立ち通しは辛いのだろう。

 壮哲が月季の向かい側に座り、怪我をした月季の左腕に目をやって言った。


「文始先生の薬を飲んであんなに熱が出たというのは、やはり毒のせいだったということになるのか」

「……そうね……。土螻は毒を持ってないはずだから油断してたけど……」


 美しさは変わらないが、いつもよりも少しばかり血色の悪い月季が長い睫毛を伏せる。

 月季も自分の体調が急激に悪くなった原因を考えていた。


「思い当たるとすれば……あの土螻が首のない遺体を角でつついていたことかしら……」

「……どういうことだ?」


 聞き返す壮哲の声が低くなった。

 それには気付かず、月季は朱国で見た光景を思い出して込み上がってきた吐き気を堪えながら答える。


「宮城の中に首のない遺体が沢山あって……だから黯禺がいると思ったのだけど、その遺体が毒に侵されていたとすれば、角にそこから移った毒が付着してた可能性があると思うの」


 考えた末に思い至った結論には同意が得られるだろう、と月季が顔を上げると、そこには唖然とした壮哲の顔があった。


「そこまで……そんな状況のところにまで行ったのか……!」


 そして壮哲の口から出たのが期待した台詞ではなかったことに月季がたじろぐ。


「え……だって」

「そんなとこに行って土螻に襲われたのか」

「……そうだけど」

「忠全は何してたんだ」


 忠全のいる回廊の方に壮哲の視線が向かう。


「ついて来てたわよ?」

「当たり前だ」


 視線が戻り即座にすっぱりと返される。


「そうじゃなくて……」


 壮哲は何かを言いかけたが、琥珀色の瞳を見て、そのまま額に手をやって長く息を吐いた。


「何よ」


 月季が身構えると、壮哲が卓に肘をついて額に手を当てたまま険しい顔で月季を見た。

 それを挑戦的な目で月季が見返すと、壮哲が言った。


「月季殿の腕が立つことは承知してる。武人として信頼できることも分かってる」


 一度壮哲が溜息を挟む。そして眉間に皺を寄せたまま少し間を置いてから、顔をあげて真っ直ぐ月季を見た。


「だけどあまり無茶をするな」


 向けられた縹色の瞳と届いた深い声に月季は図らずも動揺した。


「あ……貴方には関係ないでしょう」


 動揺のあまり、口から出たのは突き放して壁を作る言葉だった。


 しまった。


 月季は即座に後悔した。


 壮哲が心配して言ってくれたことは分かってるのに。壮哲自らがあんな風に駆けつけて来てくれたというのに。

 あの時どれほど心強く感じたか知れないのに。


 だが、出てしまった言葉はなかったことにできない。

 月季が視線を逸らすと、壮哲は何かを言いかけて開いた口を、何も言わないまま閉じた。そして月季を困ったように見つめると、再び口を開いた。


「……仮にも紅国の公主だろう。月季殿に何かあったら取り返しがつかない」


 壮哲の言葉に月季の肩がぴくりと震える。


「……。そうね。紅国の公主だものね」


 ぼそりと言うと、横を向いたまま黙り込んだ。

 その月季を壮哲も無言で見ていたが、不意に立ち上がった。


「すまん。少し席を外す。直ぐ戻る。昊尚を探してくる」


 そう言って壮哲が応接室を出て行った。

 部屋に一人残された月季は長い溜息を吐いた。床に落ちて行った溜息は後味の悪さと苛立ちを織り混ぜながら広がった。


 あんなに世話になったくせに、あんな言い方するなんて。おまけにあの不貞腐れた態度は何だ。


 月季は自分が情け無くなった。


 "紅国の公主なんだから"


 そう言われることは慣れている。これまで何百回も言われている台詞だ。

 でもそれを壮哲に言われると面白くないと感じるのだ。


 心の中のもやもやが晴れないまま固まったように月季がじっと座っていると、壮哲が出ていった時に締め損なった扉の隙間から声が漏れ聞こえてきた。

 昊尚の執務室に誰かが訪ねて来たようだ。


「藍公は?」

「すみません。もう戻られると思いますが」

「そうか……」


 待機していた事務官の答えに、客は明らかに残念そうに溜息を吐いた。


「陛下のお気持ちはどうなのか、藍公に探りを入れに来たんだが……。お忙しいのはわかるがそろそろはっきりさせてもらわないと」

「あの……宗正卿……」


 事務官の焦った声が話を遮ろうとする。しかし気付いた様子はなく、客はそのまま話を続ける。


「このままでは内定したのに中途半端な状態の文莉殿も気の毒……んん? どうしたのだ?」


 ようやく気付いて話を中断する。


「……応接室にお客様が……」


 事務官の声の後、ぼそぼそと話をする気配がして、あたふたと誰かが去って行く音がした。

 ぼんやりと聞いていた会話が月季の頭の中でだんだんと意味を成してくる。


 "内定したのに中途半端な状態の文莉殿"


 文莉……。どこかで聞いたことのある名だ。


 そうだ。


 この間範玲と一緒にいた女性の落ち着いた面差しと柔らかな声が浮かぶ。


 客のことを事務官は、宗正卿、と呼んでいた。

 ならば"内定"とはお妃候補のことだろう。お妃候補選びが進んでいたと壮哲も言っていた。

 ああ。そうか。壮哲殿のお妃候補はあの女性(ひと)だったのか。


 凪いだ水面のような瞳が一瞬揺らいだのを思い出す。


 あの時、何か問いたげだったのはそういうことか。

 穏やかで思慮深そうで、一緒にいたら気持ちを安らげてくれそうな女性(ひと)だった。

 自分とは随分違う。全く違う。


 先ほどの壮哲の険しい顔が浮かぶ。


「そうよね」


 月季はぽつりと呟いた。


「お似合いだと思うわ」

  


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